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レッズレノンのブログ一覧

2024年07月28日 イイね!

縄文時代の、小川を利用した「木組遺構」の発見はここだけ!!

縄文時代の、小川を利用した「木組遺構」の発見はここだけ!!

縄文文化の水準の高さを証明する貴重な遺跡

「寺野東遺跡」(国指定史跡)に行ってきました。







4,000年前にタイムスリップしたような

不思議な感覚が

まだ残っています。





まずは

発掘された貴重な遺物の数々や

模型・映像などを通して、

遺跡についてやさしく学ぶことができる

ガイダンス施設でお勉強。



その後、施設を出ると

いきなり、

4,000年前の実際の「木組遺構」にご対面!!!



4,000年前の縄文人は、すでに

木材を加工して「板材」を作る技術を持っていました!





これ、決して大げさではなく、

この「木組遺構」

ずーっと見ていられます。

飽きない。



このあと実際に

「水場遺構」を見に行きますが

この遺跡を見に来たメインの目的は

まさに、そこ。



「寺野東遺跡」

旧石器時代から平安時代までの

ムラや墓地の遺跡





約32,000年前から

1,200年前の暮らしの遺構
が残っている...。


気が遠くなる、歴史の流れ。


いかに暮らしやすい場所であったかがわかります。

湧水の存在が大きい、かな)



出土した種や花粉をもとに

縄文の森が復元されています。











ワクワクが止まらない。

























お、「水場遺構」だ。







後期初頭(4,000年前)になると、

ムラの規模は小さくなり、

やや低いところに営まれるようになります。


このころに水場遺構がつくられます





木の実のアクぬきを目的とした

水さらしの施設
が見つかったことにより、

後期には谷の水を積極的に利用し始めたことがわかります。



この平場

4,000年前の人々

利用していたのか―。

飲み水を汲んだり、

木の実をさらしたり...。



上から土砂が流れ込まないように

溝が掘ってあります。




ここもずっといて飽きない。


機能的な場所には

「美」も備わっているものです。










後期前半から後半(3,800年~3,000年前)になると、

村は谷の東西に営まれます。


東側には、

関東地方では

初めて確認された巨大な環状盛土遺構
がつくられます。





これは、

後期前半から晩期前半までの約1,000年間

つくり続けられたもの。


盛土に使われた量は

実に、大型トラック1,500台分!!




南北直径約165m

巨大なドーナツのような形に盛られた遺構。



盛土に使われた土は

内側を削った土で、

最も高いところで約2mの高さ



盛土は現在、

4つの部分が残っていて、

4つとも真っ赤な焼土層と

盛り土が交互に層になっています




これは、

多年にわたって

火を焚く行事が繰り返し行われた結果

形成されたものと考えられます。



遺物として、

土製の耳飾りや土偶など

非日常的遺物が多いことと併せて考えると、

縄文時代の呪術的祭祀の場であったと

推測されます。








谷の小川から見つかった木組遺構は、

多くが後期後半から晩期にかけてつくられたもの。



この遺跡内で

なんと、14基も発見されています!



縄文時代の寺野東遺跡には、

幅10メートルから15メートルの小川が流れていました。


はじまりは

環状盛土遺構の北西部にある湧水点で、

水場遺構へと続いていました。


木組遺構は、

この水を利用するためにつくられたものです。



木組遺構には、

正方形の木枠を中心にして、

まわりに木や小石を敷き並べたものや

長方形の木枠を川底につくり、

この中にしきりを設けたものなど、

いくつかの形があります。



これらの木組遺構は、

環状盛土遺構の盛土ブロックがとぎれる

2ヶ所のくぼみの近くに集中してつくられています



木組の90パーセントは

クリの木が使われています。


木組遺構の内側や周りからは、

トチの実などの植物の種や

皮がたくさん見つかっています




このことから

木組遺構は、

木の実のアクを抜くための

水さらしの施設
であったと考えられます。



縄文時代の小川から、

水を利用した施設が

これほどまとまって発見された例は、

全国でも寺野東遺跡だけ!!




ここで見つかった木組遺構は、

縄文時代の水利用の方法や

当時の食生活を知るための貴重な資料。



「石敷台状遺構」



環状盛土遺構の内側の中心から

少し北に寄ったところに、

長軸22メートル、短軸17メートルの

楕円形の高まりがあります。


この高まりには

石を敷いた部分があるので、

石敷台状遺構と呼んでいます。



石敷台状遺構の周りは、

盛土をつくるために削られましたが、

ここだけ意図的に残されました


その結果、

現在のような高まりになったと考えられます。



石敷に使われた河原石の大きさは、

径10cm~20cmくらい。



石敷は全面でなく、

いくつかの部分に集中して敷かれたようです。



この遺跡からの遺物は少なく、

縄文時代後期から晩期の土器片と石剣、土偶が数点

見つかっているだけです。


この遺構がどのような目的でつくられたのか、

よくわかっていません。


しかし、長い間つくられ続けたことや

石が敷かれていたことなどから、

環状盛土遺構の中でも特に重要な場所

あったと考えられます。







今度は

快晴の下で

この遺跡を見てみたい...。



Posted at 2024/07/28 20:53:02 | コメント(1) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2024年07月22日 イイね!

「金鑚大師」~「塙保己一 旧宅」へ。

「金鑚大師」~「塙保己一 旧宅」へ。


武蔵二ノ宮「金鑚(かなさな)神社」を後にして

向かいしは、「金鑚大師 大光普照寺」






「大光普照寺」は、

聖徳太子によって開創され、

平安時代になって天台宗の僧・円仁が来山して

再興したと伝えられます。



古くから天台宗の檀林が置かれた

天台宗の中心的な寺院のひとつであり、

このお寺の近くにある金鑚神社の別当寺でもありました。





明治維新の神仏分離令により、

当山の奥の院・金鑚大明神

武蔵二之宮・金鑚神社として分立し、

多宝塔も神社の所有に。







ご朱印拝受。












お次は、

ずっと前から行きたかった

「塙保己一 旧宅」へ。














まずは

塙 保己一(はなわ・ほきいち)

子どものころ遊んでいたという

「龍清寺」



塙保己一は江戸時代後期に活躍した盲目の学者

驚異の暗記力でさまざまな学問をきわめ、

大文献集「群書類従」の編纂を成し遂げました



また、国学の研究の場として

「和学講談所」を創設し多くの弟子を育てています。




龍が空に飛び上がるような形をした

「飛竜の榧(かや)」(樹齢300年)。











保己一のお母さまが

保己一の病気が治るようにとお参りをした「三日月不動堂」





いよいよ

保己一さんの旧宅(生家)に会えます。



わ。

見えてきた。





あの「ヘレンケラー」

「私は特別の思いをもって、

埼玉にやって参りました。

それはつらく苦しい時でも、

この埼玉ゆかりのハナワ・ホキイチ先生を目標に頑張ることができ、

”今の私”があるからです」
と語ったことは

もっともっと多くの人が知ってもいい事実だと思います!





盲目の国学者、塙保己一

1746年5月5日、

ここ、児玉郡保木野村(現本庄市児玉町保木野)に生まれます。



7歳にして失明し、

15歳で江戸に出て修行を積み

総検校という最高位に登りつめました。









この

入母屋造りの茅葺き二階建ての建物こそ、

彼の生まれた生家。

江戸中期の上層農家の形態がうかがえる

国の指定文化財です。













お風呂の位置も

ほぼ昔のままで使われています。



ホースからお湯が

ジャージャー漏れていました。

(直してあげたい!)





塙保己一旧宅の西側にある、

保己一の名を冠した公園「塙保己一公園」に向かいます。



先ほどお参りした「龍清寺」

美しいですねー。











公園内には塙保己一のお墓があります。



塙保己一は、文政4(1821)年、9月12日に

76歳で亡くなりました。

没後、江戸四谷の安楽寺に葬られましたが、

後にこの寺が廃絶したため、

明治31(1898)年に隣接する愛染院に改葬されました。

その時に、

お墓の土を郷里の保木野に持ち帰り墓が建てられたといわれます。






この日は時間がなく

「塙保己一記念館」には行けなかったので

後日ということで...。



Posted at 2024/07/22 23:14:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | 神社仏閣 | 日記
2024年07月21日 イイね!

武蔵二ノ宮「金鑚(かなさな)神社」で、絶景に出会う!

武蔵二ノ宮「金鑚(かなさな)神社」で、絶景に出会う!


武蔵一ノ宮といえば「大宮氷川神社」

子どもの頃から、何十回も行っていて

数え切れません。





今回は

「武蔵二ノ宮」に数えられる、

県内でも有数の由緒ある神社

「金鑚(かなさな)神社」にお参り。





神社一帯が豊かな自然に囲まれており、

静かで厳かな雰囲気が漂っています。





駐車場そばに

すごいものが建っています。

国の重要文化財「多宝塔」











天文3(1534)年

安保全隆(あぼぜんりゅう)【安保泰忠(あぼやすただ)】によって

建立。









方三間の杮葺

初層方形、上層円形平面、高さ約18メートル

間口・奥行約4.5メートル。



塔の真柱正面には

「天文三甲午八月晦日、大檀那阿保弾正全隆」等の

墨書があります。



建立年代がはっきりしている

県内有数の木造建築物!!



「金鑚(かなさな)神社」のご神体は

背景にある御室山



























本殿がなく、

原始信仰の形を今に残しています。



このような形式をとる歴史ある神社は、

ほかに長野県の諏訪大社

奈良県の大神(おおみわ)神社

2つのみとされています。




本当は今回、どうしても

「塙保己一(はなわ ほきいち)記念館」

「塙保己一旧宅」にも行きたかったので

時間と体力・気力をセーブするつもりでしたが

つい登っちゃいました、裏山に。

でも、この判断が

このあとの絶景につながるのでした.....。

(ここに来る途中には、
渋沢栄一が生まれた「血洗島」も通りましたので
何百本も後ろ髪をひかれています...)











「金鑚神社」のはじまりは

日本古代史上の英雄・ヤマトタケルノミコトが東征の際に、

身に着けていた火をつける道具

御室山(御室ヶ獄)に納めたこと。



岩が鏡のように光るとは?





思った以上にシンドイ...。



がんばるんじゃぞ。





巨岩が出てきた。





「鏡岩」はもう少し上にあります。

おー、本当に光ってる!



御嶽山の中腹にある、

幅5メートル 高さ9メートルの平らな岩肌が「鏡岩」

紅鉄変岩スレ肌という

およそ9000万年前の岩断層活動の跡で、

断層面ができるときに強い摩擦力で

岩面が鏡のように磨き上げられた


貴重な地質学資料!!



伝説によると、

上州の高崎城が落城した際には

火災の炎が岩面に映ったといいます。


また御嶽山は山城のため、

月明りが反射して敵の標的とならないよう

松明でいぶして赤褐色にしたとも伝えられています。





「展望」の文字を見ると

行かずにはいられない性格。







あとでわかりますが

この山は、

まさしく修験道の場の要素が満載











ワクワク。





「弁慶穴」発見!



もっと上へ!







思った以上の絶景が

360度のパノラマで広がっていました!









ここ、

ご拝殿から

20分足らずで

来れちゃう
んですよ。



「金鑚神社 奧宮」







気温35℃くらいのこの日、

この岩のてっぺんは

心地よい風が終始吹いていて

関東平野の眺望を独り占めしながら

ゆっくりゆっくり

佇んでいました...。

(飲み物持って行けばよかった)




後ろはちょっとした崖なので

気を付けて!













帰りましょう。





ご朱印拝受。





...続く。

(せっかく本庄方面に来たので
今なおご子孫の方が暮らしている
「塙保己一旧宅」
どーしても外せないよな)


Posted at 2024/07/21 17:39:48 | コメント(1) | トラックバック(0) | 神社仏閣 | 日記
2024年07月07日 イイね!

「高野長英」の隠れ家発見!! @さいたま市。

「高野長英」の隠れ家発見!! @さいたま市。
「オートバックス 東浦和店」に用事ができたので

せっかく行くならば、すぐそばにある

高野長英の隠れ家(旧高野家離座敷)に行かねばと思い

行ってきました!!



(以前 Google マップで見つけたときの驚きが
まだ残っています。なぜ、さいたま市に⁇







途中も、いい雰囲気。



ごくごく普通の住宅街の一角に

それはあります。(中央奥にもう見えます)



高野長英が隠れていた屋敷

まだ残っていることに

ちょっと感動。





高野長英といえば、「蛮社の獄」









1838(天保9)年

日本人漂流民7人を乗せたアメリカの商船モリソン号

「異国船打払令」に基づいて、

浦賀奉行所が砲撃するという「モリソン号事件」が起きます。





これを知った高野長英は、

著書「戊戌夢物語」で、

江戸幕府の政策を批判



これによって、1839(天保10)年

同じく江戸幕府を批判した渡辺崋山らとともに

投獄されたのです(=蛮社の獄)。

刑は永牢(えいろう:終身刑)







思いもよらぬ重罪で、

いろいろ策を練っても

なかなか牢を出られません

危険な政治犯、ですからね。









しかし、1844(弘化元)年

長英さん、とうとうやってしまいます!!







牢屋敷の火災が起きた際、

焼死を防ぐため、

牢の扉を開放する「切り放ち」
を利用し、

外へ脱出。



本来は

3日間で牢へ戻る掟ですが、

長英さんはそれを破り、

そのまま逃亡!!





実はこの牢屋敷の火災

高野長英が人を使って放火させたものでした。

すごい人です。





逃亡後の足取りには諸説ありますが、

水沢にいる母を訪ねたことはわかっています。





その後は江戸に戻り、

潜伏しながら兵法の書物を翻訳して生計を立て、

一時は伊予国宇和島藩藩主のもとへ身を寄せました。



しかし、

江戸幕府の蘭学への締め付けが厳しくなり

洋書の購入、翻訳を制限されたうえ、

江戸幕府に居場所が知れたとの情報が入ったため

再び江戸へ逃亡



1849(嘉永2年)年には、

硝酸で顔を焼き、

「沢三伯」(さわさんぱく)の偽名で開業しています。







1850(嘉永3)年12月3日、

江戸幕府の役人に潜伏先へ踏み込まれ、

捕らわれて落命






死因は、

捕縛の際に抵抗し

自分の短刀で喉を突き刺した
、あるいは

役人に十手でひどく殴られて息絶えたなどの説があります。





享年47歳。若すぎます。



庭の、さるすべり

そして、灯籠



長英さんは

これらを眺める余裕があったのだろうか。


あなたたちは

長英さんを

見守っていたのでしょうか。


(椿椿山筆 高野長英像)




この屋敷の持ち主、高野隆仙さん。

地元のお医者さんです。

漢方を蕨の岡田静庵に、

蘭方を高野長英に学んでいます。



高野隆仙は、武州(埼玉県)足立郡尾間木村の人である。
長英をかくまった罪で、鴻ノ巣のヒカタの同心詰所で
「石ぜめ」の拷問を受けたが、百日経っても口を割らなかったという。
江戸板橋に住み、長英の釈放運動をし、
脱獄後、高野隆仙の所に連れていった水村玄銅はその弟である)


幕府の拷問がもとで亡くなったとのこと.......。

















「こちらへ・・・」隆仙は、廊下を歩き、独立した離れ家に長英を引き入れた。四畳半、三畳の部屋の奥に書籍のつまれた二畳の部屋があった。見事な茶道具が部屋の隅におかれていた。・・・

「先生が牢破りをしたと言う噂はしきりですが、代官所の役人も参らず、今のところ、御懸念はないと存じます。何日でも、この部屋にご滞在下さい」隆仙は、おだやかな表情で答えた。

「長英逃亡」より)





大河ドラマで扱ってもいいような

壮絶な人生



Posted at 2024/07/07 20:07:13 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2024年07月07日 イイね!

「回廊ギャラリー門」~「笠間工芸の丘」(備忘録)。

「回廊ギャラリー門」~「笠間工芸の丘」(備忘録)。



「笠間の家」に行く前に寄った

「回廊ギャラリー門」「笠間工芸の丘」






「回廊ギャラリー門」

































「笠間工芸の丘」





カフェが場所を変えて

新しくなっていました。



「まちの駅笠間宿」

「一茶庵」で遅いランチ。

(お昼の部、最後のお蕎麦でした)



帰りは

スゴイカミナリと

豪雨!









Posted at 2024/07/07 15:33:51 | コメント(0) | トラックバック(0) | 陶芸 | 日記

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「1300年の時を超え、「上野三碑」に逢いに行く。(2) http://cvw.jp/b/861852/48580175/
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サッカー、フットサル、浦和レッズ、ジョン・レノン、キャンプ、ドライブをこよなく愛する50代です。
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