幸手に続き
先日、
「1923.9.1 関東大震災と春日部」展に
行ってきました。
締めは、別日開催の
歴史文化講演会「粕壁小児童文集で読み解く 関東大震災の粕壁」。
これは
粕壁小の100年前の児童文集から
関東大震災の実態を読み解く講座。
粕壁小の「文集」を委細に読み込み、
粕壁町の町並みや
子供たちの普段の生活、
被災の状況について
詳しくお話しいただきました。
変な映画を観るよりも
人の息遣いや思いが
文章からリアルに伝わり、
とってもエキサイティングな時間を過ごしました。
亡くなられた方々、
被災された方々の思いを無駄にしないためにも
しっかりと後世に伝えていきたいです。
<MEMO>
◆作文には
「夜中の2時頃でも、ふだんよりかえってにぎやかだった」とある。
これは、夜中、提灯の明かりがあったから。
◆1923年9月1日の朝からの、粕壁の人たちのふだんの様子の記載が新鮮、
かつ感動的。
(9/1は
「八朔の節句」の日なので皆、ご飯を食べません。
朝はお饅頭、昼はうどん、呉汁など。
100年前の児童の目を通して見た
ごく普通の人々の生活が愛おしい)
◆9/1は
2学期の始業式だったので、皆早く帰れて命拾いした。
(小学校は地震で倒壊)
◆当時は雨降り。
各児童の家に帰るまでの様子が
バラエティーに富んでいておもしろい。
自分の小学生時代も思い出す。
◆当時
「家事新教科書」という教科書を学んでおり、
その中に「災害に対する心得」という章があるので
避難の仕方は皆、同じような考えが徹底されていた。
「とにかく
外に逃げる」
「室内の場合は
箪笥のそばに行く
(梁が落ちてきた際の安全確保)」
◆地震のときに唱えていた呪文で一番多かったのは
「まんざらった、まんざらった」!!!
(福島にある
「まんざいらく山」から来ているらしい。
そのほかには、
「桑原、桑原」(これはカミナリ除けで有名ですね)や
「なんまんだぶ、なんまんだぶ」の呪文も
唱えられていた)
◆
皆川洋品店の息子さん(粕壁尋常小学校3年生)の作文より。
「古利根川で魚釣りをして家に帰り、昼御飯を食べ始めたころ、
まるで船に乗った時のような横揺れを感じ、やっと柱につかまった。
その直後に“ダダーン”という大きな音を立て、
日光街道沿いの商店が将棋倒しのように崩れた。
町役場や小学校も全半壊し、
まともに建っているのは数軒ほどで、
倒れた家が道路を塞ぎ、
壁土などの埃で煙が立ち込めていた。
そして、
蕎麦屋から火が出て数軒が火災に遭ったり、
三河舎(牛乳屋)の牛小屋が倒れ、
死んだ牛の肉が町内の人に配られた」
なんと、小学校のそばに牧場があった!!
◆震災後の
流言も、実にさまざま。
どれもぶっ飛んだものですが、印象に残ったものを一つだけ。
「朝鮮人が
抜刀で百五十人、大澤(今の越谷)へ押し寄せて来たなどと
八百屋の梅ちゃんが言っていた...」
う、うめちゃん......。
◆後で調べたが、
粕壁では虐殺事件は起きなかった。
(粕壁町では、「
町に住んでいた朝鮮人に危害が加えられないよう
粕壁中学校に移動させられた」と言われている)
◆東京から焼け出された人たちが
「①
自動車に乗った人」「②
自転車に乗った人」
「③
徒歩の人」の順で粕壁を通り始めた
◆大正時代の
粕壁の方言
①
つぐんで(座って)
②
けぶ(けむり)
③
へがして(はがして)
④
ぬげてきた(にげてきた)
⑤
すいて(<ござを>しいて)
◆当時の人の話の中には、普通に
「安政の時(=安政の大地震<1855年>)より
今回の方がすごかった」という証言が出てくる。
(安政の大地震で残った古い建物が
関東大震災で結構やられた)
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Posted at
2023/10/09 15:02:30