以前、
「慈光寺」の魅力にはまっていた時期があり
その頃に、かつて埼玉にあった浄土式庭園を伴う
「平沢(へいたく)寺」の存在を知ったのでした。
東国の辺鄙な場所にある「慈光寺」に
なぜ、
平家納経、
久能寺経とならび
三大装飾経の一つに数えられる
国宝「法華経一品経」があるのか。
本当に不思議でしたが
頼朝が帰依していたお寺ということで
ある程度納得です。
(しかし、なぜ
京都のお公家さん(摂関家)が作った
きらびやかな「装飾経」が、
当時としてはまだまだ辺境の「武蔵の国」、
それも「慈光寺」に奉納されたのか?
は、まだまだ史料が足りず
解明できていないよう)
そうそう、
本日のお題は
「平沢寺」でした。
嵐山町・平沢には
かつて
東国有数の大寺院が存在していました。
その時代と場所から
畠山氏に係わる建造物とも考えられています。
畠山重忠は
鎌倉の
「永福(ようふく)寺」建立にも関わっています。
(「永福寺」は、源頼朝が文治5(1189)年に奥州平泉を攻めた後、
戦いで亡くなった数万の将兵の鎮魂のために建てた寺院。
頼朝は、平泉で毛越寺や中尊寺を見て、
永福寺の建立を思いたったとされています)
(ここの庭園をつくるとき、
どうしても動かない大きな岩を
重忠さん、運んじゃいました。
重忠ゆかりの地に行くと必ずといっていいほど、
「大岩を運ぶ・投げる」エピソードが出てきますよ)
(永福寺)
はっっっ。いかんっ。
永福寺の壮大なる浪漫に
頭を持っていかれたっ。
(年表を見ると、頼朝が庭園の岩の配置にこだわっていたことが
よくわかります。わがままな大泉が目に浮かびます)
平沢寺の現在の建物は
往時の場所とは違う場所に立っています。
後からいろいろ検証してみると、
この写真に写っている住宅群の下こそ
かつての堂宇跡です。
(もう少ししっかり見ておけばよかった!!
再訪決定です)
この写真も重要。
「白山神社」へ。
太田道灌の遺児・資康は、
1488(長享2)年、仇敵
上杉定正(さだまさ)と
「須賀谷原」で戦ったとき、
平沢寺に陣を敷きました。
道灌と親交の深かった
禅僧万里集九(ばんりしゅうく)は、
戦い直後の陣中を訪れ、
ここ、白山神社で詩歌会が催されました。
平沢寺は、平安時代の終わり頃、
重忠や義仲と関わりの深い秩父氏が密接に関わっていました。
創建については定かではありませんが、
平安時代末期には
重忠の曽祖父である秩父重綱ゆかりの人々によって埋納された
経筒(刻まれた年号・1148年)が
「白山神社」の裏手で見つかっています。
往時には
七堂伽藍と三十六の僧坊を有する大寺院であったと伝わる平沢寺。
発掘調査では当時、東日本最大級とされる堂跡も見つかっており、
堂の前面には池があったことがわかっています。
「不動堂」。
畑や田んぼ、道路工事などで出てきた礎石が
階段下に置いてあります。
今でもそこかしこに、礎石が頭を出しているようです。
巨大な礎石が
800年余のときを超えて
語りかけてきます。
駐車場にあるお地蔵様の足元も
かつての礎石です!
古の姿を想像しながら
まったり散策します。
左の宅地は
かつての池の跡(でしょう)。
池を挟んでお堂が建ち、
背後に山を背負う様子は
極楽浄土を表現したものとされ、
奥州平泉のような情景が広がっていたようです。
正面の住宅群がかつての
お寺の中心地。
田んぼの中の畦道に
旧参道が残されていると聞き
調査しましたが。
ここだっ!!
と思ったところは、
家に帰ってから調べてみると
見事に大はずれ!
後ろを振り返ると。
緑がまぶしい!
嵐山町のかつての発掘写真等を参照にわかった
旧参道(赤線)。
最後に歩いた
現在のご本堂そばの脇道。
ここが「方三間堂(ほうさんげんどう)」(阿弥陀堂)の
跡だったんだ!
Posted at 2022/05/05 15:39:51 | |
トラックバック(0) |
神社仏閣 | 日記