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レッズレノンのブログ一覧

2022年03月16日 イイね!

下野最大の武士団、小山氏ゆかりの地を訪ねる。(1/2)

下野最大の武士団、小山氏ゆかりの地を訪ねる。(1/2)
近頃「鎌倉殿の13人」ゆかりの地を巡っていますが。

今回は鎌倉幕府成立に多大な貢献を果たした

小山氏ゆかりの地を訪ねます。





まずは、小山を代表する古刹「天翁(てんのう)院」へ。


このあとに散策する祇園城跡の北端にあり、

小山氏の菩提寺

久寿2(1155)年、小山政光の開基といわれます。


小山氏は、平安時代に武蔵国に本領を有し

藤原秀郷の後裔と称した太田氏を出自とする地方豪族。

1150年頃、小山政光がはじめて

下野国小山に移住して小山氏を名乗りました。


政光は八田宗綱の娘(後に源頼朝の乳母である寒河尼)を妻とし、

頼朝の信頼が厚く、鎌倉幕府において重用されることとなりました。

(樹齢400年以上のコウヤマキ)




境内は約1万5千坪!!

もとは祇園城の一角にあったため、

境内には現在も土塁や空堀の跡が残っています。



本堂裏には行けませんが、立派な土塁が残っていますね。


今は、ゲートボール場かな?

幅の広い空堀跡。


「祇園城」の堀は深く、巨大なものが多く

必見です。


ご本堂で、ご朱印拝受。

ご朱印をいただくのは、久しぶりだなー。




この、待っている時間も私にとっては

とても大切な時間。

すごく落ち着きます。


ご住職が撮影された

生写真までいただいちゃいました。


ご住職の奥さまに「小山氏累代の墓所」の場所を尋ねます。
(いろいろと細かなお気遣いをいただき
ありがとうございました!!)

向かって、ご本堂の左側、

少し高くなったところです。


「祇園城跡」駐車場に戻り、

お城を探索しましょう!



駐車場の西側にある曲輪、空堀が

いきなり立派なものです。


思川(おもいがわ)沿いの断崖の上にお城はあります。


北側空堀。(鉄塔が邪魔ですけど)深くてダイナミック!





祇園城は、小山の中心市街地にあり、

東西500メートル、南北1200メートルの

広大な規模を誇る城郭。


場内に京都祇園牛頭天王社(現 八坂神社)を

祀ったところからこの名があります。


南へ向かいましょう。


橋の東側。


堀の幅から見て、

浅いなー(埋められたのかなー)と思いましたが

西側は、こんなに深い。


橋の東側の空堀をのぞき込むと

地下に巨大な土管が埋まっていました...。



樹齢900年あまりの大イチョウ。高さ15m。

伝説によると祗園城落城の際、姫が井戸に身を投げ、

後の目印にと側に挿したイチョウの小枝が大きくなり、

姫の霊が龍もり決して実をつけないという「実なし銀杏」、とのこと。







「祇園城」の写真では

この辺が使われることが多いかな。

「祇園橋」(ただいま工事中)。


西側に目を向ければ、そこはもう思川。

増水時には水堀になりますね。



現在、祇園城はあらゆる箇所で

法面崩落防止などの工事中。


小山の中心市街地(はずれ)にありますので、

古木倒壊の危険回避、城址公園の活性化などのためには

致し方ないのでしょうか?



絶賛築城中!! といった雰囲気が味わえました。これも貴重な体験♪





「城山公園」入り口。






思川沿いを南下し、

「小山政光・寒川尼石像」に会いに行きます。



今まで何度か「小山御殿跡」「小山評定跡」を尋ねましたが

思川側から見ると背後は断崖でした。

(表から見ただけでは「なんだか守りが弱いなー」とずっと思ってました。
古地図で見ると、祇園城の南側を活用して建てられていたんですね)


仲良く並ぶお二人は

63km先の思川の水源を指しています。




遠くに巨大なクレーンがあるところが

祇園城。







このあと、小山氏居城であった

中世の城郭の面影が強く残る「鷲城跡」

源頼朝の乳母であり、小山政光の妻、

寒川尼のお墓をお参りに

「称念寺」へと向かいます......。



Posted at 2022/03/16 18:32:15 | コメント(0) | トラックバック(0) | 神社仏閣 | 日記
2022年03月12日 イイね!

「越生梅林」は、太宰府天満宮にゆかりがあった。

「越生梅林」は、太宰府天満宮にゆかりがあった。

「越生梅林」は、越辺(おっぺ)川沿いに広がる梅林で

水戸偕楽園、熱海梅園とともに

「関東三大梅林」のひとつとされています。













長いこと埼玉に住んでいますが

こうして越生の梅林に

あらためて入園するのは初めて。

(何十回も通過はしていますが)



越生の梅は、

九州太宰府から小杉天満宮(現梅園神社)を分祀した際、

菅原道真にちなんで梅を植えたのが起源であると伝えられています。



梅園神社に残る棟札から、

太宰府天満宮と深いつながりがあったことがわかります。







太田道真・道灌父子も

越生の梅を愛でたようです。





江戸時代、梅は商品価値を持つようになり、

盛んに栽培されるようになったとのこと。



『新編武蔵風土記稿』の津久根村の項には

「土地梅に宜しく梅の樹多く植ゆ、実を取って梅干として江戸に送る。

比辺皆同じけれど殊に当村に多しといふ」
とあり、

昔から梅の生産が盛んであったことを伺わせます。









現在では、梅林を中心に

2万5千本の梅が栽培されています。





文化12(1815)年に書かれた『武蔵野話』には

「川の両岸も畑も山麓も人家も
一面に白梅花にして香風鼻を衝き、
実に仙家にいたりし心地せり。
建康寺の境より眺めば
その景色たとへんかたなし。
かゝる勝地あるをしらざる
遺恨かぎりなし」と

記されています。


「日光を見ずに、結構というなかれ」的な

景勝地ですね。


ちなみに、太田道灌のお父さん・道真の退隠地は

建康寺付近と推定されています。

道灌は、主君上杉定正に謀殺される1年前に

越生の父を訪ね、詩歌会を行っています。





明治34(1901)年、

歌人で国文学者の佐佐木信綱は

「入間川高麗川こえて都より 来しかひありき梅園のさと」という歌を

残しています。



田山花袋も何度か越生に足を運び、

紀行文『秩父の山裾』(大正8年<1919>発行)に、

「静かで、鷹揚で、のんびりしてゐる形は、

関東の山とはちょっと思はれない」


その印象を記していますね。




さてさて。

越生の梅林を愛でる方はたくさん来園されますが、

その元となった「梅園神社」をお参りする人は

少ないようです。







南北朝時代、武蔵国小杉村に

大宰府より天満宮を分祀。








梅園神社のご本殿は

享保元(1716)年に再建された流造・柿葺き。

覆い屋の隙間からのぞくと、傷んではいますが

朱の色がまだしっかりと残っています。






境内のしだれ梅。


今回、梅園神社の拝殿の前に立ち、

梅林方向を眺めていて

はっきりとわかりました。



越生の梅林は、まさしく

菅原道真公を慰めるための

自然の「神楽殿」。




主がいなくなっても

毎年春、

命の輝きを

私たちに見せてくれていますよ。






越生梅林一の古木。

樹齢約600年。




Posted at 2022/03/12 22:57:17 | コメント(1) | トラックバック(0) | 自然 | 日記
2022年03月11日 イイね!

大宮台地の「谷津」を味わう。

大宮台地の「谷津」を味わう。

大宮台地、最後の楽園(?)といわれる

「高尾宮岡の景観地」周辺を

散策しに来ました。






台地の尾根には

街道が発達しますね。


まずは、

大宮台地の標高最高地点(32m)にある

「阿弥陀堂」よりスタート。


絶景かなー。




「サンアメニティ北本キャンプフィールド」の駐車場に

クルマをとめて。







いざ、「高尾宮岡の景観地(さいたま緑のトラスト保全第8号地)」へ。


地中からコンコンと湧いた水が湿地をつくり、


歴史を感じさせる社寺林と屋敷林が一体となった斜面林が

その湿地を覆う。


そこには、さまざまな動物や生き物が集う...。


「谷津」には

そんな魅力がたっぷりと詰め込まれています。




いったん、景観地の際を歩いていると。

ん。


んんん。(柳の木の隣にあるものは、もしや)


わたしがぜひ見てみたかった

「北向き地蔵」さんです。


さっきまで、おじいさんがお参りしてました。





このお地蔵さん、

仏さまには珍しく北を向いていらっしゃいます。


「泥の団子」を供えて願いごとをし、

願いが叶ったら「米の団子」を供える信仰が

今も残っています。



約300年もの長い間、

連綿と続く庶民の信仰。


周囲の景色と合わせて

実にマッチしています。



すぐ近くには保育園があるので

ピンクのお帽子をかぶった

カルガモさんたちが、

続々とお地蔵さんの前を通っていきます。


お地蔵さんも

毎日元気なちびっ子たちが見られて

喜んでいると思います。


いつまでもみんなを見守ってくださいな。



しばらく歩くと

「須賀神社」。


本殿裏はもう、山の雰囲気。

この、劇的な変化も「谷津」の魅力。



実は。

今まで歩いてきた道は

伝 鎌倉街道だったと、後で知りました。


どおりで、由緒あるものが

並んでいたわけだ。


以前、この辺をお参りしたときは

なんで北本にこんな場所が集中してあるのかな、と

不思議に思っていました。



「高尾氷川神社」。






この一帯は縄文時代、

大きな集落が営まれていました。


祭祀に関わる遺物も

数多く出土しているようです。



湧水地点のひとつである、

弁天様を祀った「厳島神社」。

「高尾氷川神社」の向かいにあります。


なんで、下ってお参りするのかが

今回わかってよかった。


「高尾氷川神社」は台地のキワにあって

古代からの祭祀場。

そのすぐ下が湧水地で

後に弁天様(竜神伝説もあり)。


なるなる。




再び景観地内を通って

駐車場に戻ります。



他の平野部では見られなくなった

多くの希少種が生息してますよ。


お昼ご飯は、「カフェプラム」さんで。


この場所は、もと、プラム(梅)畑。


周辺は今でも一面の梅畑です。



「谷津」が育んできた

豊かな自然と文化を

存分に味わった1日でした。



(おまけ。「広報きたもと」より)


水とともに

暮らしていた、

わたしにとっては

一大テーマパークのような

かつての町の姿。

(こんなに活気があったとは。
今では想像もつきません)



Posted at 2022/03/11 21:27:52 | コメント(2) | トラックバック(0) | 自然 | 日記
2022年03月10日 イイね!

源範頼、ゆかりの地を巡る。(2/2)

源範頼、ゆかりの地を巡る。(2/2) 亀御前の供養塔がある

「阿弥陀堂」を後にし、

高尾宮岡の景観地(さいたま緑のトラスト保全第8号地)」を経て、

鎌倉街道沿いにある

「北向き地蔵」

「須賀神社」「高尾氷川神社」「厳島神社」にお参りし

中世の頃からの宿場町「石戸宿」へと向かいます。


(鎌倉街道沿いのお散歩は、里山の風景を堪能しながらの
最高のお散歩になりました。こちらはまた別途まとめます)


「城ヶ谷堤(桜土手)」下の駐車場に

クロスビーくんをとめて。



「石戸城跡」を抜けていきます。


岩付城と松山城を結ぶ

重要なお城だったそう。


かつて、上杉謙信も

このお城に短期間逗留。


(「一の郭」と「二の郭」の間を通り)




(左に「二の郭」を見上げながら)


(「三の郭」へ)


(「四の郭」は畑に)


石戸城跡を歩きながら

もう「石戸宿」の北側に入っていました。



最古の測量図と現代の地図を

比べてわかったのですが、

上の案内板が立っている場所こそ

北側の桝形!!


南側と合わせて

今に至るまで

しっかりと残されており

大感激です!


石戸宿の鎮守さま、「天神社」。




巨大なムクの木。










「放光寺」。


このような閻魔様の石像は

珍しい...。


大きなしだれ桜は

福島県三春町の滝桜の子孫。


さぁて、

いよいよ核心に迫ってまいりました!



国指定天然記念物「石戸蒲(いしとかば)ザクラ」がある

「東光寺」へ歩きます。



昔から

「なんで『蒲』って名前が付いてるんだろ?」と思っていて

何度か説明は読んでいたはずなのですが、

まったく自分の中では定着せず。


(参道)


しかし、源範頼さんのことを

いろいろと調べてきた今、

冠者」と呼ばれていた範頼さんと

「石戸ザクラ」が見事につながりました。

もう、忘れません。

(範頼さんは
遠江国蒲御厨(現・静岡県浜松市)で生まれ育ったため
蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)と呼ばれます)



東光寺、着。


入口のところにある桜が

「石戸蒲ザクラ」かっ。


さすがの風格。


などと、何枚も写真を撮っていたけど

こちらは、ソメイヨシノ......でした。


階段を上って右側に案内板。




渡辺崋山も来たんだなー。


日本で4番目に古い板碑(1233年)も

かつては根元にありました。


今は、本堂脇の収蔵庫内にあります。


ご対面っっ!!


ぉお。

これが日本五大桜に数えられる名木か。


ぉぉおお。(樹齢800年の迫力に圧倒されている心の声)



この桜、

大正11年に国の指定を受けた天然記念物で

樹齢はなんと約800年!!


日本五大桜に数えられる名木です。


山桜とエドヒガンの自然雑種と考えられ、

鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟、

蒲冠者源範頼(かばのかじゃみなもとののりより)の伝説が残されています。

石戸蒲ザクラは今年(2022年)で国指定100周年になります!


(北本市HPより)


この桜の樹種は「カバザクラ」といい、

世界でただ1本の品種!!

(ヤマザクラとエドヒガンザクラの自然交配種)


戦前までは、根回りが11m、

5本の大きな枝が伸びる

異形の桜だったそう。


根元の石塔にご注目。

渡辺崋山の絵にも

まったく同じ形で描かれていますね。



(右側には
「四方に垣根がめぐらしてあるけど、中がよく見えるように
格子の間を空けて描いたよ」って書いてあります。
読めた、読めた)


この石塔は

範頼さんの墓石とも

言われています。


この前行った

畠山重忠のお父さんの墓石も

木の根元にありましたので、

十分にその可能性はあると思います。





お寺の裏を回りながら

大宮台地の谷津をうまく利用した

「北本市子供公園」の駐車場へと

戻ります...。


うーん、

名残惜しい...。










Posted at 2022/03/10 12:39:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | 神社仏閣 | 日記
2022年03月09日 イイね!

源範頼、ゆかりの地を巡る。(1/2)

源範頼、ゆかりの地を巡る。(1/2)
本棚を整理していたら

北本市の特大観光マップが出てきたので

どこか面白そうな場所はないかと

探していましたら......。


なんと、源範頼さんゆかりの場所が

複数あるではないですか!


これは、行かないわけにはいきません。



「高尾さくら公園」脇の駐車場にクルマをとめて

「阿弥陀堂」へ。






阿弥陀堂には、亀御前の供養塔があります。


亀御前は、源範頼の正室

この付近を領していた安達盛長の娘です。


源範頼は、源義朝の6男。

頼朝の異母弟で、源義経の異母兄ですね。






亀御前の供養塔
ここ高尾の地には、昔から亀御前の伝説がある。
亀御前は源頼朝、義経と異母兄弟にあたる武将、源範頼の奥方で、
範頼が伊豆修善寺において非業の死を遂げた際、
夫の死を知った亀御前は、悲しみのあまり荒川に身を投げたという。
村人はその死を惜しんで塚を築き、供養塔を建てたと伝えている。

この供養塔は亀御前の供養塔といわれるものである。
その銘文によれば、かつては青石の巨大な平石塔であったが、
寛政十一年(一七九九)に常勝寺(現鴻巣市)へ
亀御前が愛用した薙刀とともに移したため、
その由緒を刻んで、建て替えたものであることがわかる。









境内には

樹齢約200年の

エドヒガンザクラ。


高尾さくら公園より

荒川方面を望む。






河津桜。





Posted at 2022/03/09 21:05:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | 神社仏閣 | 日記

プロフィール

「「日光例幣使街道」をぶら~りお散歩。 http://cvw.jp/b/861852/48679948/
何シテル?   09/27 13:55
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