暇を持て余していたので、川越までドライブ🚐💨
先ずは、既に何回訪れたかも思い出せない川越城🏯をオサライ😊
川越城🏯に来る際は、本丸御殿前の駐車場🅿️が無料でお得だ☺️
川越城🏯は、別名、初雁城、霧隠城とも呼ばれる武蔵野台地の北端の丘陵地に築かれた連郭式平山城で、北に赤間川(現新河岸川)・入間川・越辺川、南に遊女川という要害に、4基の櫓、13の門を擁する総面積9万8千坪を誇る大城郭だ👏
東側から見る川越城🏯本丸御殿👏
川越城🏯は、日本百名城、関東七名城のひとつで、1457年に上杉持朝が足利氏に対する本拠地とするため、太田道真、道灌父子に築城を命じたのが始まりとされ、縄張りは「道灌がかり」という「連郭式縄張」で、独立した曲輪を連ね、周囲に土塁を築いていた🤔
川越城の名称を表記する際、中世は「河越城」、近世以降は「川越城」と表記される🤔
本丸御殿大広間が現存しているのは、日本では川越城🏯と高知城🏯だけだ👏
1545年、河越城🏯三千の北条方を扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏・山内上杉憲政の総勢八万の大軍で囲みながらも、一夜にして大敗を喫した日本三大夜戦の一つ「河越夜戦」を経て、大道寺政繁、「知恵伊豆」こと松平信綱、松平斉典らによって城郭は大拡張された🤔
現存する本丸御殿は二の丸にあった御殿が1846年に焼失🔥し、再建したものだ👏
御殿玄関の両脇に配された櫛形塀👏
屋根は瓦葺、櫛形の窓には格子が嵌め込まれている🤔
本丸御殿北側👏
内部に入ってみよう😊
本丸御殿内の長い廊下
内部も見学できるのはありがたい☺️
しかも100円‼️
中庭
家老詰所
なんとなく悪巧みをしている様に見えてしまう😅
本丸御殿の襖絵👏
襖というか杉戸に描かれている🤔
欄間の彫刻も見事だ👏
杵黒熊毛槍鞘🤔
日本号、蜻蛉切と並ぶ天下三名槍のひとつで、唯一現存しない「御手杵の槍」の鞘(レプリカ)😳
「御手杵の槍」は、戦国時代に結城晴朝が島田宿の名工五条義助に鍛えさせた刃渡り約140㎝、全長約380㎝の大身槍で、結城晴朝が戦場で挙げた首級十数個を槍に通して帰城する途中、中央の首級が落ちてしまい、担いだ槍の姿が手杵の様に見えたので、「御手杵」の名がついたと云われる😳
戦国時代の人の感覚にゾッとする😨
「御手杵の槍」は徳川家康の次男で結城家を継いだ結城秀康に伝わり、その子孫、松平大和守家(前橋・川越松平家)が受け継ぎ、その名に因んだ手杵の形をした巨大な鞘を作り、参勤交代では馬印として掲げていた🤔
熊毛で覆われた鞘の重量は6貫目(22.5kg)もあり、雨で水を吸うと10貫目(37.5kg)を越え、運ぶのもひと苦労だっただろう😅
しかし、昭和20年の東京大空襲✈︎によって、東京大久保の松平邸と共に「御手杵の槍」も焼失🔥した😱
5分ほど歩いた所にある富士見櫓跡👏
天守の代用となった富士見櫓は、基壇の高さ51尺(15.4m)、櫓の高さも51尺(15.4m)だった🤔
国立歴史博物館にある屏風絵には在りし日の富士見櫓が描かれている👏
東側にある石段を登る🚶♂️💦
石段を上がると三方向に分かれる🤔
富士見櫓跡☺️
新編武蔵風土記稿によると富士見櫓を築いたのも太田道灌だ🤔
一段下に鎮座する御嶽神社⛩(左)と富士浅間神社⛩(右)
さらに一段下には、富士見稲荷大神⛩
眼光鋭いお狐様😳
今にも飛びかからんとする躍動感が感じられる😳
お狐様の鋭さと、ひとりぼっちが相まって若干コワイ雰囲気😅
続いて、喜多院へ🚶♂️💦
「時の鐘」っぽいうなぎ屋さん😳
天海大僧正の像と白山権現社⛩
怪僧南光坊天海は徳川家康〜秀忠〜家光の徳川三代に渡るブレーンで、 「黒衣の宰相」 の異名をとり、107〜116歳くらいの長寿、且つ高名な僧であるにもかかわらず、前半生が謎に包まれていることから、明智光秀説まである🤔
①生年がほぼ同時期と推定される
②天海は自らの過去を語らなかった
③天海の諡号は「慈眼大師」
光秀の故郷の「慈眼寺」には木像と位牌がある
④比叡山に「願主光秀」と刻まれた石灯篭がある
⑤喜多院を「春日局」は大切にした
※春日局は光秀の姪
⑥天海が「日光」にある「明智平」の名付け親
※明智日向守光秀の中に「明智平」「日光」
⑦筆跡が類似
⑧日光東照宮の装飾に多数の桔梗紋がある
⑨『関ヶ原合戦図屏風』に甲冑姿の天海がいる
などなど、本能寺の変、家康黒幕説と紐付けて語られることも多い🤔
確かに『関ヶ原合戦図屏風』の家康本陣に僧侶である天海が甲冑姿で描かれている😳
でも天海の甲冑って、このラスボスみたいなヤツなんだよね〜😳どーも光秀っぽくない様な…😅
重要文化財の山門👏
1632年天海大僧正により建立され、喜多院で現存する最古の建物だ🤔
重要文化財「鐘楼門」👏
2階の前面には龍🐉
背面には鷹🦅の彫刻がある👏
慈眼大師・天海坐像を安置する1645年建立の重要文化財「慈眼堂」👏
1639年建立、総高13m、方三間の多宝塔👏
喜多院の本堂、慈恵堂😊
比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源を祀る堂宇で、大師堂として親しまれ、潮音殿とも呼ばれる🤔1638年の大火🔥以後、いち早く再建された😳
本堂と庫裏を結ぶ渡廊下🤔
川越の大火では、山門と経蔵以外の伽藍を焼失🔥
翌年、三代将軍・徳川家光の命で、江戸城🏯紅葉山御殿の一部を移築した「庫裏」「客殿」「書院」は現存する江戸城🏯の移築建築物だ👏
渡廊下から見る客殿👏
客殿が江戸城🏯にあった頃、三代将軍・家光がここで生まれたということから、「徳川家光公 誕生の間」と呼ばれている👏
また書院には、家光の乳母・春日局が使用していた部屋「春日局化粧の間」も現存する👏
日本三大羅漢のひとつ「五百羅漢」👏
1782〜1825年の半世紀にわたって建立されたもので、538体の石仏が鎮座する😳
慈恵堂の裏手には、徳川家康の次男結城秀康の子孫である川越藩主松平大和守家歴代藩主の廟所がある🙏
喜多院・仙波東照宮の裏手には、城さながらの深い堀が廻らされている👏
慈眼堂の脇を南に進むと、その途中にあるのが厳島弁財天神社⛩で、周囲は葵庭園と呼ばれる🤔
続いて、日本三大東照宮のひとつ仙波東照宮へ🚶♂️
仙波東照宮の玄関口、随身門👏
嘗ては、後水尾天王の後染筆なる「東照大権現」の勅額が掲げられていたと云う🤔
随身門を潜り抜け、本殿へと伸びる参道の途中に建つ石造りの鳥居は、川越城🏯城主 だった堀田正盛が1638年に奉納したものだ👏
柱に「東照大権現御宝前、寛永15年9月17日堀田加賀守従四位下藤原正盛」の銘文が刻まれる👏
急な石段💦
徳川家康の遺言により、遺骸を久能山から日光へ移葬する道中、喜多院にて天海大僧正が実に四日間の法要を営み、家康公の木像を彫り、大堂に祀ったのが仙波東照宮の始まりで、天海は、高さ五間の丘陵を築きあげて立派な社殿を造り、1633年11月16日遷祀した🤔
三つ葉葵の紋の門😁
この仙波東照宮は、日曜日の9:00〜16:00以外は門が閉ざされているので、注意が必要だ☺️
拝殿手前の手洗鉢は、元々江戸城🏯二の丸にあったものだ😳
1638年に川越を襲った「寛永の大火🔥」は、喜多院と同様に仙波東照宮も焼き尽くし、三代将軍徳川家光の命で、先ず東照宮の再建が行われた👏
拝殿前に並ぶ二対の狛犬も江戸城🏯から移設されたものだ😳
因みに、埼玉県最古の狛犬と云われている🤔
歴代川越城主が奉納した石灯籠👏
拝殿・幣殿は一棟の建物になっており、拝殿と背中合わせに幣殿が接続し、平面で見ると凸型になっている🤔
拝殿・幣殿は、江戸城🏯二の丸東照宮の拝殿であったと云う説もあるが、真偽の程は確かではない😳
本殿👏
本殿だけは、柵があって入れない😢
仙波東照宮は久能山・日光・和歌山・上野などの東照宮とは異なり、権現造りではなく、拝殿・幣殿と本殿が分離している🤔
石垣上の瑞垣に囲まれる様にして本殿が構えられており、正面に平唐門が開かれる☺️
本殿は拝殿に比べて装飾性が豊かになり長押から上は夥しい数の極彩色の彫刻で埋め尽くされているが、遠くて確認できない😭
ついでに川越歴史博物館へ🚶♂️
「展示換えしてないかなぁ」と期待しつつ
看板が変わってる😳
「建物老朽化、館長老朽化、でも、おもしろい!」
1Fは目新しいものがなく、スルーしようとしたら、館長の長話に捕まってしまった😅なんとか切り上げて2階へ🚶♂️
「尻鞘付略太刀拵」
フッサフサ☺️
「川越城主松平大和守斉典所用 葵紋ちらし大小拵」
お馴染み忍者道具😊
三階は甲冑がズラリと並ぶ👏
展示換えがあったようだ😊
トンボの蒔絵を散らした「皮包勝虫蒔絵頭形兜 南蛮胴具足」一作物ではなく、館長のコーディネートの様だ🤔
黒・赤・金のバランスが絶妙な迫力の一領「黒漆塗縫延胴二枚胴具足」👏
これは変わってる😳忍び甲冑なのか⁉️
捻り鉢巻が凛々しい「金箔置抹頭形兜」👏
兜の前立てと後立てに月🌙を掲げ、胴部分には兎🐇の皮を用いた「古頭形兜 紺糸威革包二枚胴具足」😳
重量感がスゴイ「萌黄糸威胸赤連山道二枚胴具足」😳
お洒落な出で立ち「本伊予札赤白威丸胴具足」👏
迫力がハンパない「紺糸威碁石頭二枚胴具足」😳
群を抜くオーラを放つ「伝織田信長所用 南蛮帽子形兜」👏
抜群のカッコよさ「伝加藤嘉明所用の甲冑」👏
やっぱ川越歴史博物館はおもしろい‼️
今回は小江戸川越を時間をかけて廻り、再発見の連続でした😊