ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾く係でした。けれどもあんまり上手でないという評判でした。
宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」
ひとは誰しも護符を持っている。
それは自身を規定する枠。此岸へと係留するささやかなボラード。
特別なものである必要などなく、等しく刻まれてゆく時間の順列のなかで我々は、折々に護符もてあそび、想起して自らが何者であるかを思い起こす。あるいは何者でないかを。
それはサラセン人の掌。
シラノ・ド・ベルジュラックの机上で踊る羽。
オマル・ハイヤームの水晶体に映じた鳥たち。
それは誰にとっても個人的なもの。
病室で天井を見つめる祖父の相貌か。
または第三惑星の公転が予言する季節の訪いと、今年初めて袖を通した夏服の肌触り。
はたまた愛した女の忘れ得ぬ面影か。
何を見ても何かを思い出す。と言ったのは誰だったろう...
どのようなかたちもしくは想念として身に纏われているのであれ護符は、そんなものを必要としなかった恐れ知らずの傲慢な若さへの若干の嫉妬と気恥ずかしさ、分別と成熟、そして退屈さを我々に約束してくれる。
私の護符のひとつは時代遅れの筆記具。
古いものばかり好きになる。
廉価な樹脂の胴体に鉄製のペン先。
精緻な手作りでもなく、特に希少でも高価でもない軽すぎる書き心地。
相応しく私を規定する私という枠。護符。
首にさげて気軽に持ち歩くことができる私の係留杭。
それが私のなにを規定しているのか、数多く抱える問いと同じく、答えを知ろうとは思わないのだけれど。
そして私はまた、新たな護符を手にすることになった。
どこに行くにも傍らに置き、肌身離さず持ち歩く。
私の背中を押し、時に寄り添い、時に力強く私を支える。
不確かで頼りなく存在の揺らぐ私を保持する。
観念的に、思惟的に、形而上的に.....てゆーか正確には物理的に自立しないケロリを保持する....
まじなんなのコイツ?
いつまでワダツミに支えられてるつもりなの?
ずっと扶養に入ってるつもりなの?
女房気取りとかまじ引くんですけど。
自立しようという気概が感じられない。
ニートかよ.....
スタンド着脱は簡単なんだけど、外したスタンドをバックパックに留めるとかそういうプロセスが結構手間です。
まあ、しょうがないね。
「大いなるコロリの軽量化は、大いなるダルさとか手間とかを伴う」ってスパイダーマッ!も言ってた気がそこはかとなくするしね。
最近、前にもまして七輪が楽しいです。
ケロリに七輪に。完全に快楽に爛れて火と硫黄案件。
どなた様もお風邪など召されませんよう。
雨男 拝
Posted at 2020/12/01 21:14:38 | |
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セロー225 軽量化への道