小学生の頃、
よく友人と手長エビ釣りに来ていた
別所沼。
おそらく
45年ぶりくらいに訪れて
ゆっくりと散策してきました。
きっかけは
「新 美の巨人たち」で扱った
立原道造の
「ヒアシンスハウス」。
内田有紀さんナビゲートの
すばらしい回でした。
(内田さんの涙に思わずもらい泣き)
かつて
24歳で夭折した
詩人で建築家・立原道造が
建てたいと切望した小屋がありました。
文章やスケッチに残したものの
実現はしませんでしたが、
なぜ今、
別所沼の畔に建っているのでしょうか。
立原道造は
天才詩人として知られますが、
実は
東京大学で建築を学んだ
若き建築家でもありました。
死の前年、立原は
埼玉・浦和に
自らの週末住宅「ヒアシンスハウス」の建築を計画。
5枚のスケッチを描いています。
しかし、
第1回中原中也賞受賞の翌月、
永眠。
ヒアシンスハウスは見果てぬ夢となりました。
立原の死から60年もの歳月が流れると、
地元・浦和の文芸家、建築家など有志が集まり
「ヒアシンスハウスをつくる会」を結成。
間取りや家具などが
細かく丁寧に描かれたスケッチを頼りに、
ヒアシンスハウスを建設しました。
昭和初期、
浦和市郊外の別所沼周辺には多くの画家が住み、
「鎌倉文士に浦和画家」とも呼ばれ、
一種の
芸術家村の様相を見せていました。
当時この地には、
立原の年長の友人で詩人の
神保光太郎、
画家の須田剋太、里見明正らが住んでいました。
また、立原と親交の深かった
東大建築学科の同級生小場晴夫は
旧制浦和高校の出身でもありました。
これらのことから、
「芸術家コロニイ」を構想した立原は、
自ら住まう週末住宅の敷地として
別所沼畔を選んだのです。
立原は、この5坪ほどの住宅を
「ヒアシンスハウス・風信子荘」と呼び、
50通りもの試案を重ね、
庭に掲げる旗のデザインを深沢紅子画伯に依頼。
さらに、
住所を印刷した名刺を作り、
親しい友人に配っていました。
しかし
立原が夭折したため、
別所沼畔に紡いだ夢は実現しなかったのです...。
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◆草稿
「鉛筆・ネクタイ・窓」から (1938年秋頃執筆)
僕は、
窓がひとつ欲しい。
あまり大きくてはいけない。そして外に
鎧戸、
内に
レースのカーテンを持つてゐなくてはいけない、
ガラスは美しい磨きで外の景色がすこしでも歪んではいけない。
窓台は大きい方がいいだらう。
窓台の上には花などを飾る、花は何でもいい、
リンダウやナデシコやアザミなど紫の花ならばなほいい。
そして
その窓は大きな湖水に向いてひらいてゐる。
湖水のほとりには
ポプラがある。
お腹の赤い白いボオトには少年少女がのつてゐる。
湖の水の色は、頭の上の空の色よりすこし青の強い色だ、
そして雲は白いやはらかな鞠のやうな雲がながれてゐる、
その雲ははつきりした輪廓がいくらか空の青に溶けこんでゐる。
僕は室内にゐて、栗の木でつくつた
凭れの高い椅子に座つてうつらうつらと睡つてゐる。
タぐれが来るまで、夜が来るまで、一日、なにもしないで。
僕は、窓が欲しい。たつたひとつ。……
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立原道造の想いに、
現代の人々の想いが重なり
現実に..。
すばらしいことです!!!
【おまけ】
子どもの頃は見向きもしなかった
別所沼弁財天にお参り。
(弁天様、遅くなってすみません)
Posted at 2024/02/23 17:16:33 | |
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