今回はボクの挨拶は要らない。
今回のブログの主役はコイツだから。
YAMAHA・SDR
1986年~1988年の間にヤマハ発動機によって製造されていた、水冷2ストローク単気筒200ccの変わり種。
パッと見、コイツをネイキッド等と言いそうになるが、とんでもない。
SDRは『SDR』というジャンルだった!!!
…と言ってもいい。
80年代のこの時期と言えば、バイク愛好家の方々には容易に想像がつくだろう。
世はまさに、レーサーレプリカ全盛期!
しげの秀一先生のバリバリ伝説でも描かれています。
それこそ、まだ世界ロードレース選手権と呼ばれたいた現・MotoGPがとても盛りあがっていたあの時代です。
この人気を受けて
HONDAのレーサーレプリカ、
NSR250が大ヒットと言ってもよかったのではないだろうか?
YAMAHAもYZR500からレーサーレプリカ化した、TZR250を出したりしていて、それこそ、レース面でも市場でも俗に言う、
『HY戦争』が繰り広げられていた、夢のような時代だ。
そんなYAMAHAが、フルカウルのレーサーレプリカで走るだけがバイクの楽しさじゃないと、カウルレスのライトウェイトスポーツとして提案したのが、この
SDRなのだ。
その徹底ぶりはこのフォルムを見ていただければ分かるだろう。
徹底的に絞り込まれ、軽量化されたこのボディ。
乾燥重量105kgの125ccクラスの車体に、200ccの2ストロークエンジンを載せているのだ。
その加速は強烈だった。
当時の水冷2気筒2ストロークのようなパワーはなかったけれど、それでも34PSは発揮した。
乗り味はピーキーさを感じさせるかと思いきや、とても鋭い、思いきりのいい走りをする。
その秘密は、パワーユニットに仕組まれたYPVS(ヤマハ・パワー・バルブ・システム)が握っている。
高回転時にバルブの弁が開き、低回転時は閉じる。
これによって、2ストロークの極端な低速時のパワーダウン軽減に貢献していたのだ。
その軽い車体で峠を攻めに行くスタイルは、他のジャンルの追随を許さない。
セパレートハンドルで、前傾姿勢のポジションを強いられるこのマシンは、とてもツーリングをするようなバイクではない。
コーナーを軽々と駆け抜けるために産まれてきた、シングルスポーツなのだ。
ネイキッドという言葉では収められないマシンである。
似たようなコンセプトで、
スズキがウルフというバイクを出していたけれど、SDR共々、短命に終わってしまった。
当時のレーサーレプリカ全盛期のパワー思想の中では、ああいった、操る楽しさの提案は理解されなかったのかもしれない。
このバイクは、実はボクが生まれて初めて乗車したバイクなのだ。
父が通勤に使っていたバイクで、
子供の頃のボクをタンクにしがみつかせて、
前に乗せて走っていたと言うくらいだから。
引越しして暫くして、部品の故障などで放置されていくうちに、時代も変化した。
バブルは弾け、レーサーレプリカというジャンルの全盛期も後退を見せ、バイクその物の愛好家も減っていった。
悲しい話である。
ボクが小学生の頃にはSDRは、家の物置前に置かれた『過去のバイク』となっていたのだ。
それが、ボクが成人する頃に転機が訪れた。
父が実家から生前贈与を受けたのだ。
そのお金で父はこのバイクを直す算段を付けた。
幸い、ウチの車体はタンクは無事だった。
だから、タンクがダメになっていた中古の車体と組み合わせて、遂に復活させたのだ。
キーをイグニッションに回した時に、YPVSの『キュイイー、キュイー。』という音がこだまする。
コレはエンジン始動前のクリーニング音だ。
これだけでも、他のバイクとコイツは違うのだ、俺はただこいつに乗って走りに行くのではない、コイツと駆けていくんだ!
そんな気持ちにさせてくれる。
キックスターターを思いきり下まで蹴り込む。
半端なかけ方ではスターターに跳ね返されて痛い目を見るからぐっと踏み込む。
バリバリバリバリ…。
2ストローク単気筒の甲高いエキゾーストノートがこだまする。
これは4ストロークでは味わえない世界観だ。
シートに跨る…。
そのシートはシングルシートで、タンデムスペース等ない。
後ろに誰かを乗せて走るバイクではないのだ。
俺とコイツ。
人車一体となって、鼓動を感じてコーナーを駆け抜ける…そういったマシンだ。
タコメーターが無いのは最初は戸惑ったけど、乗り慣れればそんなもの必要ない。
必要な回転数はコイツが声で教えてくれる。
その甲高いエキゾーストで。
とにかく回すんだ。
回して、回して、とにかく回す。
殺人的な加速力。
コイツに乗ってる時は、まるで羽根が生えたかのような気分だ。
重みというものをまるで感じされない。
たまらずニーグリップするも、タンクが細くてしきれない(;^ω^)
その位、洗練されたボディだった。
そんなバイクで、筑波山風返し峠を駆け抜けた。
コークスクリューでこいつの軽さは武器となった。
車で例えるとハチロクのような楽しさがあった。
ボクにはこのバイクに対する並々ならぬ思い入れがあった。
そんなある日、フロントフォークからのオイル漏れが発生した。
ブレーキディスクにまで飛散する程であり、
一度オイルシールの交換はしたものの、インナーの錆などが原因で再発。
とっくに廃盤になっているパーツを集めることも出来ず、所有者である父の金銭的な事情もあり、修理を断念。
ウチでまた封印されることになる。
あの時、ボクが無理にでも
『所有権を譲ってくれ!』
と言っていれば、このバイクの未来は変わっていたかもしれない。
だけど、社会人成り立て、車のローンを返していくのでやっとのボクにそんな事を言える余裕などなく、ただ月日は過ぎていった。
そして2019年。
親父が『お前ならあのSDRいくらで買う?』
と聞いてきた。
耳を疑った。
バイク王に売りに出すという。
だが、正直二束三文のような値段がつかない状態であった。
タンクはサビサビ。
バッテリーは切れてる。
オマケに輝きを放っていたジャッカルのチャンバーまでサビサビ。
フロントフォークのオイル漏れ。
などなど。
だが、ボクが驚いたのはそんなことではない。
このバイクを手放すということ自体がショックだった。
それを嬉嬉として…おどけたようにして話す父には、もうこのバイクに対する思い入れ等ないように思えた。
もちろん所有者は父だ。
所有するも手放すも彼の自由だ。
でも…そのバイクにはボクの思い出もある。
一言、『このバイク売りに出してもいいかい?』と言って欲しかった。
父が冗談半分に
『このバイク乗るか?』
と聞いてきた。
ボクは
『乗ってもいい…。』
と一言だけ答えた。
『マジで?w』
『ああ…乗る。』
という会話をしたものの、それ以上の会話は続かず、後日、バイク王が引き取りに来ることになった。
その後の仕事終わり。
父から電話がかかってきた。
『SDRだけど、バイク王で3万くらいだって。5万で治るならお前乗る?』
こう聞かれたボクは
『乗るよ。』
と答えた。
割と真剣に。
通勤でコイツに乗る事も想像した。
ワクワクした。
またこいつと走ることが出来る。
ボクはソワソワしながら家に帰った。
…。
バイク王が来ていた。
父と交渉している。
『今、4万8千円で交渉中w』
ああ、そうですか。
どうやらボクはピエロにされたらしい。
バイク王の3万という価格に納得できなかった父が、5万でもこのバイクを買う人間がいるということを証明するために、スタッフの前でボクに通話をかけたのだという。
その甲斐あって、SDRは引き取られて行った。
二束三文の値段で。
たかだか1万ちょっとの値段をつり上げる為だけに、ボクはダシにされたのだ。
ボクの思い出毎、ダシにされたのだ。
ボクがもっと強固に『乗る』と言うべきだった。
名義変更してでも、ボクが管理すべきだった。
乗らなくなったあの日から、パーツをバラして保管すべきだった。
全ては、ボクの意思の弱さが招いたことだ。
だけど、父さん。
ボクのSDRへの思い入れを、
そんな形で利用して欲しくなかったよ。
ボクは本当に乗りたかったんだよ。
もう父さんには、ボクと2人で峠に走りに行った頃の思い出はなくなってしまったんだね。
そうじゃなかったら、仮に手放すとしても、ボクをダシにしてまで売りには出さなかっただろうよ。
バイクは所詮機械。
人間の都合で買われ、人間の都合で手放され、放置され、捨てられ、二束三文で売り飛ばされる。
だけど、そのバイクにだって思い出があった。
それだけは…覚えていてほしかった。
そんな悲しい話。
…日銭を稼げて、父は満足しているのだろうか?
コレで毎年の自動車税の負担は減るのだから、この決断だって間違いではないのは分かる。
だけど…。
ボクのこのバイクへの青春まで、バイクを売るためのネタにする必要はなかったんじゃないかな…。
後悔してもしきれない。
悔やんだって、SDRはもう戻ってこない。
あんな状態だったから、次の乗り手がつくかどうかも心配だけど…もし乗るなら。
乗ってくれる人がいるのなら。
どうか大切にしてやって欲しい。
アイツには、幼稚園の頃から20代後半までのボクの思い出がいっぱい詰まっています。
SDR!
あの世で鬼でもぶっちぎってこい!!!