平家追討を果たし、
栄光の朝日将軍に上り詰めたものの
悲劇の武将となってしまった
源義仲ゆかりの地を訪ねました。
源義仲って
木曽義仲だから
生まれは「木曽」なのでは、って思う方も
多いでしょうが、
生まれはなんと、「嵐山町」!!
2歳の時に
これから訪ねる「大蔵館」で
お父さんを殺されたので
畠山重能・斎藤実盛らの計らいで
信濃国へ逃れたのでした。
その後、
源氏の棟梁の座を争う
頼朝のライバルとなります。
快進撃で都に乗り込み、
平家を追放する武功をあげるが、
後白河法皇と頼朝の政治力に翻弄される、義仲。
義仲を演じる青木崇高さんは
昨年の出演発表の際、
「
芥川龍之介は木曽義仲の、その男らしい人生に惚れ込み、
『木曽義仲論』まで書いていたそうです。
松尾芭蕉は自身の墓を木曽義仲の墓の隣に建てるよう
遺言を遺すほど彼を敬愛していたそうです。
『木曾義仲』とはとても魅力的な人物であったようです。
牛に松明をつけて平家を襲撃した、
という知識しかなかった私は自分がとても恥ずかしくなりました」と
語っています。
さてさて
大河では、どのように描かれるでしょう?
義仲の子ども、
「義高」にも要注目です。
脚本家の三谷幸喜さんは
こう述べています。
「鎌倉時代は、血で血を洗う、御家人間の内部抗争が多発していたのですが、
当時の日本人は首を刎ねることにためらいがないように思える。
「なんで、この場面で、この人が死んじゃうんだ!」と
思うような話がたくさんあります。
市川染五郎さんが演じる、
木曽義高(源頼朝の娘の若きフィアンセ)をめぐる話も可哀想で……。
どれくらい可哀想かはここでは言わないので、
ぜひドラマを観て下さい。」
観ます、観ますとも!!
(今回の旅で、最期はどうなるかを
学んでしまいましたが...)

(享年12歳......)
前置きが長くなりました。
「菅谷館跡」を鎌倉街道沿いに南下し、
「向徳寺」へ。
鎌倉時代の児玉党「小代」氏ゆかりのお寺。
銅造阿弥陀如来および両脇侍立像は
国の重要文化財。
お寺の外には鎌倉時代の板碑が15基。
最古は1250年、
鎌倉幕府滅亡の1333年のものも。
ご朱印拝受。
源義仲のお父さん、
源義賢(よしかた)のお墓を
お参りします。
(これはお墓のそばにあった不思議な板碑群。
一応、源氏、平氏関連のもの。
近くの宗教法人の方々によるものらしい。
深くは触れません)
なんだか
ワクワクしてきます。
このアプローチも最高。
埼玉県最古の五輪塔。
都幾川を挟んで菅谷館と対峙する位置にある
大蔵神社へ。
「大蔵館跡」の案内板と古い土塁があります。
ここ大蔵館で起こった
武蔵大蔵合戦で義賢は討ち死に、
子の義仲は木曽へ逃れていきます...。
いよいよ、義仲ゆかりの地へ
向かいます。
大蔵館跡から都幾川沿いに西に向かうと
そこは鎌形(かまがた)八幡神社。
平安初期に
坂上田村麻呂が宇佐八幡宮を勧請した社と伝わります。
源氏とのゆかりが深い神社です。
境内の御手洗は
社伝によると、
木曽義仲が生まれた際にこの水を汲んで産湯にしたそうで、
いまもこんこんと清水が湧き出ています!!
義仲生誕の地といわれる
「班溪寺(はんけいじ)」へ。
時刻は
もう14時近く。
お腹が空いたので
「都幾の丘 高柳屋」さんへ。
さすがは製麺所直営店。
めちゃくちゃおいしいです!
お店を出て
駐車場にいくと。
空からはひらひらと
やわらかそうな雪が舞っていました。
(東松山を走っているときには
ボンネットにはちびっこいアラレが
跳ねてました!)
Posted at 2022/02/06 15:38:45 | |
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