
叙述的トリックは、推理小説でしばしばみられる文芸技法です。「嘘はいわないが、本当のことをすべては話さない」という基本戦略で、読者の思い込みを作り、意図的なミスリードを誘発させます。ビジネスの交渉業務では、圧倒的不利な情勢に陥ったときの起死回生の一手として有効なことがあります。有利な状況であれば、正攻法でよいのですが、窮地に陥っているのに定石どおり動けば、確率論で、悪い結果になるのが目に見えています。要は、「一か八か」という流れです。
「一」と「八」は、古典的サイコロ賭博の「丁か半か」に由来するという説があります。「丁」の上の部分「一」と、半の下の部分「八」を合成した言葉だというのです。「半」の旧字体は、「牟」と似ており、「八」という構造が読みとれます。
一方で、「一か罰か」という言葉が訛って変化していったという話もあります。一発勝負に賭ける意気込みを感じる点で、語源として面白い説だと思います。
ところで、SNSが勃興し、かつて深慮遠謀のうえで構成された「叙述」がとても短絡的になったのを痛感しています。今の時代は、論法の組み立てなど不要で、自分に都合のいい部分だけを切り取って情報発信すればいいのです。SNSによって、インスタントな発言ができるようになった弊害であり、古典的技法は、ほぼ絶滅したとみています。
最近見た実例をご紹介します。その領域のKOLを自認するZ氏は、A氏の記事に専門的知見から否定的コメントを記しました。Z氏は、A氏のリアクションが物足りなかったらしく、フォローを切りました。「第一人者Z様のご慧眼、卓越したご高見に感激しております」くらい明記しないといけなかったのかもしれません。
問題は、もう少し根深く、A氏は、こういう方法もあるのではないかという提案的要素を持っていました。非常識な誤りではなかったのです。
A氏は、公衆の面前での議論を回避するために折れ、なんの反論もせずに社会通念上の礼を記したのに、一方的にフォローを切られてしまったわけです。怒り心頭でX氏をブロックしました。居丈高なKOLに一太刀を浴びせるために最後の手段を講じたという経緯でした。
Z氏は、自分よりも格下にみていた小物にブロックされたことが気に障ったのでしょう。わざわざSNSで筆を取り、「間違いを指摘したらブロックされたので、もうこういうことはしない」「教えてあげない」と追加で発信しました。腹いせという感じでした。投稿者に対する敬意を著しく欠いた自分のコメントや自ら行ったフォロー外しの件には触れていません。まさしく、「本当のことをすべては話さない」スタンスを通しました。
私には、自分が知りたくない情報を遮断するZ氏の「バカの壁」(養老孟司著)にしかみえませんでした。自分の中で、感情の化学反応が起こり、Z氏の権威は地に堕ちてしまいました。それまでの尊敬の念が、すべて正反対のものに変化してしまったのです。
この件を通じて感じたのは、自分に対する敬意に異常執着する人間ほど、他人にはそうしない傾向が強いことです。自らフォローを切っておきながら、チェックしにいく姑息さも、片腹が痛いです。
見方を変えると、罪悪感なしに他人を見下してしまったり、自然に「えらそー」に振舞えたりするのは、ビジネスにおいては、才能の一部かもしれません。大会社で出世している人に、割と多い資質なのではないかと思うのです。周囲の印象が、「なにをいっているのか分からない」「人の話をまったく聞かない」くらいの人間が、トップに立つことが多い気がしています。なにがなんでも自分の悲願を成し遂げたい強い意思が、行動を支えている根幹であり、善し悪しは紙一重の世界なのでしょう。
文中に登場させた「えらそー」という言葉は、遺訓として受け継いだ言葉です。それが、口癖の方でした。この言葉には、不思議な力があり、なにか嫌がらせをされたときに役立ちます。「えらそーにすな」と緩徐に3回繰り返すと、怒りが自分の体外へ蒸散していく感覚が得られます。
実録は、以上です。
ここで、「どぶろっく」師匠の登場です。
ライブでの桃子のMCタイム
「今日きてくれて有難う。私も、(みんなに)会いたかったよ。このステージの上からだと、(みんなに)見つめられているのがよく分かるの。(みんなに)こんな愛されている私は世界一の幸せもの」
――もしかしてだけど、(みんなに)の部分が俺の聴覚では分からないんじゃないの~。
叙述的トリックでは、次のように記せます。
「今日きてくれて有難う。私も、会いたかったよ。このステージの上からだと、見つめられているのがよく分かるの。こんな愛されている私は世界一幸せ」
愛は、きっと奪うでも、与えるでもなくて、
気が付けば、そこにあるもの。
Posted at 2025/08/16 11:05:05 | |
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