かなりアップ⤴️が遅くなってしまったが…😅
弾丸ツアーの第二弾は…
やはり一度は行っておきたい、天下分け目の大舞台「関ケ原」へ🛻💨
1600年、石田三成率いる西軍約85,000と徳川家康率いる東軍約88,000が繰り広げた、戦国最大ともいわれる天下分け目の戦「関ケ原の戦い」
因みに現在の関ヶ原町の人口は6,700人ほどなので、合戦当時は凡そ25倍の人口密度になっていた😳
兜を象った関ケ原町章😳
「関ケ原」という地名の由来は、「関所」のある「原っぱ」という説があり、「関東」「関西」という呼び名も、関ケ原を境にしているからとも云われている🤔
徳川家康最初陣地がある桃配山‼️
ここ桃配山は、672年に起きた日本最大の内乱「壬申の乱」の際に、大海人皇子が本陣を置いたとされる地で、村人から献上された山桃🍑が美味しかったので、大海人皇子は代金を支払い、兵士らに配ったことが地名の由縁で、この古代の「天下分け目の戦い」も、ここ桃配山に陣を張った大海人皇子が大友皇子に勝利している😳
現在は民家の裏にひっそりとある徳川四天王の一人、本多忠勝の陣👏
こちらも徳川四天王の一人、井伊直政とその娘婿である家康の四男、松平忠吉の陣🤔
東軍先鋒は福島正則と決まっていたにも関わらず、福島隊の可児才蔵の制止を振り切って、宇喜多隊へ発砲し決戦の火蓋を切った😳
その関ケ原の戦いの開戦地‼️
島津義弘の陣👏
てっきり平地に布陣していたと思っていたが、周辺よりも4〜5mほど高い位置だった😳
島津隊は、戦さ場のど真ん中に陣を布き、前方に島津豊久その右に山田有栄、後方に島津義弘という配置で、矢のような陣形を取るも、攻め込む気配を見せず傍観を決め込んだ😳
石田三成直々の督促も、「本日の合戦は銘々に戦いたい」として取り合わなかった👏
小早川秀秋らの寝返りを切っ掛けに、西軍が総崩れで敗走する中、島津隊は前代未聞の敵中突破の退却を敢行した👏
鬼気迫る勢いで突進してくる島津隊は、福島正則隊を突破し、前方600mほどまで迫っていた徳川家康本陣を掠める様に駆け抜け、戦場を脱した🏇
有名な「島津の退き口」だ👏
本多忠勝・井伊直政や松平忠吉らが島津隊を追撃したが、殿軍が死ぬまで戦い、全滅すると新たな殿軍が死ぬまで戦う「捨て奸(すてがまり)」戦法によって切り抜けたと云う😱生きて薩摩に戻ったのは島津義弘を含めた80余名だった😰
最も戦いの激しかった決戦地😨左手の小山が西軍石田三成が陣を布いた笹尾山だ😳
笹尾山の麓が石田三成が自身の俸禄の半分を与え、三顧の礼を以って迎え入れ、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と唄われた島左近の陣👏
石田三成の旗印「大一大万大吉」
この旗印は、1184年に木曾義仲を討ち取った石田次郎為久という武将が使っていたものとされ、「一人が万人の為に、万人が一人の為に尽くせば天下の人々は幸せになれる」という意味だ🤔
ラグビー🏉の基本精神「 One for All, All for One」と似ている😁
笹尾山に登ってみる🚶♂️
石田三成の陣👏
三成の笹尾山から見て東に約3km、徳川家康が最初に陣を布いた桃配山を望める😳
(陣跡はざっくりだが…)
視線を南に向けると島津義弘がど真ん中に陣取っていることや、大谷吉継が小早川秀秋に向けて陣を布いているのがよく分かる🤔
三成目線👀だと、
井伊直政そこから福島正則超えて開戦地までッ😳
島津動けよ〜とか、小早川裏切りやがって〜😤
家康最後ここまで出て来たのか⁉️近っ😳
こんな感じだろうか🤔
1600年10月21日の関ヶ原合戦から、ちょうど420年経った2020年10月21日にオープンした「岐阜関ヶ原古戦場記念館」👏コロナ禍なので、要予約だ☺️
大河ドラマ「麒麟がくる」の劇中で使われた「古天明平蜘蛛」が展示されている😳
松永久秀が信貴山城🏯にて自害する際、叩き壊したとも、爆薬を仕込んで爆死💥したとも云われている😳
1582年5月15日、織田信長が、武田討伐に功を成した徳川家康を安土城🏯に招き、饗応役明智光秀に命じて作らせた饗応膳「天正十年安土御献立」‼️
家康が安土城🏯に到着して最初に提供された「十五日おちつき膳」は鮑や渡蟹🦀、鯛などの高級食材を使った計三十三品‼️そのレプリカが展示されている😳
床にはコロナ対策で「ここに布陣」の表示も😁
シアターへ向かうホールには戦雲垂れ込める映像が壁に投影され、気持ちを高揚させる😊
※撮影不可🚫なので以降の画像はネットか本の拾い物
床面スクリーン「グラウンド・ビジョン」で関ケ原の戦いを俯瞰して学ぶ☺️
講談師神田伯山氏の語りにグイグイ引き込まれる😆
シアターは縦4.5m、横13mのワイドな曲面スクリーンで大迫力な映像を楽しめる👏
約9分の上映だが、風や振動、光、音による演出があり、関ケ原の戦いにタイムスリップしたかのような臨場感を味わえる👏
武将たちが美化や妙なデフォルメなどされていないのが良い👍島津の退き口なんかはカッコ良すぎてマジ泣けた😭
映画の後の様な高揚感の中、展示室へ🚶♂️
展示室には、関ケ原の戦いを彩った10人の武将達の甲冑(かなりクオリティの高い複製)が展示されている👏
石田三成所用
乱髪天衝脇立兜 鉄錆地塗当世小札黒糸威二枚胴具足
ヤクの毛を用いた乱髪に、天を衝くような大きな脇立😳戦下手、文官三成のイメージを払拭する猛々しい甲冑だ👏
徳川家康所用
黒漆塗大黒頭巾形兜 伊予札黒糸素懸威胴丸
大黒天の夢を見た家康が、奈良の甲冑師に命じて造らせた一領で、小牧長久手の戦い、関ケ原の戦い、大坂の役においてもこの甲冑で勝利を重ねた吉祥の具足だ🤔
また兜の前立てがシダの葉をモチーフとしていることから、「歯朶具足」とも呼ばれている☺️
本多忠勝所用
鹿角脇立獅噛前立突盔形兜 黒糸威二枚胴具足
「徳川四天王」「徳川三傑」のひとり本多平八郎忠勝は、この甲冑を身に纏い、「天下三名槍」のひとつ「蜻蛉切」の名槍を手に、57回に及ぶ合戦に臨み、傷一つ負わなかった歴戦の勇士だ👏
「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり 手に蜻蛉、頭の角のすさまじき 鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」
戦国時代の「変わり兜」の中でも、ひと際、存在感を放つこの兜は、「桶狭間の戦い」を好機に岡崎城🏯入城を目指す家康一行の行手を阻む矢作川の増水🌊を前に浅瀬に導いてくれた鹿🦌を伊賀八幡宮の使いと考え、鹿角の兜を作ったと云われている🤔
「一言坂の戦い」では武田軍の小杉左近が「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という狂歌を詠い、織田信長からは「日本の張飛」「花も実も兼ね備えた武将」と讃えられている👏
「小牧長久手の戦い」では、500騎の部隊で数万の大軍を擁する秀吉軍と対峙😳忠勝は単騎身を晒し、悠々と川で馬に水を飲ませ、秀吉の軍勢を挑発した👏その立居振舞いに、秀吉も「日本第一古今独歩の勇士」と褒め称えた👏
ここ関ケ原の戦いでも500程度の精鋭で90もの首級を取るズバ抜けた活躍を見せ、その武功を福島正則に賞賛さされると、「敵が弱すぎたのだ」と語ったと云う😳
ただ、島津の退き口では、愛馬🐴三国黒が撃たれ、流石の忠勝も落馬したと云う🤔
井伊直政所用
金箔押大天衝脇立越中頭形兜 朱漆塗鉄綴桶側胴具足
「徳川四天王」「徳川三傑」のひとり井伊直政は、武田四天王山県昌景の赤備えを取込み、朱色に統一された軍装の威容から「井伊の赤鬼」とも呼ばれた👏
軽装で身軽さを重視しながら、生涯において一度も傷を負わなかった本多忠勝に対し、井伊直政は重装備で守備力重視にも関わらず、傷が絶えなかったと云うのも面白い😃
外交・交渉能力にも長けていたが、部下にも厳しく、些細なミスも許さず手討ちにしたことから、「人斬り兵部」と恐れられていた🥶
関ケ原の戦いでは東軍先鋒には福島正則が任命されていたが、井伊直政が松平忠吉(家康の四男)を連れ、半ば強引に福島隊の前に出て、宇喜多隊に鉄砲を撃ち掛け、合戦の火蓋を切って落とした😳
合戦終盤、島津の退き口を追撃中に、島津隊の放った鉄砲に被弾し、その後、この傷が元で井伊直政は41歳の生涯を閉じることになった🙏
細川忠興所用
山鳥尾頭立黒塗越中兜 黒糸威革包畦目綴二枚胴具足
関ケ原の戦いの際の忠興の着料ということから「御吉例の甲冑」として細川家中で尊ばれている🤔
忠興の武具に対する拘りは相当なもので、忠興が実戦での経験を踏まえて考案・製作した具足は、機能性に富み、身動きが取りやすいように、最低限の防御を備えているのが特徴で、越中具足という様式を確立した👏
足利義昭〜織田信長〜豊臣秀吉〜徳川家康と、時の権力者に仕えて来た細川忠興は、和歌や能楽、絵画にも通じ、利休七哲の一人にも数えられる一流の文化人であり、茶道の流派三斎流の開祖でもあった😳
ただ、相当に気性が荒かったらしく、肥後熊本藩主であった細川忠利の施政が捗らないのは側近たちの不忠として36人を手討ちにした🥶その時の刀を和歌の『三十六歌仙』に準えて「歌仙兼定」と名付けたという😨
残忍なのか風流なのか、ギャップ半端ないっ😅
関ケ原の戦いに際し、石田三成は忠興の正室細川伽羅奢(ガラシャ)を人質に取ろうと兵に屋敷を囲ませた😨
キリスト教で自害は禁じられているため、家老の小笠原秀清がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火🔥を点けて自刃した🙏
ガラシャの辞世の句は、
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」
ん〜カッコイイ👏
福島正則所用
黒漆塗桃形大水牛脇立兜
石田三成に先んじて尾張・美濃を抑え、岐阜城🏯を攻め落とし、関ケ原の戦いでは徳川方の先鋒として、西軍の最大兵数である宇喜多秀家隊1万7,000を退けた福島正則は、関ケ原の戦いで最も奮戦した武将と云われる👏
関ケ原の戦いで敗北し、捕らえられた石田三成に対して、正則が罵声を浴びせたのは有名な話だ🤔
関ケ原の戦いの後日譚だが、正則の酒🍶を積んだ船が暴風雨に遭い、八丈島に一時避難した時、一人の島の男が「この紋所は、福島殿の船とお見受けするが、無理を承知でお願いしたい。その酒を一杯飲ませてもらえないか」と、この男こそ、関ケ原で正則と激闘を演じ、八丈島に配流された宇喜多秀家だった😳
正則の家臣は一樽の酒を進呈し、後日、正則に報告すると、「酒船一艘失ったとて大したことではないが、汝の一存で秀家公に酒一樽を贈ったとは、よく計らってくれた」と、褒められたと云う☺️直情的な正則らしいエピソードだ👏
黒田長政所用
銀箔押一ノ谷兜 黒糸威胴丸具足
この兜は竹中半兵衛の形見分けとして福島正則が所有していたものだが、黒田長政の家臣、母里太兵衛が福島正則の家宝である名槍「日本号」を呑み取り、正則の返還要請を長政が拒否したことから起きた諍いの和解の証にお互いの兜を交換したものだ☺️
どーしてもこの兜を被ってる長政が不満そうに見えるんだが…😅
嘗て、荒木村重が謀反を起こした際、黒田官兵衛が有岡城🏯に説得に行くも捕らえられ幽閉されてしまったため、官兵衛が寝返ったと思った織田信長は、息子(長政)の首を刎ねろと命ずるが、竹中半兵衛は長政の首を斬らずに匿ったので、長政にとって半兵衛は命の恩人となる🤔
関ケ原の戦いでも長政は、この一ノ谷兜で参陣しており、縄目の恥を受けた石田三成に対しては、自らの陣羽織をかけてあげたと云う☺️
罵声や嘲りには顔を上げて堂々と応えていた三成も、この時ばかりは涙を流したと云う🥲
島津義弘所用
鍍金大鍬形前立十六間四方白星兜 赤糸威大札大鎧
「島津に暗君なし」その中でも名君の誉高い島津義弘は「鬼島津」とも呼ばれていた👏
その名を轟かせた慶長の役の「泗川の戦い」では明・朝鮮の連合軍20万人に対し、7000人という寡兵で立向かい、敵兵38,717人を討取った上、味方の犠牲はたった2人という前代未聞の大勝利😳
あまりの勇猛ぶりから、鬼石曼子(グイシーマンズ)と大いに恐れられたという👏
関ケ原の戦いでも島津義弘は平安・鎌倉時代に多く着用された古式の鎧「大鎧」で臨んだと伝えられており、関ケ原合戦屏風にも龍頭の兜に赤糸縅の大鎧を身に纏った義弘が描かれている🤔
大谷吉継所用
白頭巾がメインだが…😅
癩病(ハンセン病)のため崩れた顔を隠すため、白頭巾で顔を覆っていたとされる大谷吉継は、関ケ原の戦いでは親友石田三成の“義”を貫こうとする決意に打たれ、病身を押して、死装束で輿に乗って参陣した👏
豊臣秀吉に「100万の兵を指揮させてみたい」と言わしめたほど、戦術に長けていた吉継は、当初より小早川秀秋の裏切りを予想していたため、松尾山の真正面に陣を張り、脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保を松尾山の麓に陣取らせていたと云う😳
小早川秀秋の裏切りを機に、脇坂・朽木・小川・赤座の軍も東軍に寝返り、東軍の勝利を確定的にした🤔
吉継は自害する際、小早川秀秋の陣に向かって「人面獣心なり 三年の間に必ずや祟りをなさん」と言って切腹したと云う🥶
小早川秀秋所用
三鍬形後立鉄黒漆塗六十二間小星兜 紫糸威二枚胴具足
大きな三鍬形の後立を立てた小星兜に本小札の鎧、小鰭の飾り、五七の桐紋、まさに天下人秀吉の縁者に相応しい一領だ👏先日、靖国神社⛩の遊就館で実物を目にすることが出来たが、肖像画から受けるイメージとは逆に、甲冑はかなり大きく、実際はけっこうな偉丈夫だったと思われる🤔
関ヶ原の戦いから2年後、秀秋は21歳の若さで急逝😳
大谷吉継の祟りと云われるが、アルコール依存症による内臓疾患が死因という見方が有力視されている🙏
関ケ原古戦場記念館最上階は全方位を見渡せる展望スペースとなっている👏
写真の中央が石田三成の陣だ‼️
雨も弱まり雲が低く流れ、合戦当日もこんな天気だったのではないかと妄想する☺️
町全体が古戦場‼️関ケ原町サイコーでした👏