どうも!
MotoGP日本GP決勝まで後5日!
当日はツインリンクもてぎまで応援に駆け付ける予定のKIRAです!
さて、KIRAのキラキラMotoGPナビ、最初のマルケスを紹介した後、
とある選手の記事を書きかけていたのですが、あまりにも経歴が長い選手なので、
まとめるのに時間がかかってしまいました^^;
案の定gdgdしていますが、コンスタントに書き綴っていきましょう!
MotoGP好きな人も、バイクが好きな人も、まだバイクやレースの事が分からないそこのあなたも!!
ボクのささやかなナビを見て興味を示してくれたらなと思います(´ω`)
第二回目以降は、マルケス選手を視点として他の選手を紹介してみる事にしました!
ルーキーのマルケスと対比することで見えてくることもありますからね!
というわけで、マルケスと対極をなすライダーを紹介しましょう!
MotoGP四強の一人!
モビスター・ヤマハのワークスライダーにして、
世界人気No.1ライダー、バレンティーノ・ロッシ選手です!
★ロッシ選手を一言で言い表すなら「吸収する男」だと、ボクは思います!
2015年シーズンのロッシは非常に落ち着いた安定感のある走りが目立ちますが、
ただ安定しているわけではなく、走っている最中も常に、何かを察知しようとしている、
そんな雰囲気を与えるライダーなのです。
とかく学習能力の高いライダーで、走る前のコースの下見、ライバルのライディングの研究、状況に合わせた臨機応変なライディング変化等、彼の強みを上げれば枚挙にいとまがありません!
ライバルの走りの研究に関しては、125ccチャンピオンの坂田選手との話し合いの中で、
坂田選手がわざとカマかけした部分に騙されずに、矛盾点を指摘したりと、
普段のラテン系な彼からは想像できないほどのキレっぷりなのです!
ベテランにもかかわらず、
決して驕ることなく常に研究するその姿勢は先輩への研究にとどまらず、
ルーキーのマルケス選手のライディングを見て、
自身のライディングを変えていくと言った部分にも表れています。
アニメのキャラで言うなら
色んなライバルと戦いながら
どんどん強くなっていく「ドラゴンボール」の孫悟空、
また、参戦歴が最も古い現役の選手という意味では、
その陽気なキャラクターから、
「新世紀GPXサイバーフォーミュラ」のジャッキー・グーデリアンを髣髴とさせる
まさにリアルにこんな凄ぇ人いるんだ!!って感じのライダーなのです!
☆そんなロッシのプロフィール紹介!
☆生年月日…1979年2月16日生まれで今年36歳!
MotoGPでは2015年現在、最高齢のライダーです!
そう言う意味ではマルケスと対極にあると言えます!
☆出身…イタリアマルケ州ウルビーノ出身
ロッシは「生きる伝説」、「史上最強のライダー」と呼ばれており、
ロードレース世界選手権参戦以来15年間で9回のワールドチャンピオンを獲得しているのが
その由縁であると言っても過言ではないでしょう。
ロッシの経歴を軽くまとめると以下の通りです!
☆バレンティーノは父親のグラツィアーノに続いて
グランプリレーサーとしてのキャリアを1996年から始める。
☆125ccクラスにアプリリアでデビューし、翌年には初の世界タイトルを獲得する。
☆1998年には250ccクラスにステップアップ、1999年にタイトルを獲得した。
☆2000年には最高峰の500ccクラスにホンダからステップアップ、翌2001年にはタイトルを獲得した。
☆MotoGPとなった2002年、2003年にもタイトルを獲得、
翌2004年にヤマハに移籍、
同年および翌2005年にもタイトルを獲得した。
☆2008年と2009年にもタイトルを獲得し、
2011年にはドゥカティに移籍するが在籍2年間無勝利、
2013年にヤマハに復帰、2015年現在ヤマハ・ファクトリー・レーシングチームに所属。
☆ロッシは500cc/MotoGPクラスで85回の優勝を記録する。
下位クラスでの勝利も加えると111勝を挙げている。
★最近のMotoGPを知らないWGP世代の方には
ジャコモ・アゴスチーニの122勝に次ぐ記録であるといえばニュアンスが伝わるかもしれませんね!
ロッシ選手の上記経歴をいくつかの編に分けて説明しましょう。
☆幼少期編
父親のグラツィアーノ・ロッシはかつてスズキで活躍したグランプリレーサーで、ロッシは非常に幼くしてモータースポーツを始めました。
初めて熱中したのはカートでした。
これは母親のステファニアがロッシの身を案じたため、グラツィアーノがバイクの代用品として購入した物でした。
しかしながら、絶えずより速くありたいと思う一家は、ロッシの将来計画を再び設計しました。
グラツィアーノは5歳の息子のために、60ccのカートに代えて100ccのナショナルカートを与えました。
ロッシは1990年に地域のカート選手権でタイトルを獲得。
この後彼はポケバイレースを始め、1991年の終わりまでに地域のレースで幾度となく勝利しました。
ロッシはカートレースも続け、パルマでのカート選手権で5位に入ります。
ロッシは父親と共に、イタリア100ccシリーズとヨーロッパシリーズへの参戦を考えます。
それは彼をフォーミュラ1への道に進める選択肢でありましたが、参戦にかかる高額な費用はポケバイレースを選択するという決定につながりました。
1992年と93年を通してロッシはポケバイレースの一部始終を学び続けていました。
1993年にロッシは、父親、バージニオ・フェラーリ、クラウディオ・カスティリオーニ、クラウディオ・ルサルディ(カジバ・スポーツポロダクションチームを率いていた)らからの助けを受けて、
125ccのカジバ・ミトに乗ってレースに出場したが、
ピットレーンからわずか100m離れた第1コーナーでクラッシュした。彼はその週末、レースを9位で終えた。
イタリア・スポーツプロダクション選手権での最初のシーズンは変化に富んだ物であった。
ロッシはシーズン最終戦のミサノでポールポジションを獲得し、
決勝では表彰台に上った。
2年目のシーズンでロッシはルサルディの率いるファクトリーチーム入りし、その年のタイトルを獲得した。
★どんな選手でも、スタートはクラッシュから、なのかもしれませんね。
コケる事を愚かな事のように言及する人もいますが、
コケて初めて学べることだってあるのだとボクは思います。
☆125cc, 250cc, 500cc編
☆1994年にアプリリアはRS125R改良のためにロッシを起用し、
彼が125ccクラスでのレースのペースを学ぶ機会を与えた。
ロータックス製エンジンを搭載したアプリリアでイタリア選手権を戦い、
翌1995年はヨーロッパおよびイタリア選手権を戦った。
この年はイタリア選手権のタイトルを獲得し、ヨーロッパ選手権ではランキング3位となっている。
1996年、イタリア選手権チャンピオンとしてロードレース世界選手権125ccクラスにデビューする。シーズンでは5戦でリタイアし何度かクラッシュしたが、
それにもかかわらず8月のチェコGPで初優勝を遂げる。
ロッシはシーズンをランキング9位で終えた。
この頃は当時125ccクラスを席巻していた日本人ライダーら(青木治親・坂田和人・上田昇など)に
親しく接し、現役チャンピオンだった青木はロッシによくアドバイスを与えていたという
(後に青木は「あんなに強くなるんなら教えるんじゃなかった」といった旨のコメントをしている)。
翌1997年には15戦中11勝を挙げてシーズンを支配、自身初のチャンピオンに輝いた。
☆1998年、250ccクラスにステップアップ。
この年のアプリリアはロッシと原田哲也、ロリス・カピロッシを擁してシーズンを支配した。
ロッシは同じアプリリアの先輩である原田とカピロッシが展開するチャンピオン争いに割って入り、
カピロッシに23ポイント差のランキング2位となる。
原田とカピロッシの抜けた翌1999年は5度のポールポジション、
9勝を挙げてホンダの宇川徹を下し、チャンピオンを獲得した。
☆翌2000年、ロッシはホンダに移籍し、最高峰の500ccクラスにステップアップする。
ホンダは実質ワークス格のチーム、ナストロ・アズーロ・ホンダを結成し、
前年までマイケル・ドゥーハンのチーフエンジニアであり、
GP界で数々のチャンピオンを生み出したジェレミー・バージェスを起用するという、
500ccルーキーとしては破格の待遇でロッシを迎えた。
500cc参戦初年度のこの年、ロッシは最新型ホンダNSR500を駆り大いに注目を集めたが、
シーズン序盤は転倒が目立った。
シーズンが進むにつれ安定感が現れ、
中盤のイギリスGPで初優勝する。
この年はまた、マックス・ビアッジと対峙した最初の年でもあった。
ロッシはビアッジに対して9戦で順位が上回ったが、
優勝はイギリスとブラジルでの2勝で、
4勝を挙げたケニー・ロバーツ・ジュニアに次いでランキング2位を獲得した。
また、日本メーカーであるホンダに移籍したことから、出場を望んでいた鈴鹿8耐にも参戦した。コーリン・エドワーズとのペアで挑んだがリタイアに終わった。
500cc2年目の2001年、11勝を挙げて最高峰クラスでの初のタイトルを獲得、
3クラス制覇の偉業を成し遂げた。
ポイントは325ポイントと、2位のビアッジに106ポイント差をつけての圧勝であった。
開幕戦日本GP(鈴鹿)ではホンダのWGP通算500勝目を記録している。
鈴鹿8耐にはこの年も参戦、ホンダ・VTR1000SPWでエドワーズ、鎌田学と組んで挑み、
スーパーバイクでの経験は不足していたにも関わらず、
イタリア人ライダーとして初の優勝を果たした。
★上記にも記載しましたが、ロッシは「吸収する男」なのです!
125ccのアプリリア時代の彼は、先人に非常に恵まれていたのです。
日本人ライダー達も、その探求熱心な彼にアドバイスをしていき、結果彼は
現在の「バレンティーノ・ロッシ」として、大成したのでしょう!
250cc時代の先輩が、原田哲也選手やカピロッシ選手であることを見れば、
ロッシがどれだけ古参で且つベテランのGPライダーであるかが、
分かる方もいると思います!
そして500ccで走るころには、実力を認められたライダーとして確立しているのが分かります!
2stで癖のあるNSR500を駆るのは容易な事ではなかったでしょう。
初めこそ転倒したものの、やはりそこは唯ではコケない男だったという事でしょう!
あのビアッジとライバル関係にあったという事も伝説的ですし、
ケニー・ロバーツJrとタメを張っていた辺りなんか、ホント、タイムマシンがあるなら見てみたいw
☆MotoGP編
ホンダ時代 (2002-2003)編
☆2002年
MotoGP初年度の2002年は2ストローク500ccの参加も認められてはいたが、
実際は4ストローク990ccのMotoGPマシンのみでタイトルが争われたシーズンであった。
500ccのマシンは本質的には時代遅れであった。
ライダー達は新型マシンを用いることで初期問題に苦しめられた。
この年、ロッシはワークスのレプソル・ホンダに加入し、
新たに投入した4ストロークマシン、RC211Vを駆った。
ウェットレースとなった開幕戦の鈴鹿では
ワイルドカード出場の地元ライダー達を打ち負かして優勝した。
シーズン前半9戦の内8勝を挙げ、結局11勝を挙げる。
ロッシは4戦を残してリオデジャネイロで2度目のタイトルを確定した。
このシーズン、完走できなかったのは第10戦ブルノのみであった。
☆2003年
2003年もロッシは9度のポールポジション、
9勝を挙げて第14戦のマレーシアでタイトルを確定した。
この年はスズキからセテ・ジベルナウが同じホンダ(サテライトチーム)に移籍し
最大のライバルとなった。
かつてレプソル・ホンダに所属していたこともあるジベルナウは
何度かロッシを打ち負かしたが、ロッシはチェコGPで0.042秒差で競り勝っている。
フィリップ・アイランドで開催されたオーストラリアGPで、
ロッシはドゥカティのトロイ・ベイリスのクラッシュで
黄旗が提示されている間に追い越しを行ったため
10秒のペナルティが与えられたが、
結局はそのペナルティを相殺し2位に15秒の差を付けて優勝した。
最終戦のバレンシアGPでは特別塗装で出場し優勝したが、
これがホンダにおける最後の勝利となった。
ロッシがシーズンを圧倒的な成績で優位に進めていく内に、
その成功の原因は彼の実力では無く、
RC211Vの性能に依るのではないかという懐疑論が増加する。
そのため、疑念を払拭するためドゥカティに移籍するのでは無いかという噂が広まっていった。
イタリアのプレスはこの噂に狂乱した。
偉大なイタリア人ライダーが偉大なイタリア製バイクに乗る、
それはできすぎた話であった。
ドゥカティ自身も彼らのデスモセディチに乗せようと、ロッシへのオファーを試みたが、
様々な理由からロッシがこの申し出を受けることは無かった。
評論家は、ドゥカティは他のメーカーと比較してロッシが乗っても
競争力を保持していることを証明する必要があったとする。
ロッシがドゥカティを選択しなかったのは正解だったことが後に証明された。
ドゥカティの2004年におけるパフォーマンスは、
MotoGP初年度であった2003年より低下していた。
2005年に出版された自叙伝「バレンティーノ・ロッシ自叙伝 What If I'd Never Tried It?」で
ロッシはドゥカティでは無くヤマハを移籍先として選んだ理由として、
ドゥカティ・コルセの考え方は彼がホンダから逃れようとしていた物と同様であったからと語っている。結局ロッシは2年間で1200万USドルという契約をヤマハとの間に結んだ。
ロッシは最終戦バレンシアGPで2004年からのヤマハへの移籍を発表した。
☆ヤマハ時代 (2004-2010)編
☆2004年
ロッシが移籍した段階で、ヤマハはMotoGPクラスで通算2勝しか挙げていなかった。
ヤマハも過去2年間で培った技術を元に新開発エンジンを投入し、
またホンダ時代にロッシのエンジニアを務めたバージェスをホンダから引き抜いた。
ウィンターテストの段階から2004年型ヤマハ・YZR-M1は戦闘力を大幅に上げていた。
それまでシーズン開幕戦は伝統的に鈴鹿で行われてきたが、
前年に発生した加藤大治郎の死亡事故も影響し、
2004年は南アフリカが開幕戦となった。
ロッシは予選でポールポジションを獲得、
決勝でもホンダのエース格であったビアッジとの激しい優勝争いを展開。
激闘の末、見事ロッシは移籍初戦を優勝で飾り、ウィニングラップで感動のあまり号泣し
マシンにキスをした
。この勝利で彼は異なったメーカーのマシンで連勝した唯一のライダーとなった。
次戦のヘレスでは4位となり、23戦連続表彰台の記録が途切れた。
第7戦ブラジルではリタイアしたが、その後もロッシはホンダ時代と変わらない強さを見せる。
シーズンはジベルナウとのタイトル争いとなり、終盤のフィリップ・アイランドでは0.097秒差でジベルナウに競り勝った。ロッシはシーズン9勝を挙げ304ポイントでタイトルを獲得、優勝請負人としての仕事を果たしてみせた。
ファンや関係者からは「ホンダやヤマハが強いのではなく、ロッシとバージェスのコンビがいるところが強いのだ」といった感想さえ聞こえた。
この年のヤマハはロッシの他に
カルロス・チェカ、阿部典史、マルコ・メランドリの3人のライダーにも
同年式のYZR-M1を与えたが、優勝経験のあるチェカ、阿部も含め、
ロッシ以外には誰も勝利を挙げることがなかった。
☆2005年
2005年もウェットレースとなった上海、ル・マン、ドニントンの3戦を含む11勝を挙げ、
ロッシは7度目の世界タイトルを獲得、これで2001年から続く最高峰クラス連覇を「5」とし、
1994年から1998年にかけて500ccクラスを5連覇したマイケル・ドゥーハンの記録に並んだ。
この年完走できなかったのはもてぎのみで、
残る16戦は全て表彰台に上り、367ポイントを獲得した。
☆2006年
2006年はこの記録を「6」に伸ばすべく同じくヤマハで戦ったが、
開幕戦スペインGPでスタート直後に後続車に追突されるというアクシデントを皮切りに
例年にない苦しいシーズン運びを強いられる。
シーズン前半はトラブルに見舞われ、その中には上海やル・マンでの機械トラブルも含まれた。
.しかしながら、ロッシはカタール、イタリア、カタルニアで勝利を挙げた。
ホンダのニッキー・ヘイデンはシーズンの大半でポイントリードしたが、
ロッシのポイントは遅々として進まなかった。
第16戦ポルトガルGPでヘイデンがリタイアし、ようやくランキングトップに躍り出たものの、
続く最終戦バレンシアGPで転倒。
ヘイデンがタイトルを獲得しロッシはランキング2位、
6年連続チャンピオン獲得とはならなかった。
☆2007年
2007年はMotoGPのマシンレギュレーションが変更となり、
排気量が800ccに引き下げられエンジン出力が低下した。
そのため前年までのマシンに求められた有り余るパワーのコントロールよりも、
コーナリングスピードを高め限られたパワーを使い切るスタイルが求められるようになった。
このようなスタイルは比較的250ccクラスのそれに似ており、
2004年・2005年と250ccクラスを連覇したダニ・ペドロサが
ロッシの強力なライバルとして予想されていた。
開幕戦カタールではペドロサと同じく250cc出身で
MotoGPクラス2年目のケーシー・ストーナー(ドゥカティ)が勝利し、
ロッシは2戦目のスペインで優勝、その後も3戦 - アッセン、エストリル、ムジェロ - で勝利した。
一方のストーナーは開幕戦も含めて10勝を挙げ、
圧倒的な強さで選手権をリードした。
ストーナーは2位のダニ・ペドロサに125ポイント差を付けてタイトルを獲得した。
ペドロサは最終戦のバレンシアで勝利し、ロッシはこのレースでリタイアしたため、
ランキング3位でシーズンを終えた。
これは1996年の125cc以来、最も低い順位となった。
☆2008年
2008年は前年にストーナーが独走する大きな要因のひとつとなった
ブリヂストンタイヤを自身のマシンに採用し、タイヤによるハンディの回復に努めた。
序盤はチームメイトで250ccクラスからステップアップしたばかりの新人ホルヘ・ロレンソの
驚異的パフォーマンスが話題となる中、
ブリヂストンタイヤに慣れる時間を要したのか少々出遅れた感もあった。
開幕戦カタールでは5位に終わったものの、第4戦上海でシーズン初勝利を挙げると
続く2戦も勝利した。
それ以降は第9戦のアッセンを除いて全戦で表彰台に上り、
シーズン終盤には5連勝を記録。
計9勝で3年ぶりとなるチャンピオンに返り咲いた。
ラグナ・セカ(コークスクリューでストーナーにパスされたものの、その後挽回して勝利)と、
雨で短縮されたインディアナポリスでの勝利は、
ロッシが現在のサーキットではどのようなコースでも勝利できることを証明した。
もてぎでの勝利は同コースにおけるMotoGPマシンの初の勝利であり、
ホンダのホームコースにおけるヤマハ製マシンの初勝利でもあった。
☆2009
2009年シーズン、ロッシは6勝を挙げ、2位に入ったチームメイトのホルヘ・ロレンソに
45ポイント差で9度目のタイトルを獲得した。
序盤は2戦をともに2位で終え、第3戦スペインでシーズン初優勝を記録した。
しかし第4戦ルマンではクラス唯一の転倒を喫し、
得意にしていた第5戦ムジェロでウェットコンディションによるフラッグtoフラッグの影響もあり
3位になるなど若干低迷した。
ムジェロで勝利を逃したのは2001年のことであった。
しかし、そこからは一気に巻き返し2009年ダッチTTではGP100勝目を挙げる。
ロッシはGPで100勝を達成した2人目のライダーとなった。
第10戦ドニントンで一度転倒して5位、第12戦インディアナポリスでは転倒リタイヤとなるが、
年間通して安定した成績を残していたため大事にならず、
ウェットコンディションとなった第16戦のセパンで1戦を残してタイトルを決める。
シーズン6勝というのはロッシがタイトルを獲得したシーズンの中で最少の勝利数であった。
シーズン中最も劇的な勝利はバルセロナでの勝利で、
2位のロレンソに0.095秒差であった。
次いで僅差のレースはドイツGPで、このときは0.099秒差であった。
☆2010年
2010年シーズンは開幕前のテストセッションの大半でトップタイムをたたき出し、
開幕戦カタールGPではレース序盤でケーシー・ストーナーがクラッシュした後に
シーズン1勝目を挙げた。
次戦スペインGPでは3位、
第3戦フランスGPではポールポジションを獲得、
決勝は2位と3戦連続の表彰台を獲得した。
しかし、ホームグランプリの第4戦イタリアGPにおいて
ロッシは2回目のフリープラクティス、
ビオンディッティ・コーナーで約120 mph (190 km/h)の速度で転倒、右の脛骨を複雑骨折した。
カットーリカの自宅そばの病院で外科治療を受けた後、今期絶望と診断される。
ロッシがレースを欠場するのはそのキャリアにおいて初のことであった。
しかしながら、イギリスGPに先だって
デイリー・テレグラフ紙のスージー・ペリーはロッシがブルノでの復帰を計画していると伝えた。
これは1週間後にロッシ自身によって確認された。
7月7日、ロッシはミサノ・サーキットでスーパーバイク仕様のヤマハ・YZF-R1に乗り、
脚の回復を確認した。
彼は2回のセッションで26ラップを走り、
ベストタイムは同サーキットにおける最近のスーパーバイクの最速タイムから2秒落ちであった。
セッションを終えるとロッシは不快感を訴え、それは脚と肩の痛みによる物であった。
7月12日にはブルノでもテストを行い、
ロッシはよりハッピーだと語った。
木曜日に医師の診断を受け、ロッシは予定よりも2戦早いドイツGPで松葉杖をつきながら復帰した。これは事故からわずか41日後のことであった。
このレースではストーナーとの3位争いに負けて4位でフィニッシュした。
続くアメリカGPでは3位表彰台に立った。
本人はけがについて「サッカーをやるわけじゃない」と話した。
その後も勝利こそ第15戦マレーシアGPのみにとどまったが、
終盤5戦はいずれも表彰台に上るなど、安定した走りでシーズン3位の成績を残した。
この年は足の他にも、4月にエイヤフィヤトラヨークトルの噴火で
日本グランプリが10月に延期された後に行ったモトクロストレーニング中に
右肩を負傷している。
終盤2戦でチームメイトのロレンソに敗れたロッシは肩の痛みを訴えていた。
負傷は当初深刻な物とは見られず、数週間で回復すると予想されたが、
予想通りに回復しなかったためシーズン終了後に手術を行い、
2011年は回復具合を計りつつ始動することになった。
☆ドゥカティ時代 (2011-2012)編
☆2011年
チェコGP後の2010年8月15日、7年間在籍したヤマハと袂を分かち、
翌2011年から2年の契約でドゥカティに乗ることが発表された。
チーフメカニックのジェレミー・バージェスを引き連れての移籍であった。
チームメイトはホンダ時代にも一緒だったニッキー・ヘイデン。
ロッシは2010年11月9日にバレンシア・サーキットで初めてドゥカティ・デスモセディチをテストした。1999年のアプリリア以来のイタリア製バイクであった。
前シーズンの肩の傷は、マレーシアでのシーズン前テストに備えるためオフに手術を行った。
ドゥカティは最初のテストから2回目のマレーシアテストまでにマシンを改善できず、
ケーシー・ストーナーのホンダから1.8秒以上後れを取り、ロッシにとっては不満であった。
開幕戦カタールGPは7位に終わり、
ウェットレースとなった第2戦スペインGPでは2位争い中に転倒、
ケーシー・ストーナーを巻き込んでリタイヤに追いやるミスを犯すが、自身は5位でレースを終えた。続くポルトガルGPも5位に終わるが、
第4戦フランスGPでは移籍後初となる3位表彰台を獲得する。
これはダニ・ペドロサとマルコ・シモンチェリが接触、
ペドロサはリタイアしシモンチェリはライドスルーのペナルティを受けたための結果であった。
これ以降はトップ争いには絡めない状況が続き、
第7戦ダッチTTからは
翌2012年シーズン用の1000ccプロトタイプマシン(デスモセディチGP12)に
従来の800ccエンジンを積んだニューマシン「GP11.1」を投入したが、
事態が大きく好転することはなかった。
完走はするものの表彰台に上ることはできず、
第15戦日本GPではホルヘ・ロレンソ、ベン・スピーズと接触しシーズン初のリタイアを喫した。この接触でロッシは指を骨折した。
続く第16戦オーストラリアでもレース中盤にクラッシュしてリタイアした。
第17戦マレーシアでは予選を9位で通過した物の、
決勝では2周目に転倒したマルコ・シモンチェリがコーリン・エドワーズのマシンに激突、
その後を走っていたロッシもシモンチェリの頭部に衝突した。
シモンチェリはこの事故による負傷で死亡し、レースはキャンセルとなった。
最終戦のバレンシアGPでもロッシは転倒したアルバロ・バウティスタに巻き込まれ、
ヘイデン、ランディ・ド・プニエと共にリタイアする。
結局ロッシはGPデビュー以来初めて優勝のないシーズンとなり、
年間ランキングも最高峰クラス自己最低の7位に沈んだ。
☆2012年
2012年シーズンも開幕戦カタールGPで10位、
第2戦スペインGPで9位、
第3戦ポルトガルGPで7位と、スローペースで始まったが、
レインコンデションの第4戦フランスGPで2位に入る。
レース序盤はテック3のアンドレア・ドヴィツィオーゾ、カル・クラッチローと3位を争ったが、
両名ともトラブルから脱落し、ロッシが表彰台を獲得した。
第6戦イギリスGPでは最初のフリープラクティスで最速タイムを記録したが、
決勝では9位に終わった。
その後も状況は好転しないままであったが、
8月に2013年は古巣のヤマハへ復帰することを発表する。
第13戦サンマリノGPでも2位に入ったものの、結局この2位2回がドゥカティでの最高位となり、
2年間勝利を挙げられないままドゥカティを去ることになった。
☆ヤマハ復帰 (2013-)編
☆2013年
2012年8月10日、ロッシは2012年シーズンをもってドゥカティを離れることを発表した。
同日午後には翌シーズンから2014年シーズンまでヤマハファクトリー・チームに再び加入し、
ホルヘ・ロレンソとペアを組むことが発表された。
2012年11月13日、14日にバレンシア・サーキットで行われたテストで、
ロッシは再びYZR-M1に乗る。
しかしながら、雨のために正確なラップタイムを計ることはできなかった。
2013年2月5日から7日にかけてセパンで行われたテストでは、
2013年型のマシンが用意された。
ここで彼は28名のライダー中3位の2:00.542を記録し、
これはペースセッターのダニ・ペドロサから0.442秒、
チームメイトのホルヘ・ロレンソから0.113秒差のタイムであった。
開幕戦カタールGPでは2位に入るが、続くアメリカズGPでは6位、スペインGPでは4位となった。
第4戦フランスGPではクラッシュしたがコースに復帰し、12位となる。
ホームグランプリのムジェロではアルバロ・バウティスタと接触してリタイアとなった。
第6戦スペインGPでは4位となった。
2013年6月29日に行われた第7戦ダッチTTでロッシは2年ぶりに優勝する。
続く2戦で連続して3位表彰台に上る。
その後も4位が6回3位が2回と安定した成績を残し、
237ポイントを獲得してランキング4位となった。
ロッシはシーズンを通して
カル・クラッチロー、ステファン・ブラドル、アルバロ・バウティスタらとセカンドグループで争った。
☆2014年
2013年シーズンが終わると、
ロッシはチーフエンジニアのジェレミー・バージェスとの
長きにわたった関係を解消することを発表した。
バージェスの後任として、
マルコ・メランドリのスーパーバイク世界選手権チームのクルーであった
シルヴァーノ・ガルバセラが起用された。
シーズンは開幕戦カタールGPで2位に入り、好スタートを切った。
レースはマルク・マルケスとの激しい争いが繰り広げられた。
第4戦スペインGP、第5戦フランスGPでも2位に入る。
2014年6月1日、ロッシはホームグランプリのムジェロでGP参戦300戦目を達成した。
第13戦サンマリノでロッシはシーズン初勝利を挙げる。
この勝利はシーズン初のホンダ車以外による勝利であった。
この勝利で彼はまた通算5000ポイントを達成した。
続くアラゴンGPでは予選6位となるが、決勝では濡れた路面でスリップ、
芝を走って激しくクラッシュした。
ロッシはクラッシュで短時間意識を失い、アルカニスの病院でCTスキャンを受けた。
シーズンのリタイアはこの1回のみであった。
第16戦オーストラリアGPではレースをリードしていたマルケスがリタイアし、
ロッシはシーズン2勝目を挙げる。
フィリップ・アイランドでロッシは2001年から2005年まで5連勝しており、この勝利は6勝目となった。
最終戦のバレンシアGPでは2010年フランスGP以来のポールポジションを獲得するが、
これはGPにおける自身60回目のポールポジションとなった。
決勝はマルケスに次ぐ2位となり、
マルケスから67ポイント差の295ポイントでランキング2位となった。
☆2015年
世界GP参戦20年目となる2015年は、開幕戦カタールGPでの勝利から始まった。
開幕戦での勝利は2010年以来であった。
ロッシはドゥカティのアンドレア・ドヴィツィオーゾの109勝目を阻止し、
3位にはドヴィツィオーゾのチームメイト、アンドレア・イアンノーネが入って
イタリア人ライダーが表彰台を独占した。
これは2006年日本GP以来のことであった。
第2戦アメリカズGPではマルケス、ドヴィツィオーゾに次ぐ3位となり、
第3戦アルゼンチンGPでシーズン2勝目を挙げる。
このレースでロッシはリアタイヤにエクストラ・ハードを選択し、
同タイヤを使用して優勝した初のライダーとなった。
GPキャリア200戦目となった第4戦スペインGPでは3位に入って8戦連続の表彰台となる。
続くフランス、イタリアでも表彰台を獲得、記録は継続した。
第7戦カタルーニャGPではチームメイトのロレンソが優勝、
ロッシは2位となりポイント差が1と詰め寄られたが、次戦ダッチTTではポールポジションを獲得、
決勝ではマルケスとの長いバトルを制して3勝目を挙げ、
3位に入ったロレンソとのポイント差も10へと広がった。
ポールトゥフィニッシュは2009年サンマリノGP以来のこととなった。
★さぁ、どうなる!?日本GP!!
というのがここまでのロッシ選手の流れになるわけです!
96年の125ccデビューから19年…。
こうして経歴を振り返ってみると、彼の経歴でGPの歴史本がかけるんじゃないかってぐらい
ボリュームがありましたねw
特にMotoGPでの活躍なんか、漫画にしたら絶対楽しそうな件でしたw
ホンダ時代のRC211Vを駆るロッシ、見てみたいなぁ!
セテ・ジベルナウとのライバル関係の件なんか絶対バチバチで楽しいに決まってる!
500ccからいきなり排気量の多いRC211Vになったのだから、切り替えは大変だったと思う。
それだけのマシンを乗りこなせるのだから、ロッシはやはり実力者なんですよ。
マシンの性能が強かったから勝てたなんて言ってる輩は、
ロッシの本当の強さを知らなかったのだろうなと今にしてみれば思いますね。
2004年に、ホンダやヤマハが強いのでなく、ロッシ自身が強いのだといわしめたのは
流石ロッシと言った所でしょう。
ヤマハ時代はやはり2007年にホンダ・ケーシー・ストーナーが登場、2008年にヤマハにチームメイトホルヘ・ロレンソが登場してきたのがデカいでしょうね。
2008年にタイヤをブリヂストンにしてくる辺りは、本当に研究熱心だなと感心させられました。
ロッシにとって辛かったのは2010年からだと言えるかもしれません。
あのロッシが転倒した上に、レースを欠場するなんて、
下記にライディングスタイルの部分でも後述しますが、
現在のロッシからは想像できない事だからです。
その後のドゥカティ時代は、ライダーとしても、人間としても辛い年だったのではないかと思います。
母国のマシンで満足な成績を収められなかったことももちろんですが、
マルコ・シモンチェリの死亡事故は本当にショックだったでしょう。
レースをする以上、覚悟しなければならない事ですが、それでもやはり辛かったはずです。
そんな苦しい時代を乗り越えて、2013年にヤマハに復帰してくれたことは、
きっと全世界のロッシファンが喜んでくれた事でしょう。
この時期から、前回紹介したマルク・マルケスが加わり、見応えのある四強ライダーたちの活躍が世を席巻するようになるのです!
ロッシ選手の魅力は何と言ってもバトル!!
バトルシーンがとても多く、抜かれても、終盤ラップで抜き返すなど、とかく展開が熱いのです!!
では、そんなロッシのライバルとの関係を改めて説明していきましょう!
☆ライバル関係
☆マックス・ビアッジ編
チャンピオンを争うライバルとの関係では、初期にはマックス・ビアッジとの不仲が知られた。
ビアッジとの関係は90年代半ばに始まり、2000年シーズンまで続いた。
緊張関係はロッシが世界選手権を連覇したことと、
ビアッジが自らへのサポート体制の構築に苦戦し始めるようになるにつれて弱まっていった。
「バレンティーノ・ロッシ自叙伝 What If I'd Never Tried It?」では、
ロッシはビアッジとの対立の理由および緊張に至った事件のいくつかに関して語っている。
ドキュメント映画『ファスター』にはそういったエピソードのうち、
レース中にビアッジが肘でロッシを押し出したり、
レース後の表彰式を待つ間に乱闘寸前になったりした模様が収められている。
☆セテ・ジベルナウ編
2003年、2004年シーズンのライバルとなったのはセテ・ジベルナウであった。
ジベルナウはサテライトチームであるチーム・グレシーニ・モビスター・ホンダのRC211Vに乗り、
2005年はファクトリー仕様のRC211Vの開発も担当した。
両者は当初好意的な関係にあり、
ジベルナウはロッシがイビサ島の別荘で開いたパーティーに参加したりもしていた。
その関係は2004年シーズンが始まると変化し、「カタール事件」で決定的な物となった。
第13戦カタールGPにおいて、
ロッシのチームクルーがトラクションを上げるために
レース前にスターティンググリッド上を「掃除」していたことが問題視され、
ロッシは同様の行為を行っていたマックス・ビアッジと共にペナルティを受けて
グリッド後方に降格させられた。
この告発を行ったチームの中に、
ジベルナウの所属するチーム・グレシーニが含まれていた。
ロッシとチーフエンジニアのジェレミー・バージェスは、
同様の行為は他チームも以前に行っていたと主張した。
以降両者は会話をすることも無くなった。
ロッシはジベルナウに対して心理的圧力を加えるためにこの事件を利用した。
カタールGPはジベルナウが優勝し、ロッシは転倒リタイアした。
ロッシはこれに腹を立て、ジベルナウに対して「お前はもう2度とレースに勝てない」と宣告した。
ロッシはこの「カタールの呪い」を否定するが、この「呪い」は現実となり、
ジベルナウは以後全く勝てないままキャリアを終えた。
スペインやイタリアのメディアのいくつかはこの「呪い」のことを取り上げている。
この他、2005年スペインGPでロッシは最終ラップの最終コーナーで強引にジベルナウのインを突き、弾き出して優勝した。
レース後は接触について謝罪せず、表彰式ではブーイングを浴びている。
☆ケーシー・ストーナー編
2007年にライバルとして現れたのはケーシー・ストーナーだった。
ドゥカティに乗った若いオーストラリア人ライダーは2007年の開幕戦に優勝し、
その後も勝利を積み重ねてタイトルを獲得した。
ロッシとストーナーのライバル関係は2008年アメリカGPで頂点に達した。
幾度となく順位を入れ替えた後、ロッシはコークスクリューでストーナーに追いついた。
ロッシは大胆にも縁石よりさらにイン側のダートに外れてストーナーを追い抜き、
コースに戻ったとき両者は接触した。
数ラップ後、ストーナーは11コーナーでグラベルにコースアウト、
どうにか復帰して2位に入ったが、ロッシが優勝した。
レース後にストーナーは「僕は史上最も偉大なライダーの一人に対する敬意を失った。」
とコメントした。このコメントに関して、ストーナーは次戦でロッシに謝罪した。
その後も2011年アメリカGPでは挑発的な言動を応酬したりもしている。
☆ホルヘ・ロレンソ編
2008年には期待の新星、ホルヘ・ロレンソがファクトリー・ヤマハに加入し
ロッシのチームメイトとなり、新たなライバル関係が生じた。
ロレンソはラグナ・セカと中国で大きくクラッシュし、その年のタイトルはロッシが獲得した。
2009年はバレンシア、アッセン、ザクセンリンクなどで厳しいバトルを制し、ロッシが優勝した。
特に、ロレンソのホームであるカタルーニャで
ロッシは最終コーナーでロレンソをパスして勝利を勝ち取った。
ロッシはこの年もタイトルを獲得したが、
翌2010年は肩の怪我や第4戦ムジェロでの骨折が影響し、
ロレンソがMotoGPクラスで初のタイトルを獲得した。
★むむむ、流石にベテランライダーともなると、ライバル関係の多い事^^;
ビアッジやジベルナウなんて、きっと見てたらヒヤヒヤしちゃってただろうなぁ^^;
寧ろ、ストーナーやロレンソとの関係は、ちょっと衝突こそあれど、
良好な関係のようにも思えましたね。
ロレンソとは当時、ピット内に壁を立ててお互い観ないようにしていたなんて逸話もありましたがw
今では互いに刺激しあえるよきチームメイトと言えるのではないでしょうか。
ここに付け加えるとしたら、マルク・マルケスも挙がるかもしれません。
マルケスは少年時代、ロッシを憧れのGPライダーとして見ていましたが、
今では共にサーキットを走るライバルです。
今期の第8戦のオランダGPでも、
終盤のコーナーでマルケスがロッシに被せる形でコーナーへ進入、
行き場を失ったロッシがグラベルにコースアウトしつつも、とっさの判断で前輪をウィリーさせ、
砂地を通過し、ショートカットする形でコースへ復帰、ポールトゥウィンを飾るという件は
今でも物議を醸しており、後世語り継がれるのではないかとも言われてるくらいです^^;
そんな一見するとライバル関係のめだつロッシ選手も、律義な一面を持っていたりもするのです。
☆乗車前の「儀式」
ロッシは非常に信心深く、レース開始前、
ピットから出て行く際には必ず精神統一の「儀式」を行うのは有名である。
レース当日はいつもMoto3のレースでスタートシグナルがどのくらい点灯しているかを確認し、
その後乗車前(プラクティス、予選、決勝いずれも)には必ずバイクから約2mの位置に立ち、
続いてしゃがみこみ、マシンの右ステップを掴む。
インタビューでは
「それはただ集中して、僕のバイクと話す瞬間だ。ある場所から次に動くように。」
と話している。また、バイクに乗り降りする際も常に同じ動作で行っている。
★イタリア人らしいラテン的な表情のロッシが表向きのロッシだとしたら、
この瞬間のロッシこそが真のロッシなのかもしれません。
では、実際レースになった時のロッシはどうなのだろう?
ロッシのライディングスタイルを出来る範囲で説明していきます。
そうしたら、見えてくるものもあるかもしれません。
☆ロッシのライディング
長身・長い手足を生かした積極的な荷重コントロールによって
マシンの性能を最大限引き出すことが特徴的である。
またタイヤのスライド感覚にも優れ、
2002年に駆ったホンダRC211Vの
エンジンブレーキ(バックトルク)によるリアタイヤのスライドに他のライダーが悩まされる中、
ロッシはそのスライドを積極的にコーナリングに活用しアドバンテージを得ていた。
タイヤのスライド感覚が鋭いため、スリップダウンやハイサイドでの転倒が極端に少なく
ロッシの安定した強さの要因(=リタイア・怪我が少ない)にもなっている。
特にハイサイドの処理は秀逸で、
マシンから振り落とされそうになっても一瞬早く反応して収束させてしまうライダーは稀有である。
受け身も巧いため転倒した場合にも大怪我を負いにくいという強みも併せ持つ。
また、ロッシは世界選手権に125ccクラスでデビューしてからの
連続出走記録を更新し続けていたが、2010年6月のイタリアGPフリー走行で
右脛骨を骨折し予選から欠場となり、最終的に230試合連続出場という記録となった。
その一方で雨には弱く、著しく成績が下がるか転倒といったパターンも見られていた。
目立つところでは2001年イタリアGP、
本来得意なムジェロで最終ラップで転倒し雨に弱いイメージの一因となっている。
しかし後には雨を克服したようで、2005年の中国GPでは
雨のレースでオリビエ・ジャックを抑え優勝を飾っている。
レーススタイルとしては典型的な「差し馬」型で、
トップを走るライダーの後にぴったり付け、
ラスト2~3周でスパート・優勝というパターンがホンダ時代には多く見られた。
ヤマハに移籍してからは、マシンの違いから他の勝ち方も見られるが大きくは変わってはいない。
予選一発の速さ的には他のライダーには負ける事があっても、
予選4番手以降(フロントローが取れなくとも)から気づけばトップというレース展開は定番である。
2009年のドイツGPで最多表彰台記録に並び、一発の速さもある、
ロングディスタンスの速さもあると、まさしく絶対王者としての地位を確立させている。
近年、ブレーキング時にコーナー内側の足をステップからわざと外すスタイルが流行している。
これに対しロッシは「バイク上でさらに前輪へ荷重がかかるように感じるから」としているが、
データロガーの回収情報では何も差が無く、速くなってもいないことも認めている。
今まで125cc、250cc、WGP、鈴鹿8時間耐久レースと、チャンピオンを取る、もしくはビッグレースで勝つというのは全て2年目で達成している。
一つだけの例外がMotoGPクラスでのチャンピオンで、これだけは1年目に達成している。
しかしMotoGPが800ccになった際にはやはり2年目で達成しているため、
1年を通しマシンを育てていき、2年目で結果を出すというのが本人のスタイルのようである。
★ロッシがコケないで安定して走っているのは彼がポイントリーダーとなっている
今シーズンまさに顕著に表れています。
まさか、スライド感覚に優れるというところまでは知りませんでしたが。
125ccからステップアップしてきたのが伊達ではないというのが伺えるライディングだと思います。
なので、もしかしたらロッシがマルケスのような走りが出来るようになる日が来るかもしれませんw
そして雨に関して言えば、ロッシは今ではそこまで苦手にしていないはずです。
近年はマシンにも「雨モード」がセッティングされていることもありますが、
とかくマシンコントロールやタイヤマネジメントの非常に上手な選手です。
それを垣間見せてくれたのが今期の第12戦イギリスGPです。
このGPでは序盤から雨が降り、全機雨用のセカンドマシンに切り替わってからの再スタートに
なりました。
案の定、マルケスは転倒してしまい、雨を苦手とするロレンソも後退した中、首位を走り続けて行ったロッシを見れば、それは誰もが頷けるはずです。
(その後ろをサテライト・チームのダニロ・ペトルッチが猛追していたドラマは、また別枠で紹介しますw)
ロッシがバトルが多いのは、上述の射し馬型であることが由縁かもしれません。
彼は本当に周囲を観察する選手なので、もしかしたら、
走っている中でペースメーカーとなる選手をロックオン、隙あらばぶち抜く!
ということをしていくから、必然とバトルになっていくのかもしれません。
では最後に、そんなロッシ選手が普段はどんな人柄なのかを紹介して今日はしめたいと思います。
☆性格[
イタリア人らしく非常に陽気な性格で知られる。
ファンサービス精神にあふれており、
ウィニングラップではウィリー、バーンアウトを積極的に行ったり、
イベントなどで観客を楽しませる。
しかしレースに対する姿勢は非常にプロフェッショナルであり、
テストを積極的にこなしマシン開発に尽力する。
また自らのミスで成績が芳しくない時などは無口で厳しい表情を見せるが、
自身、同郷と言うことで応援していたマッシミリアーノ・ビアッジの、
上手くいかない際はマシンのせい、
スタッフのせいというあまりの態度に辟易した過去もあり、
リタイアの原因がマシントラブルにあったとしても、
公の場でスタッフを責める発言は口にしない。
また勝利の際は必ずチームとスタッフに謝意を述べる。
こうした性格のギャップもロッシの魅力の一つである。
★まさにそのとおりですねw
ロッシ選手は見た目こそチャラいですが、人間関係はとっても紳士、そしてレースの事となれば、
とことんプロフェッショナル。
どこまでもどこまでも追及していく。
第2回目でこんなに濃いーGPNAVIになってしまいましたが、これが母国イタリアのみならず、全GPにゼッケン46番、バレンティーノ・ロッシを応援する観客の歓声が集まる理由なのかもしれません!
そして全国のロッシファンの皆さん!
ブログを書いているうちに、日本GP決勝まで後4日になってしまいましたw
ボクはマルケスファンですが、ロッシも大好きです!
一緒にMotoGP、楽しみましょう!!(。╹ω╹。)