「伝 範頼館跡」と呼ばれる
息障院を後にして
向かいしは。
比企能員(ひき・よしかず)の館跡といわれる
宗悟寺。
このあたりの丘陵地帯の景色は本当に素晴らしく
ぜひともドライブにおすすめです!
宗悟寺には、
若狭の局(比企能員の娘。2代将軍・頼家の側室)が
持ち帰ったと伝わる
源頼家公の位牌、
若狭の局が夫頼家を失った苦しみから逃れるために祀った
蛇苦止(じゃくし)観音が
伝えられています。
お次は、すぐそばにある
比丘尼山(びくにやま)へ。
ここは、
東松山市の観光案内を見たときから
その山の形の美しさに惹かれ
ぜひ行きたいと思ったところ。
思った通り、いい場所でした!
(左にカメラをパン)
(右にパン)
比丘尼山は、女性が横たわったような美しい山。
その昔、比企郡司・比企遠宗の妻、
比企の尼が遠宗の没後、
禅尼となって草庵を営んだところと伝えられています。
『郡村誌』には、この比丘尼山について
「高一丈周囲八町村の西にあり
往時源頼家伊豆国修禅寺に於て斃せし時、
若狭局遺骨を奉し此村に来り、
遺骨を葬り、庵を結び居住せしにより、
庵を修善寺と呼び山を比丘尼山と呼ぶ
と口碑に伝う... 」と記しています。
頼朝の乳母
比企の尼は、
伊豆に流されていた頼朝を物心両面で支援し、
伝承では、月に一度、比企氏からの物資が届いたといいます。
比企氏の支援は、 20年の永きに及び、
頼朝の流罪永暦元年(1160年)から
治承4 年(1180年)に頼朝が旗揚げし、
平氏の目代山木館を襲撃するまで支援を続けました。
比企一族がいなければ
鎌倉幕府の成立はなかったと言っても過言ではないでしょう。
比丘尼山の北にある
「串引沼」まで歩きましょう。
「荒神社」。
途中、お馬さんなどもいて
ビックリしましたが
着きました。
この沼には、次のような伝説が伝わっています。
「その昔、夫頼家を殺された若狭の局は、
大谷村に逃れ比丘尼山の草庵に住み、夫頼家の菩提を弔っていましたが、
いつまでも夫を殺された悲しみから逃れられず悲しんでいました。
それを見かねた祖母比企の尼は、若狭の局に、
心の迷いを去らせるために、
鎌倉より持参し肌身離さず持っていた夫頼家から贈られた
鎌倉彫の櫛を捨てさせようと心に誓いました。
夜の明けはじめた早朝、
朝の勤行を済ませ、
祖母の比企の尼と二人連れだってこの沼に行き、
頼家形見の櫛を沼に投げ入れました。
櫛はかすかな水音を残して沼底深く沈み、
その姿が見えなくなりました。
その時若狭の局はもちろん、
比企の尼の両眼からも涙がとめどなく流れ落ちていました。
時は元久元年(1204年)7月半ば、
ちょうど、夫頼家の命日に当たる日であったといいます。」
土手に並ぶ桜は、
修善寺から寄贈された山桜で、
頼家桜と呼ばれ
真っ白い小さな花が咲くようです。
ソメイヨシノのように華やかではなく
若狭の局のようにしとやかに咲く山桜...。
いやー、
「鎌倉殿の13人」を見るのが
ますます楽しみになってきました。
比企一族の隆盛、そして、滅亡へ...。
比企氏が暮らした地域を歩いたからこその
強い思いが芽生えてきました!
(埼玉県民ですし)
この比企地区には、
鎌倉と同じ呼称の土地がたくさんあるようで
興味深いです。
比丘尼山の南には、
字は違いますが
伊豆の修善寺と同じ、「主膳寺」が。
その他にも
扇谷・梅が谷・菅谷・
滑川・腰越・大蔵などがあります。
Posted at 2022/01/30 10:02:28 | |
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