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ATSUP_HARDのブログ一覧

2019年11月19日 イイね!

【水城】城めぐり

【水城】城めぐり元寇防塁を後にし、大和朝廷が築いたという続日本百名城のひとつ水城🏯へ🚃💨

水城🏯は、太宰府市・大野城市・春日市に跨り築かれた、日本の古代の城で、『日本書紀』にもこう記載されている「筑紫国に大堤を築き水を貯へしむ、名づけて水城と曰ふ」と、記録に残る日本最初の城だ👏

水城🏯は、663年の「白村江の戦い」に大敗した大和朝廷が、唐軍とその属国新羅の脅威に備えた防御施設で、同時期に築かれた大野城🏯・基肄城🏯に挟まれた博多湾側の福岡平野から筑紫に通じる平野を閉塞する「遮断城」で、大和朝廷の地方統治機関である大宰府を防御する形で築かれた🤔

アップにするとこんな感じ😳

イメージの方が分かりやすい😅
大野城🏯のある四王寺山⛰と西側の大野城市牛頸地区の台地の間の、一番狭い縊れ部を塞ぐ形で築かれ、平野を遮断する直線的な土塁と外濠を併せ持つ「城壁」(防塁)で、その規模は全長1.2km、幅77m、高さ9mになる👏

御笠川が北流する沖積地の軟弱地盤に築かれ、土塁の最下層部に多量の枝葉🌿を混入し、基礎地盤を強化する、敷粗朶工法で施工されている🤔

現在の御笠川‼️

水城3丁目の交差点🚥
県道112号線によって分断されている😱

水城🏯の大堤👏
660年、滅亡した百済復興の兵を挙げた百済の遺臣、鬼室福信らから救援を求められた中大兄皇子(後の天智天皇)は、日本と百済の主従関係を担保する人質であった百済の王子、扶余豊璋に安曇比羅夫が率いる兵5000と軍船170艘を添えて百済へと遣わした🤔

裏側は水城館になってる😅
百済復興軍の旗頭として担がれた扶余豊璋は百済王に推戴されたが、次第に実権を握る様になった鬼室福信を殺害する暴挙を起こし、百済復興軍は著しく弱体化し、唐・新羅軍の侵攻を招いた😱
【日本からの援軍】
第一派:安曇比羅夫以下 1万余人、船舶170余隻
第二派:上毛野君稚子以下 2万7千人
第三派:廬原君臣以下 1万余人
663年8月、倭国水軍は唐軍・新羅軍と白村江で激突したが、大敗を喫した😭

周囲には水城趾の石碑が「これでもか」ってくらい沢山ある😅

水城東門礎石👏

隣にも礎石が並ぶ😳

展望台へ🚶‍♂️

水城🏯の大堤を一望…とまではいかないが、雲間から漏れる陽射しが神々しく感じられる☺️

反対側は大野城🏯のある四王寺山⛰へと続く🤔
大和朝廷は、辺境防衛の防人、情報伝達システムの烽を配備し、水城🏯・大野城🏯・基肄城🏯と同時期に、肥後の鞠智城🏯・対馬の金田城🏯・長門の長門城🏯・讃岐の屋嶋城🏯・大和の高安城🏯を築いた😳

下に降りて水城🏯を一望👏

木樋跡🤔

基底部と上部の二段構造の土塁で、東西の端部の東門と西門から通行していた🤔

分断された防塁の断面😳
土塁上層部は、土質の異なる積土を10㎝ほどの単位で硬く締め固めて積まれた、版築土塁だった🤔

1400年近い遥か昔の遺構が現在に残る水城🏯
お見事でした👏
Posted at 2019/11/26 23:58:28 | コメント(1) | トラックバック(0)
2019年11月19日 イイね!

【元寇防塁】史跡めぐり

【元寇防塁】史跡めぐり福岡出張🛫で博多の夜🍺👯‍♀️を満喫した翌朝は、仕事前に史跡めぐり〜

下山門駅🚉から生の松原へ🚶‍♂️

海辺の朝🌅は寒い🥶

今回の目的は元寇防塁‼️

モンゴル帝国のMAX値😳
元寇(蒙古襲来)は、モンゴル帝国と、その属国である高麗による日本侵攻で1274年の文永の役、1281年の弘安の役である事はよく知られている☺️

元寇の発端は、マルコポーロの『東方見聞録』にあるらしい🤔

両脇の王から日本の黄金の容器を献上されるモンゴル皇帝クビライ・カアン(中央)は、屋根も床も窓までも純金で覆われる宮殿があるという「黄金の国ジパング」に興味を抱き、服属を迫るかなり上から目線の国書を送って突っ撥ねられると、征服を企てた😱

右が弘安の役で上陸を許した能古島🤔
遠方中央の玄界島⛰は文永の役では島の西を、弘安の役では島の東を元軍が通過⛵️⛵️⛵️⛵️⛵️

「鳥飼潟の戦い」で元軍に先駆けする竹崎季長👏
文永の役の元軍・高麗軍の総勢は39,700😳対馬・壱岐を攻略し、博多湾に襲来した😱
日本軍は奮戦するも、やがて水城🏯に敗走したが、夜間に日本側300余騎の軍勢が現れたことを理由に、元軍は悉く撤退🤔その後、大風🌀に遭い13,500余人という人的損害を被った😱
『八幡愚童訓』によると、元軍に八幡神の化身30人ほどが矢🏹を射掛け、恐れ慄いて海に逃げた元軍の前に兵船2艘が突如現れて元軍を皆討ちとり、辛うじて沖に逃れた者には大風🌀が吹き付けられたという😳

一瞬、これが元寇防塁⁉️と思ってしまうほど巨石で整備された「生の松原」の海岸🤔

元・高麗の侵攻を撃退した鎌倉幕府は、高麗出兵計画と同時に、再度の蒙古襲来に備えるための石築地(元寇防塁)の築造を進めた🤔

キターッ‼️元寇防塁👏
嘗ては、博多湾岸に約20kmにも及ぶ元寇防塁が築かれていたというから驚きだ😳
1281年、元軍と属国高麗軍を主力とした東路軍57,000人・軍船900艘と旧南宋軍を主力とした江南軍約100,000人・軍船3,500艘を合わせた総勢約157,000人・軍船4,400艘という世界史上最大規模の艦隊が日本に襲来した😱

対馬・壱岐を占領した東路軍は博多湾岸から上陸しようとしたが、博多湾岸を覆い尽くす様な20㎞に亘る防塁を見て上陸を断念した☺️

日本軍の中には伊予の御家人・河野通有が武勇を示すために石築地を背に陣を張って東路軍を迎え撃った👏 画像中央の赤い服の人物が河野通有で「河野の後築地」と呼ばれ称賛された😊

石築地は、最も頑強な部分で高さ3m、幅2m以上ともされており、日本側が守備する内陸方面からは騎乗しながら駆け上がれるように土を盛っており、元軍側の浜辺方面には乱杭が打たれた🤔

約2月に及ぶ攻防の中、東路軍内で疫病が蔓延し、さらに7月30日夜半、台風🌀の襲来に、元軍の軍船の多くが沈没、生き残った諸将は頑丈な軍船から兵卒を無理矢理降ろして乗りこむと、鷹島の西の浦より兵卒10余万を見捨てて逃亡した😳

日本軍による鷹島総攻撃により10余万の元軍は壊滅し、一部は捕虜となった😱
神風🌪が吹いたとは言え、元軍157,000のうち、帰還者の数は少なくとも14,000と云われ、勇猛な倭人像および倭人脅威論が形成された👏

南宋遺臣の鄭思肖は「倭人は狠、死を恐れず、たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。倭の婦人も甚だ気性が烈しく、犯すべからず。倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし」と語ったと云う🤔

元の衰退により役目を終えた元寇防塁も福岡城🏯の築城で石を転用され、福岡市内10箇所と長崎に点在するだけとなった😥
およそ750年前に築かれ、僅かながらも現存する元寇防塁‼️お見事でした👏
Posted at 2019/11/23 12:29:09 | コメント(3) | トラックバック(1)
2019年11月17日 イイね!

【飛山城】下野城めぐり③

【飛山城】下野城めぐり③かなりアップ⤴️が遅れてしまったが、下野国城めぐりのラスト、大規模な遺構を遺す中世城郭、飛山城🏯へ🚐💨

飛山城🏯の歴史は古く、鎌倉時代後期、天武天皇の後裔、清原氏の一族である芳賀高俊によって築かれてから、およそ300年もの間、芳賀氏の居城として重要な役割を担ってきた🤔因みに、宇都宮市には今も「清原」の地名が残る😳

飛山城🏯は、北と西を鬼怒川及びその支流に沿った比高差約25mの断崖、東と南を二重の土塁と堀に囲われた要害堅固な平山城だ🤔

飛山城🏯は発掘調査を基に、城域が最も拡大した戦国時代に合わせ、復元整備された遺構がおよそ13㌶もの範囲に亘って広がっている👏

とびやま歴史体験館に駐車🚐大手前でパチリ📸

「飛山城跡」の碑と外堀(6号堀)に架かる大手木橋😊

外堀(6号堀)の土塁上には、物見櫓が5ヶ所ほぼ等間隔に築かれていた🤔城跡からは「烽家」と記された墨書土器が出土しており、平安時代初め頃にはこの地が烽火台として利用されていたと考えられている🤔

櫓台の土塁登り🚶‍♂️が出来る😅

5人一度に登ったら切れそうなロープ💦
当然の如く、土塁を登る😅

土塁を攀じ登る姿は差し詰めこんな感じだろう😅

土塁上から外堀(6号堀)を見下ろす👏

土塁の内側はこんな感じにキレイに整備されている☺️

下に降りて外堀から攻める‼️堀の折れもクッキリな、横矢のかかる櫓台4👏
1557年には、常陸国の佐竹義昭支援による宇都宮城奪回作戦の最前線基地となっていたため、その姿は正に闘う城だ👏

反対側からパチリ📸
堀と櫓台、土塁、木橋が織り成すハーモニーが堪らん👏

1590年の小田原征伐の後、源頼朝に倣い、鎌倉を発って宇都宮城🏯に入った豊臣秀吉は「宇都宮仕置」を行い、飛山城🏯も破却され廃城となった😱
この崩れた櫓台3もその名残だと云う😳

城域の南側に廻ると外堀(6号堀)の堀底を歩ける🚶‍♂️左手は住宅街🏡になっている😳

外堀が物見櫓台を縫うように折れを描いている👏

飛山城🏯の南には「あずき洗い坂」というミステリースポット👻があり、夜になると、あずきを
笊に入れて洗っている様な不思議な音が聞こえたと云う🥶

大手前に戻り城域へ🚶‍♂️

木橋を渡ると土塁が行く手を阻む🤔

土塁の端から進むと…🚶‍♂️

枡形虎口になっている👏

虎口を抜けると内堀(5号堀)に架かる土橋と木門に出る🤔

外堀(6号堀)と平行に走る内堀(5号堀)👏

内堀(2号堀)の土塁👏

畝の遺る実戦的な内堀(2号堀)👏

内堀(2号堀)に架かる土橋👏

兵の詰所だった掘立柱建物が復元されている🤔

復元工事🚧真っ最中👷‍♂️

主曲輪をL字に囲う内堀(2号堀)は複雑に折れ、横矢掛の構造となっている👏

ん〜正に闘う城👏

主曲輪の内堀(3号堀)

飛山城🏯主曲輪の内堀(1号堀)あたりから望む鬼怒川☺️

直線的な内堀(4号堀)奥に畝が見える👏

やはり要所要所に折れがあり、横矢掛になっている👏

内堀(4号堀)を突っ切る土橋😊

地面を掘ってその上に屋根を置いた中世竪穴建物は、貯蔵庫や兵士の詰所として使われたらしい🤔

南側に廻ると、抉られた様な内堀(5号堀)が😳

東側とは異なる荒々しい表情を見せる👏

内堀は幅17m、深さ6.5mもある大掛かりなもので、堀底から見上げると、この城の防御力の高さが窺い知れる😳

広大な城域と往時の雰囲気そのままの大規模な遺構を現在に遺す飛山城🏯お見事でした👏
Posted at 2019/12/13 20:54:19 | コメント(2) | トラックバック(0)
2019年11月17日 イイね!

【宇都宮城】下野城めぐり②

【宇都宮城】下野城めぐり②下野城めぐり第2弾は、嘗ては関東七名城のひとつに数えられた宇都宮城🏯へ🚐💨

宇都宮城🏯は平安時代末期、藤原秀郷、若しくは藤原宗円(宇都宮氏の祖)が前九年の役(1051~62年)の功により得た地に館を構えたのが始まりと伝わる輪郭梯郭複合式平城で、以後鎌倉時代から戦国時代まで530年間にわたり国司・守護であった宇都宮氏の居城として盛えた🤔

藤原秀郷は「平将門の乱」を鎮定した一人で、「百足退治伝説」や「百々目鬼伝説」で知られる
「俵藤太」の異名を持つ武勇の誉れ高い武将だ👏
因みに、現在の宇都宮の地には「百目鬼通り」の地名が残っている😳

1597年、豊臣秀吉は、宇都宮国綱が石高を偽ったとして、備前に配流し、浅野長政が暫くの間、城代となり、その後は目紛しく城主が変わった😳

倉庫に飾ってあった幟🤭左から、宇都宮氏・奥平氏・本多氏・松平氏・阿部氏・戸田氏🤔

1598年に蒲生秀行、江戸時代に入ると、奥平家昌、忠昌、次いで1619年には、家康の懐刀、本多正純が15万5000石で入封し、城と城下町の大改修を行い、現在の宇都宮の礎を築いた🤔

宇都宮城🏯本丸‼️
本丸には嘗て、歴代将軍の日光東照宮参拝の際の宿泊場「御成御殿」が在り、かの有名な「宇都宮城釣天井事件」が起きた⁉️

事件のあらましは、本多正純が将軍徳川秀忠の暗殺🗡を謀り、御成御殿を釣天井に改造した疑いをかけられ、改易処分になったということだが、実際にそんな仕掛けはなかった😳

土塁上に登れる様になっている🚶‍♂️
幕府の絶対的な権力者である本多正純が無理矢理に罰せられたこの事件には黒幕説がある🤔
①将軍徳川秀忠に疎まれた
②亀姫(家康の長女・秀忠の姉・奥平信昌正室)
に恨まれていた(宇都宮城釣天井を密告した)
③土井利勝の陰謀

復元された清明台櫓‼️中にも入れる😊
何れにせよ、周囲から妬み嫉み受ける能吏的立場にあった本多正純は政敵も多く、その上、大身になった事で一層拍車がかかり、讒言、謀略へと繋がったのだろう😱

父、本多正信の遺言でも「3万石以上の加増は決して受けるな‼️受けたら必ずや当家に災いが降りかかる」と…😥

土塁上を進む🚶‍♂️
櫓と土塀は木造本瓦葺きで白漆喰総塗籠で仕上げられている👏

こちらは復元された富士見櫓😊

復元された三の丸と二の丸を繋ぐ土橋の石垣🤔

外周に周り、富士見櫓を仰ぎ見る👏

宇都宮城🏯の巨大な本丸土塁👏手前が清明台櫓で、奥に見えるのが富士見櫓🤔堀は水が涸れている😅

宇都宮城🏯と言えば、このショット📸

戊辰戦争では土方歳三らに率いられた旧幕府軍が宇都宮城🏯を攻略し、奪還に来た新政府軍と激しい戦闘を繰り広げたが、旧幕府軍は敗北を喫し、宇都宮城🏯と城下は炎上🔥した🙏

現在、「よみがえれ宇都宮城」を掲げ、復元計画が進んでいるが、土塁は鉄筋コンクリート造だ😳

ちょっと残念な部分もあるが、今後の復元に期待したい😅
Posted at 2019/12/05 11:30:08 | コメント(1) | トラックバック(0)
2019年11月17日 イイね!

【皆川城・栃木城】下野城めぐり①

【皆川城・栃木城】下野城めぐり①休日だというのに宇都宮で商談😱が入ったので、ついでに下野国の城めぐりへ🚐💨

先ずは、東北道🛣から見える山容が城好きの興味をそそる皆川城🏯へ

皆川城🏯は1450年頃、会津田島から移り住んだ皆川氏によって築かれた東西450m、南北300mの規模の山城で、麓からの高さは80m程だ🤔

居館があった皆川会館の駐車場に止め、皆川城🏯をバックにパチリ📸

トイレ🚻横のパンフレットを片手に攻城開始‼️

皆川城🏯はその形状から「法螺貝城」とも呼ばれている🤔

イキナリ現れる竪堀👏

竪堀脇から登る🚶‍♂️

竪堀と土塁のコラボ👏

まさに山全体が城‼️

良い雰囲気を醸し出す枡形門の虎口👏

階段状の帯曲輪や腰曲輪が配される様は、まさに法螺貝城👏

分かりづらいが「城山」と描かれたイルミネーション😅こうゆうのはホント…😱

一の曲輪を望む😊

当時の北関東は越後の上杉謙信、相模の後北条氏ら二大勢力の狭間にあり、皆川山城守広照は乱世の生き残りを賭けて従属、離反を繰り返し、織田信長にも黒葦毛の馬を含む名馬三頭🐴🐴🐴を送って誼を通じたり、徳川家康とも交流した🤔

階段状の曲輪を断ち切る竪堀👏

真上からだと「折れ」が見て取れる👏

二の曲輪から望む一の曲輪👏
山頂一帯は、東に一の曲輪(山頂部本丸)、中央に二の曲輪、西に西の丸が配されている🤔

西の丸‼️

城の防御力の高さを窺い知る仕掛けが至る所に見られる👏
ただ現実は、1590年、豊臣秀吉の小田原征伐の際、上杉景勝勢の前に抵抗虚しく落城した🙏

城主皆川広照は北条氏照に属し、小田原城🏯竹浦口を守備していたため生き延びるが、夜間に密かに城を出て、徳川家康に投降して所領を安堵された😥

一の曲輪側から西の丸を望む👀

皆川城🏯本丸に到着‼️

皆川城内にあった金の鹿🦌が太平山⛰に埋められたという伝説も残る😳

下山🚶‍♂️し、皆川城🏯の全景を仰ぎ見る👏

往時の姿を現在も色濃く遺す皆川城🏯お見事でした👏

続いて、栃木城🏯へ🚐💨

栃木城址があるのはその名も「城内町1丁目」😳
かなり狭い通路だったので、入口にでーんと駐車して、攻城開始😅

1591年、家康に本領安堵された皆川山城守広照は居城を皆川城🏯から栃木城🏯に移し、周囲五百十間(約927m)の平城を築き、西側を流れる巴波川を外堀に城下町を整備した🤔
近江商人を誘致し野州麻を商業の基盤に、日光例幣使街道の宿場・栃木宿として巴波川の舟運で繁栄を見せたが、現在は東丸の北西部の土塁と堀の一部を遺し、城の名残をとどめた城址公園として整備されている😥

堀跡🤔
皆川広照は、徳川家康に鬼っ子として忌み嫌わられ、生まれてすぐに捨てられた家康の六男・松平上総介忠輝を拾わされた人物だ😅

東丸の土塁の名残だろう🤔
この栃木城🏯は、鬼っ子忠輝が辰千代の時代を過ごした場所で、忠輝は「玉興記」に、『此人素性、行跡実に相強く、騎射人に勝れ、両腕自然に三鱗あり、水練の妙、神に通ず、故に淵川に入って蛇竜、山谷に入って鬼魅を求め、剣術絶倫、化現の人也』とまで記される人物で、幼少期も相当にワンパクで周辺の野山を駆け回っていたことだろう☺️

小さい城跡なので、すぐ裏に回ると堀跡がある🤔
1603年、皆川広照は、忠輝の御附家老となるも、忠輝の粗暴さに手を焼き、1609年には忠輝の行状を駿府の家康に訴えた😳

裏側から土塁に登る🚶‍♂️
忠輝は逆に広照らの老臣が政務を牛耳っていると訴え、家康は忠輝の言葉を聞き入れ、広照らが家老として不適格ということになり、改易されてしまった😳

大御所徳川家康による皆川広照の改易と、城取り壊し政策により、築城からわずか19年間で廃城となった😱
攻城も5分で終了😅

その後の忠輝は、家康に勘当され、25歳の時、兄秀忠により改易・配流に処され、五代将軍徳川綱吉🐕の時代、92歳まで生きた😳
Posted at 2019/12/02 13:08:05 | コメント(2) | トラックバック(0)

プロフィール

「@はらペコ星人 さん
ん〜全く分からずです😅
今夏は越前攻めしたいですね😆」
何シテル?   04/23 19:13
ATSUPHARD改め、ATSUP_HARDです。よろしくお願いします。
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