
新宿で菊池桃子さんの出版記念記者会見を兼ねたファン向けのイベントが開催されました。2015年12月のことですが、あまりにも衝撃的過ぎて、ついこの間の出来事のようです。
サイン本手渡し会というセッティングでした。写真撮影と握手禁止の事前説明があり、会話は数秒という想定をしていました。
当日、会場に現れた彼女の衣装は、オフホワイトのタートルネックのセーターに同色のスカート、ワインレッドのストッキングでした。私は、白地にペイズリーの透かしが入ったイタリアンシャツにワインレッドのコットンスラックスで臨んでいました。以前のコンサートに着ていったそのために買った服です。島根の知人に頼んでわざわざローマから個人輸入する力の入れようでした。
10m先を数秒だけ横切っていった彼女の姿は、相変わらず神々しく、通算で5回目の遭遇となったのですが、毎回印象は同じです。
――妖怪みたいだな……。
あまりにも顔立ちが整い過ぎていて人間離れしているのです。男がいて、女がいて、妖怪菊池桃子がいるという妙な気持ちになります。
クイズ形式で記します。
私は、半個室での接見が5秒になると踏んで、いくつかの台詞を考えていました。
以下のいずれかを実行したことになります。
Aゴメンね。衣装が思い切りかぶっちゃったね。
B中学時代、軟式テニス部だったんですよね。僕もテニスボーイです。
C文芸やってるんです。桃子さん主演の映画化される作品を描くのが夢なんです。
D今年は大活躍でしたね。1月はゆっくり身体を休めて下さいね。
Eラジオで桃子さんに励まされて毎週20km走って30kgダイエットしたの、僕なんですよ。
F明日誕生日なんです。この本は一生の宝物にします。
整理券No.49を握り締め、整然とした集団に加わります。
No.1のラッキーボーイが入室していきました。顔が死刑台に向かう囚人みたいにこわばっていて噴き出しそうになりました。
壁越しに桃子さんの明るい声が聞こえてきます。内容までは聞きとれません。
――結構長いな……。
15秒くらいは余裕である感じでした。
そのNo.1が退室してきました。顔面蒼白で足元がふらついています。
彼を見て憐憫の情を抱き、同時に決心しました。
相手の印象に残らない会い方はしない。絶対硬い空気を作らないぞ、と。
会話は、Aの衣装とCの文芸を決意していました。反応が良ければ、Eの減量も切りだすつもりでした。本当は、Dのねぎらいを伝えるべきなのですが、時間があるかどうか。BのテニスとFの誕生日ネタも時間があればの保険的話題でした。
――以下、文芸短編小説風に記します。話自体は、ノンフィクションです。
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間合いを測ると、一人あたりの持ち時間は15秒程度のようである。この気持ちを伝えるのには十分過ぎる、と思った。不粋な男と思われてもいい。直截的に言い切って構わないだろう。32年間大好きです、と。
係員に促されて、一歩進んだ。ついに順番がやってきたのだ。
パーテーションで仕切られた個室の中は、心なしか空気が霞んで見えた。桃源郷に最初の一歩を踏みいれた旅人と同じ心境に違いない。別世界であった。
「こんにちは、今日は、有難うございます」
第一声は、桃子のほうだった。その場で身体を半回転させ、いきなり僕に視線を絡めてきた。妖しいまでの美貌だ。
機先を制することができなかった。刹那に、周章狼狽である。内部に数名の行列があるものと想定していた。まさか、いきなり熱視線で待ち伏せされているとは、予想外であった。
何せ心のアイドリングが全くできていなかった。彼女の前で衣服を剥ぎ取られた状態に近い羞恥心が襲いかかってくる。
奥歯に力を込め、辛うじて作りたての笑顔を維持した。愛しの君は、手を伸ばせば余裕で届く至近に佇立している。神武天皇の昔から僕らはここで出会うことが約束されていたのではないか。そんな錯覚を引き起こす魔力が彼女の視線に込められていた。
コンサートでの光景が思い出された。皆さん、もっと私をガン見していいんですよぉ。会場を煽る彼女得意の台詞であった。
この記憶が蘇ったことで、奇跡的に開き直ることができた。
以前読んだ小説で、泣きたくなるような美しい足という一節があったのを思い出した。彼女のが、まさにそんな感じだった。
下方から見上げていく形で、改めて桃子の顔を凝視した。遠慮会釈なく彼女の瞳を覗き返したのだ。自分の目から発する熱が、彼女の視線を押し返すのが分かった。
男なんだ、会話くらいリードしてみせる。
「桃子さん、出版おめでとうございます」
「有難うございます」
「僕、明日誕生日なんですよ。今日は、最高の思い出になりました」
「うわあ、おめでとうございますっ」
彼女が望むのなら、僕はこの場でひざまずき、惜しげもなくこの命を差し出すかもしれない、と思った。
自分で勝手に膨らませた想像の世界に、自分自身で戦慄を覚えてしまい、背筋に悪寒のようなものがとり憑いていた。
巷間の多くの女性は、おおよそ二通りに分類できる。はにかむと色香がこぼれ出てくるか、あるいは同じくはにかむと少女の頃の面影が滲み出てくるか。二項対立でこのいずれかである。
僕の目の前にいるのは、高校時代を彷彿させる幼き、あどけない女神であった。大きなくりっとした瞳と長いまつげが印象的で、まだティーンの名残がいくらか感じられる童顔だった。
僕と全く同色の衣服を着た桃子が、両手で書籍を持って構えている。
ちょっと余裕が出てきた僕は、表彰状を受け取る場面みたいだな、と滑稽に思っていた。
自然な流れで本に向かって緩徐に手を伸ばした。
二秒後、二人の手指が書籍を通じて繋がった。
「この本、誕生日の……、というより、一生の宝物にしますからね」――僕。
「何はともあれ、おめでとうございます」――桃子。
このとき、さらなる想定外が僕を襲ってきた。
まったく油断していたので対処ができない。
桃子の両腕が、それこそ妖怪のようにすうーっと伸びてきたのである。
趣味で文芸を、と言いかけたその台詞を慌てて嚥下する。
そうしなければ窒息死してしまう。
了解の意思を込めた視線であった。
握っていいんだよ、と訴えている。躊躇する僕を促す微かな首肯が見えた。
その瞬間の記憶はない。
確かなのは、僕の右手が、桃子の両手に包み込まれていたことだ。
指は細長く、僕よりもはるかに長い。体温は幾分低めだった。
――いつも応援してくれて有難う……。
――生涯君だけを応援します……。
心の深奥に潜む32年分の想いと未来永劫の誓いを絞り出していく。
真夏の草原で寝転んだときの感興に通じる、あの心地良さが持続していた。
僕の手は、潤いのある、でも真綿のように柔らかな場所に挟まれたままである。
その光景を見つめ続けていた。
かなり長い間、見つめ続けていた。
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正解は、Fの明日誕生日でした。
誤解なきよう記しておきますが、手を握っていたのは三秒程度だった、と思います。
それにしても営業的にズル過ぎます。事務所の方針で来場者に握手を禁じておきながら、本人が横紙破りを敢行するのですから。I love you more and more each day as time goes by.の心境であります。
ただ、このとき、生涯悔いが残るかもしれない愚を犯してしまいました。去るときは絶対に振り返ってはいけないと心に決めていたのにです。僕の視界には、まったく見知らない男と笑顔の彼女が握手している光景が焼きついてしまったのでした。
どうしても、もうひと目だけ、見たかったのです。