「鹿島海軍航空隊 本庁舎跡」に入ります。コンクリート製の壁の厚さは、30cm。天井の高さは、4m。シャンデリアやセントラルヒーティング、水洗トイレが完備されていたそうです。茨城県・霞ケ浦の南側湖岸にある美浦村に「鹿島海軍航空隊」はありました。「鹿島海軍航空隊」は1938年に水上機の練習航空隊として発足。練習航空隊は実際の飛行訓練を行う航空隊で、予科練(海軍飛行予科練習部)などの基礎教程を修了した飛行練習生たちが、連日厳しい訓練に励んでいました。太平洋戦争開戦後は水上偵察班や潜水艦の攻撃隊も加わり、内地の防衛・搭乗員の教育、鹿島灘における対潜作戦を主な任務とし、1,000人を超える大規模な基地となります。太平洋戦争後期には日本本土防空部隊となり、戦争末期には特別攻撃隊を編成し、沖縄戦において特攻作戦に従事しました。主力機種は「二式水上戦闘機」、「九三式中間練習機(赤とんぼ)」、「零式観測機(零式練習観測機)」、「零式水上偵察機」。赤とんぼ、および零観、零偵は訓練用として使われ、二式水戦は防空用として使われました。千葉県の香取航空基地と協力して米軍爆撃機や戦闘機を撃墜したこともあったといいます。1945年8月15日に第二次世界大戦が終戦したことでその役目を終え、翌年以降に旧制東京医科歯科大学予科や、東京医科歯科大学霞ヶ浦分院の結核療養施設や地域医療の拠点となりました。1971年には北側部分が国立公害研究所(現国立環境研究所)に移管され活用されましたが、1997年に霞ヶ浦分院がその役目を終え閉院し、その後、長らく跡地は放置されてきました。「ゴジラ-1.0」で使われた「震電」のコクピット!2階へ。長い煙突が印象的な「汽缶場(ボイラー室)跡」に向かいましょう。(日本最古の暖房用石炭ボイラーが現存!)(...続く)