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レッズレノンのブログ一覧

2023年03月27日 イイね!

「多賀谷城本丸跡」~「小島草庵跡」。

「多賀谷城本丸跡」~「小島草庵跡」。
戦国時代、

この地方に勢力を持った多賀谷氏の居城跡で、

かつては下妻城と呼ばれていた「多賀谷城」へ。


本丸のあった台地が、現在、

多賀谷城跡公園となっています。












************************************
多賀谷氏は、初代氏家が

現在の多賀谷城跡公園の一郭に本丸を構え、

隣国豪族を攻めてその勢力下に置くほか、

小田原北条氏政勢の再三の来襲を撃退するなど

七代にわたり百四十七年間

下妻城主として常総地方に栄えていた。


慶長五年、関が原の戦いが起き七代重経は

佐竹氏とともに西軍に心を寄せ

徳川家康の再三の誘いにも出陣しなかった。

この戦いで家康に憎まれ石田三成にくみした理由で、

慶長六年(1601)二月、

城主追放城破却
となり当地を去った。

城主追放のとき

奥方始め姫奥女中達に行末を案じて

ある者は懐剣でのどを突き、ある者は館沼に身を投げた。

領民はこれを哀れみ

遺体をかき集め三の丸の一画に合葬した。

それが今に伝えられる美女塚である。


現在本丸跡にある

多賀谷氏遺跡碑は

旧主をしたう家臣子孫が

明治二十三年十二月に建立したものである。
************************************




南北朝期、

「関城」「大宝城」

2つのお城で堅い守りを築いていたと思っていましたが、

この「多賀谷城」も水上交通で

すぐ隣の場所に位置していますね。

別名「浮島城」と呼ばれていたのも納得。



結城合戦(1440年)の奮闘など

結城氏再興に功績があり、

所領も20万石まで拡大した多賀谷氏。


秀吉へは帰順を申し出て、

下妻6万石は安堵。

しかし、結城氏の配下に組み込まれることに。


多賀谷氏、これに不満をもったか、

朝鮮出兵の命令に際しては

兵を出さず秀吉の意向に背きます。

結果、多賀谷領は多くが没収され下妻城も破却の命令が。


関ケ原の戦いでは、

上杉景勝に同調。

家康の小山在陣時(小山評定)に

襲撃計画も立てたという説もあり、

反徳川を貫きます

なかなかに興味深い一族です。




1606年には、徳川家康の11男・徳川頼房(よりふさ)

石高10万石で下妻に封じられますが、

3年後、水戸へと移されます。


頼房といえば徳川御三家の一つ「水戸徳川家」の始祖ですが、

そのまま下妻にいれば

「下妻徳川家」が誕生していたかもしれないと考えると

妄想がいろいろと膨らみますね。



お次は

親鸞聖人御旧跡「小島草庵跡」へ。



やはり、現場を自分の目で見ることは大切です。


雄大な筑波山を目の前にし、

広大な水田に囲まれたこの地を

親鸞さんが選んだ気持ちが

わかります...。












「親鸞・二十四輩寺」に興味を持った頃から

この地を踏みしめ、

この地の空気を吸ってみたいと思っていました。

やっと来られた。

(周辺の開発がものすごいことになっているので
もう少し早く来ればよかった!!)



常陸国に入った親鸞さんが

布教のために最初に置いた本拠地がここ。

初めて関東に真宗念仏を伝えた地。



1214(建保2)年、親鸞さん42歳の時に

この地に入ったとされます。約810年前!!



妻の恵信尼とともに

ここに3年間滞在し、

その後、稲田に移られました。



この稲田の地というのがまた、

とってもすばらしい場所で、わたしも何度も訪れています。



この大銀杏。

「稲田恋しの銀杏」と呼ばれます。



そう。親鸞さん恋しさのあまり

枝が稲田の方に強く伸びています。



4つの五輪塔。

(もとは欽明天皇、用明天皇、聖徳太子のお墓があり、
のちに親鸞さんのお墓を加え、四体仏と呼ばれます)





Posted at 2023/03/26 23:11:41 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2023年03月21日 イイね!

隠れた(?)桜の名所ですね。下妻「多宝院」。

隠れた(?)桜の名所ですね。下妻「多宝院」。
「春分の日」、曇天のため

きれいな写真は撮れないでしょうけれど

桜の花を愛でるべく

下妻へとドライブ。




まずは、

「下妻市ふるさと博物館」

(ここ、ずっと行きたかったんです)



戦国時代、

下妻の地を治めていた多賀谷氏

居城をイメージして設計された「ふるさと博物館」。

将門がらみの展示もありますね。



下妻市出身の詩人・横瀬夜雨

直筆の原稿も大変興味深く拝見。

今度、彼の生家も必ず行きます。



この博物館に興味を持ったのは

こちらには、130年前の

女性囚人用の木製独房が保管されており(約90年間使用)、

独房内には爪で書いた文字

残されているんですよね。

(日付を数えた暦(数字)や
「かごのトリ、ちい(ちえ)あるトリは、
ひとめしのんで、あいにくる。あー残念ダ」)



残念ながら、今はコロナのために

見学できません。

いつかまた。



お次は、多宝院














室町から戦国期を通じて、

下妻城主・多賀谷氏の菩提寺であり、

佐竹義宣の久保田藩移封に

城主・多賀谷宣家(佐竹義重の4男・側室は真田幸村(真田信繁)の5女)が

随行して以降も存在し、

当地にある多賀谷氏墓地を管理しています。

(多賀谷宣家に追随して
多宝院の全欣和尚が久保田藩に移転して
同名のお寺「多宝院」を創建しています)


(こちらのお寺にも、しだれ桜が)







幕末、天狗党討伐のための

幕府本陣が多宝院に置かれていたため、

天狗党に夜襲されてしまいました(1864年)。

(「下妻市ふるさと博物館」で天狗党夜襲の絵図を見ました)




その際、寺宝、伽藍、古文書などが

すべて灰燼に...。









このあと、

147年続いた多賀谷氏の居城「多賀谷城跡公園」

越後に流された後の親鸞さんが

東国で布教を始めた地「小島草庵跡」

安倍元首相も参拝に来た

ご先祖様・安倍宗任ゆかりの神社「宗任神社」

巡ります...。





【おまけ】

「下妻物語」のこのシーン。


多宝院のすぐ横の

「下妻警察署南交差点」デシタ。

今度あらためてチェック。



関連情報URL : https://tahouin.com/
Posted at 2023/03/26 16:14:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | 神社仏閣 | 日記
2023年03月21日 イイね!

行方市観光物産館「こいこい」。

行方市観光物産館「こいこい」。
行方の魅力探検ドライブの締めは

「道の駅 たまつくり」

(行方市観光物産館「こいこい」)




国道354号線沿い、

霞ケ浦大橋のたもとにある物産館、

「道の駅 たまつくり」





(こちらは
「霞ケ浦ふれあいランド」内にある
高さ60mの「虹の塔」


16時半までなので、要注意。





美しい、霞ケ浦。









筑波山がきれい。

いつも見ている角度と違うので新鮮!













(このお店は16時で閉店。
食べたかった―...)


この「帆引き船」。

いつか必ず見てみたい。








霞ヶ浦のシンボルである

帆引き船を使った漁法は、

かすみがうら市(旧:佐賀村)に生まれた

折本良平氏によって明治13年に考案


江戸時代からの漁法だと思っていましたー。



霞ヶ浦漁業の歴史を知るうえで

きわめて重要な文化遺産であることから、

昭和46年に観光帆引き船として復活


平成30年3月には

「霞ヶ浦の帆引き網漁の技術」

国選択無形民俗文化財に選定されました。







Posted at 2023/03/21 19:11:39 | コメント(0) | トラックバック(0) | 買い物 | 日記
2023年03月19日 イイね!

新選組・初代筆頭局長「芹沢鴨 生家跡」を訪ねる。

新選組・初代筆頭局長「芹沢鴨 生家跡」を訪ねる。

私の大好きな大河ドラマのひとつ

「新選組!」

(脚本:三谷幸喜)






今までも、いろいろとゆかりの地を訪ねましたが、

今回は水戸派。


新選組を創った男・芹沢鴨の生家跡を訪ねます。




まずはメインの「芹沢鴨 生家跡」へ。



案内の看板もあるので

場所はすぐにわかりますが、

駐車スペースを探してもないので

そのまま、切り通しのようなところを

駆け上がります。



と、止める場所がっ......。


少し先まで走って、Uターンしよ。


画面中央から手前に走ってきました。


なんだか開けていて、いい景色!


すると、眼前には何やら石碑が。

「芹沢城跡」


あとで行こうと思っていたところに

先に着いちゃいました。





なんだか、めちゃくちゃ気持ちのいい場所。







「生家跡」に戻る前に

村社である「大宮神社」

裏参道からお参りします。



ここは村の鎮守さまなので、

芹沢鴨さん、

そしてご近所にいた

平間重助(壬生浪士組・副長助勤/勘定役)さんは

必ずや参拝していたはずです。



こんな、静かでおだやかな場所にある

村の鎮守さまですが、

この時すでに

上空では、雷が何度も落ちるかのような

戦闘機の爆音・轟音がとどろき渡っています。

(そのたびにビクッとして心臓に悪い感じ。
この周辺で暮らしている人たち、動物たちは
ちょっと気の毒に感じます)



表参道からアプローチ。

(この時も上空には、空気を切り裂く不快な轟音が
何度も繰り返し響き渡っています。
よく観察していると、何機もが同じコースを通り
繰り返し繰り返し爆音を発しているので
「タッチアンドゴー」の訓練でもしている感じ)


















(戦闘機は下の地図の緑線のようなルートで
右旋回をし、急速に高度を落としながら
百里基地へと滑り込んでいきます)



芹沢さんの「生家跡」を見学。


以前は蔵などもありましたが

東日本大震災の時に崩れてしまったそう。



今はまったく建物がないようです。



「門」も木製の趣のあるものから

変わってしまっています。






(ちなみに「大塲家屋敷」の隣の裏山にある「玉造郷校跡」
訪れ忘れましたが、芹沢さんも通われた郷校です)



上空、相変わらず

飛びまくり。



芹沢家・平間家の菩提寺に行きましょう。



「法眼寺」











ここも、

本当に気持ちのいい場所です。




(画面中央に向け、着陸を繰り返す戦闘機の爆音を除けば...)





芹沢鴨さんと

平間重助さんの顕彰碑



**************************
文久3(1863)年9月、
「新選組」は
近藤・土方ら試衛館派が八木邸で
芹沢鴨、平山五郎を暗殺
平間重助は脱走
野口健司は12月に切腹。
水戸派は一掃され、
試衛館派が組を掌握し
近藤を頂点とする組織を整備。
**************************


その隣に寄り添うは、

芹沢さんが愛したお梅さんの顕彰碑



お梅さん、近年の研究で

汚名をすすがれましたね。


菱屋太兵衛の妾を

芹沢さんが奪ったとされていましたが

菱屋太兵衛は独身だったことが判明。


さらに菱屋は

新選組屯所が置かれた前川の親戚だったこともわかり、

お梅は菱屋の身内だったことが明らかになりました


お梅さんは実家の菩提寺である京都・長円寺に埋葬。

行方市の有志により

この長円寺の墓の土が持ち帰られ、この顕彰碑に埋葬されました。

(あちらでも仲良くしてくださいね)





一番右にいる、平間さん。



芹沢暗殺の際、難を逃れて京を脱出。

どうにか故郷・芹沢村に帰り、

芹沢家に事の顛末を伝えたそうです。





芹沢鴨生家跡のすぐ近くにある

「澤屋商店」


平間重助さんのご子孫のお店です。


ご主人とお話ししましたが

商店は戦後開業されたとのこと。


いろいろな資料もいただきました。

ありがとうございました!!








八木邸を脱出し故郷に戻った平間さん。

明治になってからは

このお店の裏にあった

離れで隠れ住んだそうです...。



(芹沢暗殺後、
近藤さんの手紙に見える役割表)




Posted at 2023/03/19 13:41:27 | コメント(1) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2023年03月16日 イイね!

光圀さん、斉昭さんも利用した「大山守 大塲(おおば)家郷士屋敷」。

光圀さん、斉昭さんも利用した「大山守 大塲(おおば)家郷士屋敷」。

「西蓮寺」と合わせて

ずっと行きたかった場所

「大山守 大塲家郷士屋敷」







【開館時間】午前10時~午後4時(入館は3時まで)
【定休日】日・月曜日、年末年始
【料金】
小・中・高校生 … 200円(団体20名以上は150円)
一般 … 300円(団体20名以上は250円)





「麻生藩家老屋敷記念館」にも行きたかったのですが、
こちらは「月・火・水曜」はお休み)




「大山守」は役職名ですので

「大場」さんの屋敷です。

(ご子孫の方はお隣の敷地に
住まわれています)





歴代水戸藩主が領内を巡視する際や

鹿島神宮参拝の際の宿泊所としても使われ、

徳川光圀さん

何度も足を運ぶお気に入りの宿泊所
でした。



(歴代藩主11人のうち、6人が利用。光圀さんは4回宿泊。
その他、領内巡視の際なども行き返りの休憩に利用。
「水戸黄門」の世界ですね

隠居後は、西山荘から、水を張った桶に蓮の苗を入れて
大塲家に送っています。資料館で書状が見られます)


大塲家は桓武平氏の流れをくみ、

常陸大掾氏の支族である玉造氏の家老として仕えました。


中世の山城・玉造城を背にする位置に

この屋敷は建っています。

(資料館の古絵図を見ると、大手門のすぐ脇に建っていました
たまたま入館する前に、雰囲気のいい脇道を散策しましたが、
なんとそこが、大手門への道でした)





佐竹氏支配の時代を経て、


江戸時代には

代々水戸藩の大山守(おおやまもり)を務め、

20数カ村の藩有林を管理するとともに

各村の庄屋の上に立ち、

勧農、税の徴収・訴訟・治安等、

広域にわたる藩行政
にたずさわりました。



映画『桜田門外ノ変』

『天心』などのロケにも利用。



中に入りましょう。



入って左は「表門」へのアプローチ。














受付は入って右側の「東蔵(資料館)」内で。





係の方に建物を案内していただきました。





「土間」


「茶の間」




役所の機能を担った「会所」




隣には「お白洲」

(正面の格子戸を開ける)


簡易裁判所、ですかね。





屋敷の居住・役宅部を見た後は、

いよいよ藩主の宿泊所として使われた御殿部へ!!


低ーい「くぐり戸」。


いざっ。



大場家第三代清左衛門正治の時に

初代水戸藩主・徳川頼房の領内巡視の際の宿泊所として、

また水戸藩南部の藩政事務所として、

寛文期(1661~72年)に建てられた大場家屋敷


(入って右側に「湯殿」




平成16年から20年にかけて

5ヵ年計画により大規模な解体修理が行なわれ、

幕末期の大山守大場家郷士屋敷に復元されました。


藩主が来邸するときと

元日以外は開けない「表門」


表から。




「式台」「玄関の間」へ。







居住・役宅部「農家造り」

御殿部(御殿・次の間・玄関・式台など藩主の御旅館として使用)は

「数奇屋風の造り」で格調高くなっています。




「次の間(二の間)」








「御殿の間」




「花頭窓(かとうまど)」が印象的ですね。


天井や、床下には

やはり家臣の方々が警護に...?



小さなお庭には、カエデの木。

(光圀さんが京都から、儒者兼医者を呼び寄せ作庭)


「御姫様の間」に移動しましょう。



右側の建物(御殿の間)と

左側の建物(御姫様の間)との

屋根の高さを要チェック!!



「御姫様の間」の方が低く作られています。




光圀公や斉昭公など

歴代の水戸藩主を癒してきたお屋敷を

心ゆくまで見学させていただきました!








このあといよいよ

待ちに待った

新選組・初代筆頭局長「芹沢鴨 生家跡」

「平間重助(壬生浪士組・副長助勤/勘定役)」

ご子孫のお店を訪れます......。




Posted at 2023/03/15 18:38:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記

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