
戦国時代、
この地方に勢力を持った多賀谷氏の居城跡で、
かつては
下妻城と呼ばれていた
「多賀谷城」へ。
本丸のあった台地が、現在、
多賀谷城跡公園となっています。
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多賀谷氏は、初代氏家が
現在の多賀谷城跡公園の一郭に本丸を構え、
隣国豪族を攻めてその勢力下に置くほか、
小田原北条氏政勢の再三の来襲を撃退するなど
七代にわたり百四十七年間
下妻城主として常総地方に栄えていた。
慶長五年、関が原の戦いが起き七代重経は
佐竹氏とともに西軍に心を寄せ
徳川家康の再三の誘いにも出陣しなかった。
この戦いで家康に憎まれ石田三成にくみした理由で、
慶長六年(1601)二月、
城主追放城破却となり当地を去った。
城主追放のとき
奥方始め姫奥女中達に行末を案じて
ある者は懐剣でのどを突き、ある者は館沼に身を投げた。
領民はこれを哀れみ
遺体をかき集め三の丸の一画に合葬した。
それが今に伝えられる美女塚である。
現在本丸跡にある
多賀谷氏遺跡碑は
旧主をしたう家臣子孫が
明治二十三年十二月に建立したものである。
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南北朝期、
「関城」と
「大宝城」の
2つのお城で堅い守りを築いていたと思っていましたが、
この
「多賀谷城」も水上交通で
すぐ隣の場所に位置していますね。
別名「浮島城」と呼ばれていたのも納得。
結城合戦(1440年)の奮闘など
結城氏再興に功績があり、
所領も20万石まで拡大した多賀谷氏。
秀吉へは帰順を申し出て、
下妻6万石は安堵。
しかし、結城氏の配下に組み込まれることに。
多賀谷氏、これに不満をもったか、
朝鮮出兵の命令に際しては
兵を出さず秀吉の意向に背きます。
結果、多賀谷領は多くが没収され下妻城も破却の命令が。
関ケ原の戦いでは、
上杉景勝に同調。
家康の小山在陣時(小山評定)に
襲撃計画も立てたという説もあり、
反徳川を貫きます。
なかなかに興味深い一族です。
1606年には、徳川家康の11男・
徳川頼房(よりふさ)が
石高10万石で下妻に封じられますが、
3年後、水戸へと移されます。
頼房といえば徳川御三家の一つ
「水戸徳川家」の始祖ですが、
そのまま下妻にいれば
「下妻徳川家」が誕生していたかもしれないと考えると
妄想がいろいろと膨らみますね。
お次は
親鸞聖人御旧跡
「小島草庵跡」へ。
やはり、現場を自分の目で見ることは大切です。
雄大な筑波山を目の前にし、
広大な水田に囲まれたこの地を
親鸞さんが選んだ気持ちが
わかります...。
「親鸞・二十四輩寺」に興味を持った頃から
この地を踏みしめ、
この地の空気を吸ってみたいと思っていました。
やっと来られた。
(周辺の開発がものすごいことになっているので
もう少し早く来ればよかった!!)
常陸国に入った親鸞さんが
布教のために最初に置いた本拠地がここ。
初めて関東に真宗念仏を伝えた地。
1214(建保2)年、親鸞さん42歳の時に
この地に入ったとされます。約810年前!!
妻の恵信尼とともに
ここに3年間滞在し、
その後、稲田に移られました。
この
稲田の地というのがまた、
とってもすばらしい場所で、わたしも何度も訪れています。
この大銀杏。
「稲田恋しの銀杏」と呼ばれます。
そう。親鸞さん恋しさのあまり
枝が稲田の方に強く伸びています。
4つの五輪塔。
(もとは欽明天皇、用明天皇、聖徳太子のお墓があり、
のちに親鸞さんのお墓を加え、四体仏と呼ばれます)
Posted at 2023/03/26 23:11:41 | |
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