
10年ほど前に書いたコラムなのですが、久しぶりに読んだら、昔からドリフトに憧れていたのだなぁ~と思わず苦笑したと同時に、常に初心を忘れるべからず・・・の自戒をこめまして掲載させて頂きます
題して「一号車物語」です。
1982年1月、私は18歳になる2週間前から、教習所へ通った。当時一世を風靡したセリカXX2800GTやアルピナへの憧れはあったものの、予算は諸費用込みで70万円という現実があった。カローラレビン(TE71)は遠い存在であったし、後期型の角目のスターレット(KP61)でさえも、中古価格は80万円前後であった。
途方にくれていた時、たまたま家の近くのクルマ屋に真っ赤な1978年式のジェミニ1800LSクーペが置いてあった。オールペンしたばかりであり、イントラという新品アルミホイールがついていた。お値段は諸費用別で70万円だった。なんとか込みで70万円でおさまるよう交渉するが、相手も譲らない。しかたなく家に戻るが、どうしても欲しい。そこで、親父に頼んで一緒に来てもらった。すると、私一人の時は、相手にされなかったのに、親父には諸費用込みで70万円にすんなり引いてくれた。ツッパッていても、まだまだ親にはかなわないと、素直にその時は思った。
■納車日
喜んで引き取りに行き、近所をガソリンがなくなるまで走った。帰宅してからすぐ洗車し、それでも興奮状態は収まらない。結局、その晩はクルマの中で寝てしまった。
■納車2日目
伊豆まで一人でドライブに出かけた。運転はギクシャクしているものの、気分は最高だった。熱海あたりになると、音楽が聴きたくなった。しかしAMラジオしかない。あいにく平日の午前中ということもあり、奥様向け番組しかやっていない。それでもいいか、と聴いていたら、ラジオ人生相談の番組になった。相談の主は、夫の浮気に悩む奥さんだった。私は奥さんの悩みを聞きながら、重~い気分で伊豆半島を走ったのであった・・・。
これではいかん!と思った。女の子を乗せるには、音が大切であるからだ。カセットを付けねば!
その当時、私は川崎の旧専売公社で、食塩検査官のバイトをしていた。大量に流れてくる食塩に異物が入っていないか、大きな櫛でチェックする任務であった。かなり単調でいい加減な仕事であったが、夜勤ということもあり、時給750円もらえた。
■納車3日目
幸運にもバイトの給料日であった。早速、前から決めていたクラリオン・シティコネクション(当時TVCMでエマニエル坊やが出演していた)のカセットデッキを取り付けた。FMがないAM+カセットという変な組み合わせになってしまったが、それでも大満足だった。当時はとても大人の世界に憧れていたので、ボズ・スキャッグスのミドルマンというアルバムをよく聴いた。
■納車4~6日目
友人に見せびらかしに行った。誰しもが誉めてくれるのが嬉しくて嬉しくてしかたなかった。渋谷センター街近くにあった「NOW」という洋服屋のステッカーをリアウインドーに貼ってみた。
■納車7日目
彼女を乗せ、湘南へ海を見に行った。車内にはユーミンが流れる青春ドライブである。しかし、次第に彼女が不機嫌になっていくのに気づいた。理由を聞くと、ダッシュボードにこの日のために飾ったアヒルのぬいぐるみが気に入らないと言う。「誰からもらったのよ?」と問い詰められた。「これは家にあったもので、お袋がなんかの景品でもらったものだ」と説明するが信じてもらえなかった。
彼女との初ドライブは破局へとつながってしまった
■納車8日目
私は硬派へ戻ることにした。もう2度と恋はしないと…。ドリフトの練習を開始することにした。しかし、全然滑らない。速度が足りないからか?とひたすら交差点をオーバースピードで突っ込むが、それでも滑らない。
■納車9日目
最高速派へ転向することにした。当時の初代ソアラのTVCMコピー「未体験ゾ~ン!」と叫びながらアクセルを踏むが、どう頑張っても160km止まりであった。RX7にビューンとぶち抜かれてしまった
■納車10日目
洗車派へ転向することにした。一生懸命ワックスかけをして悦に入っていたら、オールペンがとても粗いものであることに気づいた・・・。
■納車11日目
やはりドリフト命として生きていくことにした。夜からその日は雨が降っていた。コーナーに思いっきり突っ込むと面白いように、テールが流れた、必死にカウンターを当てるが、戻しが遅いため、タコ踊りになってしまう。幾度となく繰り返すと、決まった!と思えるドリフト(今にして思えばテールスライド)ができるようになってきた。嬉しくて嬉しくて、「明日は友人に自慢してやろう!」などと思った。最後の仕上げにもう一段階、交差点への進入速度を上げた、その瞬間思っていたよりもテールがスパッと流れ、中央分離帯に突き刺さった。私は、頭と胸をそれぞれ、フロントガラスとステアリングに強打した。ハッと気がついて、セルを回すと不幸中の幸いエンジンはかかった。しかし、直進するのには、最高速15kmまででないと、走らなかった。私はよたよたと走りながら、家までなんとか帰った。お袋に「事故ちゃったよ」と言うと、「人を轢いたの?」と一瞬にしてお袋は青ざめてしまった。その時のお袋の表情が、いまでも忘れられない。親父に「もうクルマには2度と乗るな!」とこっぴどく叱られた。それまでの18年間の人生の中で、一番しょげた晩であった・・・。
■納車12日目
前日のショックから、とてもではないが、立ち直れない。でもクルマを修理に持っていくことにした。時速15kmで走っていると、後ろの車には、ビービー鳴らされた。怒鳴り返す力も無く、いすゞのサービス工場へ持っていった。フロントマンがニヤニヤ笑いながら、クルマを見たのには腹が立ったが、ここで怒って修理代が高くなってはいけないと思い、おとなしくしていた。修理代は約35万円だった。車両保険などに入っているわけもなく、親に泣きつくしかなかった・・・。
■修理後
心身ともに立ち直り、クルマを受け取り、再スタートを切ることにした。しかし、100km以上出すと、バイブレーションがひどい。いすゞに問い合わせると、やるだけのことはやったとの回答だった。それでも約1ヶ月乗った。やはり、どうしようもなかった。
販売店に持っていくと、35万円なら引き取ると言われた。修理代は回収できるので、手放すことにした…。
今でも、時々このクルマのことが気になる。今ごろどうしているのだろうか?今回こんな古いお話をしたのは、どうしても一言「かわいそうなことをして申し訳なかった」と私の記念すべき第1号車のジェミニに謝り、けじめをつけておきたかったのだ。。。
Posted at 2009/09/03 12:25:05 | |
かつてのクルマ | 日記