向島文化サロン
【吉原開基400年 花開く遊郭文化の光と影】の2回め、
「新吉原への移転」に参加しました。
講師は、
相変わらず博学で
超おもしろい、渡辺憲司先生!
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<MEMO>
・「のたうち回る」の「のた」は「沼、泥」の意味。
(イノシシやシカなどの大型哺乳類が
身体の表面に寄生する虫を落とすために
泥浴び・水浴びをすることから来ている)
もともとは悪い意味ではなかった。
・摩利支天の使いは「イノシシ」。
大石内蔵助が信仰していた。
(武田信玄、上杉謙信、徳川家康なども)
摩利支天は、のちに「勝軍地蔵」へと変わる。
・葛飾北斎はイノシシの絵が一番うまい。
シーボルトが『NIPPON』の表紙にも使った。
・坂戸の「長久寺」に、かわいい猪に乗った勝軍地蔵がある。
・七夕、ざるそば、年越しそばは吉原が発祥。
・吉原は隅田川の掘削で出た土砂を積み上げてできた場所。
昔から、雨が降ってもすぐ乾くと「土が自慢」だった。
そのほかに、深川は貝殻を敷き詰め、板橋は「煉瓦」を敷いていたため
雨でも汚れなかった。新宿の土は最悪(馬糞もまじってる)。
・吉原は3月になると「安行」から桜の木を持ってきて植える。
(駒込より、安行がメインだった。
毎年花の咲く時期だけ移植し、花期が過ぎると抜き去る。
桜の木の下には、山吹を植える。
「実のひとつだになきぞ悲しき」、実(み)がない=実(じつ)がない=現実世界ではない
⇒吉原は「嘘」の世界なんですよ、の意味。
・吉原は初めは昼しか営業していなかった(武士が相手のため)。
町人が力を持ってくると、夜も営業するようになる。
・房総の「油」も夜間営業が広まった大切な要素。
(イワシの油。伊能忠敬もこれで儲けた)
・吉原のそばには「紙洗橋」という橋がまだあるが
「紙洗橋」付近には再生紙の生産所があったそう。
古紙を細かく裁断し、煮て沸かし
冷やす間を「冷やかし」といった。
紙を“冷やかしている”間は暇なので、吉原へ遊女を見に行く。
それで「冷やかし」。
・大門(おおもん)は江戸時代は質素なもので
遊女の出入りも厳しくはなかったが、
明治になると門は鉄製になり、
遊女たちも廓に、より厳しく閉じ込められていく。
・「闇の夜は 吉原ばかり 月夜かな」 其角
言葉遊戯の「聞き句」といって、
どこで句を切るかによって、
一つの句で意味が正反対になる仕掛けがしてある。
⇒この句には、「吉原を通史的にみる場合の勘所」がある。
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Posted at 2019/01/20 20:01:39 | |
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