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ATSUP_HARDのブログ一覧

2021年03月25日 イイね!

【靖國神社】寺社仏閣巡り+遊就館

【靖國神社】寺社仏閣巡り+遊就館またまた⤴️が遅れてしまったが、娘の卒業式の運転手の空き時間を縫って行った、靖國神社⛩参拝🙏を⤴️

靖國神社⛩の正面に常夜灯として1871年に建造された常燈明台😳
上部は洋風、下部は和風様式で、高台に設けられていた塔の高さは16.8mあり、東京湾の漁船の目印になったといわれる🤔当時の人たちにとっては、東京タワー🗼みたいなものだったのだろう😊

高さ25m、幅34mの大鳥居(第一鳥居)👏
実は靖國参拝は初めてのこと😅
靖國神社⛩は、明治天皇の意向によって建てられた招魂社に起源を発し、幕末から明治維新にかけて功のあった志士を始め、ペリー来航以降の日本の国内外の事変・戦争等、国に殉じた軍人、軍属等の戦没者の英霊246万6千余柱を祀る🙏

参拝時は桜も満開🌸

第二鳥居は、日本一の青銅製の鳥居として1887年に大阪砲兵工廠で製作された🤔

1934年に建てられた神門は、三間三戸の切妻造銅板葺で高さ6mの檜造りだ👏

神門の中央の扉には、直径1.5m、16弁の菊花紋章がある😳

神門を抜けて右手の方には能楽堂がある👏
この能楽堂は1881年に芝公園に建てられたもので、1903年に靖國神社に奉納、移築されたものだ🤔

拝殿は1901年竣工の桁行7間梁間5間の入母屋造平入屋根銅板葺で、両側にある廻廊が後方に屈曲して本殿の両側面に連絡している🤔

拝殿は、前面に3間の向入母屋造で軒に唐破風を構えた向拝が付く👏

今回行きたかった靖國神社⛩遊就館へ🚶‍♂️

玄関ホールには、本物のゼロ戦が展示されている👏

「零式艦上戦闘機五二型 三菱四二四〇号機」
この機体は、1943年11月に三菱重工名古屋大江工場で製造された後期モデルの五二型で、エンジンは1,140馬力、最高速度は550km/hと、日本が世界に誇る戦闘機だ👏

太平洋戦争で徴用され、泰緬鉄道を走っていた「C56型蒸気機関車」👏
愛称はシゴロク、またはポニー☺️
「泰」はタイ、「緬」はビルマのことで、日本軍🇯🇵のインド・ビルマ進攻作戦の陸上補給を目的にタイのノンプラドックからビルマのタンビザヤの415kmの区間を1年3ヶ月という驚異的な早さで工事⛏が進められた😳

日本に唯一現存する15cmキャノン砲「89式15糎(センチ)加農砲」
口径:149.1mm
砲身長:4.725m
砲弾重量:40.2kg
発射速度(毎分):1~2発
最大射程:18.1km

サイパン島タナバク海岸で埋められている状態で 発見された「九七式中戦車」
重量:14.3t(自重)、15.0t(全備重量)
全長:5.55m 全幅:2.33m 全高:2.23m
空冷V型12気筒ディーゼルエンジン 170ps
最大速度:38km/h

1972年にヤップ島で発見された艦上爆撃機「彗星一一型」日本に唯一現存する機体だ👏
敵艦上空からダイブする姿から「彗星」と命名されたと云う😨

彗星の頭上に吊られているのは、特攻兵器「桜花」だ😨

「神雷部隊」の異名をもつ第七二一海軍航空隊の双発の一式陸上攻撃機の胴体下の爆弾倉に吊られている小型の飛行機が「桜花」😱
1.2tの爆弾に翼と操縦席とロケットをつけ、それを人間が操縦して敵艦に体当りする「人間爆弾」💥
米軍🪖は、理解不能なこの兵器を「Baka Bomb(馬鹿爆弾)」と呼んでいた🥶

戦争の展示は重過ぎるので……
展示室1「武人のこころ」と 展示室2「日本の武の歴史」、そして特別展「靖國神社と刀剣」をメインに見学😅

絲緋威梅金物大鎧👏
春日大社⛩所蔵の赤糸威大鎧(梅鶯飾)の復元らしい🤔

織田信長所用と伝わる金箔押八間南蛮帽形兜😳
祓立があるので、前立があったのだろう🤔

黒漆塗執金剛杵形兜👏
「花の慶次」で前田慶次が長谷堂城の戦いで被っていた兜と酷似しているが、史実としては何ら確証はない🤔
「金剛杵」は仏教における十二神将のうち伐折羅大将(金剛力士)が仏敵を退散させるために持つ金剛石製の武器に由来する😳
伐折羅(婆娑羅・バサラ)はサンスクリット語の「ヴァジュラ」が語源で「金剛石(ダイヤモンド)」の意味で、傾奇者の走りである婆娑羅は、常識など全てを粉々に砕くイメージだったのだろう🤔

小早川秀秋所用の三鍬形後立小星兜 紫糸威二枚胴具足👏やっとホンモノ見れた😊
小早川秀秋というと肖像画から受けるイメージは頼りなさそうな感じだが、甲冑はかなり大きく、実際はけっこうな偉丈夫だったと思われる🤔

国家鎮護・破邪滅敵の七星剣(写し)
ホンモノの七星剣は四天王寺所蔵で七星剣は、東京国立博物館に寄託されていて、聖徳太子の佩刀とされている😳

刀身には、北斗七星(七星文)・雲形文・三星文・竜頭・白虎などが刻み込まれている🤔

老中松平定信編纂の『集古十種』に掲載された逸品「伝庖丁正宗」
刀身の表には倶利伽羅竜、裏には梅の立樹が彫られている🤔
脇差なのにこの身幅😳強烈なインパクトだ👏

遊就館の展示の大半は重過ぎて……申し訳ないが、結構スルーしちゃいました😅
Posted at 2021/04/18 18:52:42 | コメント(4) | トラックバック(0)
2021年03月13日 イイね!

【墨俣一夜城】お忍び弾丸城めぐりツアー⑤

【墨俣一夜城】お忍び弾丸城めぐりツアー⑤弾丸ツアーのラストは、のちの太閤豊臣秀吉こと木下藤吉郎の出世の契機となった墨俣城🏯へ🛻💨

オープンドライブを楽しみながら辿り着いた墨俣一夜城🏯
昭和34年に発見された前野家古文書『永禄州俣記』『武功夜話』に記される墨俣一夜城伝説😳

当時の墨俣は木曽川・長良川・揖斐川の三川が合する戦略的要地であり、織田信長は美濃攻略の足掛かりとして、先ずは佐久間信盛に墨俣への築城を命ずるも失敗😔

次には、猛将柴田勝家に命じたが上手くはいかなった😣

そこで、ここが立身出世の絶好のチャンスと墨俣築城を申し出たのが、のちの豊臣秀吉こと、木下藤吉郎‼️

藤吉郎は川並衆(野武士、野盗とも)の頭領、蜂須賀小六や前野長康らを口説いて、その配下二千百五十三人を引き連れ、上流から築城用に伐り出した木材を一夜のうちに筏で流す方法を採った👏

『永禄洲俣記』には、一万数千本の材木を築城用に加工して筏を組み、木曽川の上流から流し、現場で組み立てる所謂プレハブ工法とも言える手法により、短期間で城の構えを完成させた👏

豊臣秀吉の出世にあやかり☺️ 太閤出世橋‼️

あちこちに瓢箪が見られる☺️

秀吉の馬印と言えば「千成瓢」
1567年、稲葉山城🏯攻めの際、城の背後から奇襲をかけた秀吉が織田信長本隊に送った合図が槍の先に付けた瓢箪だったことに由来すると云う🤔
秀吉は戦に勝つ度に馬印の瓢箪を増やし、その結果、秀吉の馬印のことを、「千成瓢」「千成瓢箪」と呼ぶ様になった😊

犀川に架かる太閤出世橋を渡る🚶‍♂️

現在、墨俣一夜城🏯は、外観を大垣城🏯に似せた天守閣型資料館になっている😅

この史実とは異なる天守閣には、日本で唯一の純金の鯱(高さ120cm、24金を27kg使用)を戴く😳

木下藤吉郎秀吉の像‼️

太閤秀吉出世の泉‼️その後ろには藤吉郎の馬柵が再現されている☺️
墨俣城🏯の築城は9月12日に始まり、先ずは馬柵を設置し、夜間に櫓や高塀などの城普請が進められたと云う🤔
翌日からは斎藤勢の攻撃も始まり、矢玉の飛び交う中、築城は休みなく突貫工事⛏で行われ、14日には城の大方が完成し、15日には柴田勝家、佐々成政、丹羽長秀、森可成の諸将三千余騎を従えた織田信長が入城、陣取り、藤吉郎らに銀子百枚、金子五十枚を褒美として与えたと記されている👏

ここでは絵馬ではなく、瓢箪で願掛けする😳

敷地内には白鬚神社⛩と豊国神社⛩が鎮座する☺️
豊国神社には「出世之神」と書かれた幟が掲げられている😀

中へ入ってみよう🚶‍♂️

墨俣一夜城🏯の模型😳
高櫓五棟、平櫓三棟、土居二百五十間、高塀百三十六間、馬止柵千八百間、井戸二ヶ所、堀切三百五十間、清州旦那御座敷(信長)一ヵ所という計画だったと云う👏

藍糸威当世具足☺️

一夜城址より出土した兜😳

刀も展示されている☺️

最上階から望む犀川の流れ☺️

東側には天王川と長良川が並走して流れる☺️

ズームすると、金華山の頂に岐阜城🏯が見える👀
当時の稲葉山城🏯からでも突如現れた墨俣城🏯を見ることが出来たのだろう🤔
1567年8月、秀吉は蜂須賀党、前野党ら二千余を率いて稲葉山城🏯水の手口から攻め上り搦手門から突入し、難攻不落の稲葉山城🏯は落城🙏

天守の北面☺️

天守西面☺️

川の畔まで降り、下からパチリ📸

小牧長久手の戦いを目前にした池田恒興の家臣伊木忠次が墨俣城🏯を改修したとあるが、1586年6月、木曽三川の大氾濫で木曽川の流路が現在の位置に収まったことにより、墨俣は戦略上の重要性を失い、以来この地が城として使われることはなくなった🤔
一夜城伝説については諸説あるが、やはり胸踊る藤吉郎秀吉の活躍を信じたいものだ☺️

レンタカーの返却時間も近づき、後ろ髪を引かれつつもツアーは終了😭

熱田神宮⛩ → 多羅城🏯 → 関ケ原古戦場 → 岩手城🏯 → 大垣城🏯 → 墨俣一夜城🏯
と巡った今回のツアー(出張😅)
帰りの新幹線🚅で酒🍺を片手に、戦利品の写真を愛でながら一人悦に入って大満足で帰路に着きました😊
Posted at 2021/04/05 22:30:51 | コメント(2) | トラックバック(0)
2021年03月13日 イイね!

【大垣城】お忍び弾丸城めぐりツアー④

【大垣城】お忍び弾丸城めぐりツアー④弾丸ツアーも終盤☺️
晴れ男の本領発揮‼️フルオープンが暑い💦くらいの天気☀️になって来た😅 第四弾は続日本百名城のひとつ大垣城🏯へ🛻💨

戌亥櫓前のパーキング🅿️に駐車

大垣城🏯は1535年、宮川安定が水門川の流れを外堀に利用して築城した牛屋城🏯が始まりとされる🤔

嘗ては、水堀を幾重にも廻らせ、本丸に四重四階の複合式層塔型天守を上げ、三重櫓1基にニ重櫓を3基、二之丸に月見櫓など三重櫓を4基、三之丸にはニ重櫓を4基、平櫓1基などが建て並べられた連郭輪郭複合式平城で、本丸に2つ、二之丸に1つ、三之丸に大手門など大小5つ、外郭に南大手門など大小7つの門が開かれた総構えの大城郭だった😳

往時は内堀に囲まれた本丸が廊下橋でのみ二之丸と繋がっていたが、現在は内堀は埋め戻され、本丸を囲んでいた石垣もほとんど遺されていない😭

本丸の北西を守る戌亥櫓☺️

嘗ては内堀だった本丸北側の道🥲

本丸の北側に開けられていた水之手門の跡😮
水堀に囲まれた本丸から舟で内堀に降りることが出来たとされている🤔戌亥櫓が再建され、石垣の多くは積み直しされている👏

内堀の名残りだろうか🤔

本丸の北東を守る丑寅櫓は、二重二層の総塗籠め造りの本瓦葺き、鉄筋コンクリート構造で再建された🤔

丑寅櫓と東門👏

現在の大垣城🏯の正門として使われている東門、天守の再建に際し柳口門を移築したもの👏
大垣城🏯には七つの城門(大手門、南口門、柳口門、竹橋口門、清水口門、辰之口門、小橋口門)があり、七口之門と呼ばれていた🤔

門の脇の石垣には内堀の名残りが遺る☺️

東門をくぐると天守閣が見える😳

本丸石垣☺️遺構なのか⁉️

立派な白亜の天守閣👏
天守は最後の楽しみに一回外へ🚶‍♂️

本丸南側、唯一、二之丸へと繋がる廊下橋に立っていた城門、鉄門跡🤔間口5.7m、高さ4.5m、正面の木部を全て鉄板で覆い、軒下を白漆喰で塗籠めていたと云う🤔

外周をぐるり🚶‍♂️狭間のある城壁😊

西側から天守閣をパチリ📸
1544年、尾張の織田信秀(信長の父)が大垣城🏯を攻め落とし、織田信辰を大垣城主とするも、1547年には斎藤道三の軍勢が攻略して竹腰尚光を城主に据えた🤔
1559年には、美濃三人衆の一人氏家直元(卜全)が城主となり、1567年には織田信長の家臣となる😳
1583年には、池田恒興が城主となるも小牧長久手の戦いで討死、その後、池田輝政→豊臣秀次→羽柴秀長→加藤光泰→一柳直末→羽柴秀勝→伊藤盛景と城主が目紛しく変わり、伊藤盛正の代、関ケ原の戦いでは石田三成の要請により城🏯を明け渡し、大垣城🏯は西軍石田三成の本拠地となった🤔
西軍が敗北すると東軍に攻囲され(大垣城の戦い)ついには落城🙏

戸田氏鉄像と天守閣と戌亥櫓👏
戦国の世が去った江戸時代、1635年以降には戸田家が入り、明治に至るまで大垣藩戸田氏の居城となった🤔

戌亥櫓と天守閣👏

本丸の門は南側の鉄門と北側の水之手門だけだったが、公園整備に伴ない、こちらの西側にも狭間を設けた櫓門形式の埋門が設けられた😅

埋門から中へ🚶‍♂️

天守閣を仰ぎ見る🙄

大垣城🏯天守閣👏内部へ🚶‍♂️

朱漆塗紺糸威段替二枚胴具足

戸田源五兵衛所用
七十二間小星兜 紫糸素懸威紋柄袖二枚胴具足

黒塗紺糸素懸威段替二枚胴具足

関ケ原合戦本戦の舞台となるはずだったこの大垣城🏯には、当時の戦国武将たちの貴重な資料や、戸田氏所用の武具が展示されている👏

大垣城の戦いの模型😳

最上階からの眺め👀
2005年、大垣市は、戦後の計画性の無い開発により失われた景観を取り戻し、昔の大垣城🏯を復活しようと「大垣城郭郭整備ドリーム構想」という計画を立ち上げ、2006年以来、検討委員会が度々開催されているが、計画は具体化していない😭

戸田左門一西が上田城攻めの際に着用した具足‼️
近くの郷土館にも戸田氏の武具、資料が展示されている☺️

初代大垣藩主戸田氏鉄が関ケ原の戦い、島原の乱で着用した日根野頭形兜 仏胴段替素懸威蛇目紋二枚胴具足👏

椎実形八間筋兜 伊予札紺糸素懸威二枚胴具足

六十二間筋兜 伊予札紫糸素懸威二枚胴具足

1873年、明治の廃城令により廃城処分となったが、天守など一部の建物は破却を免れ、天守は丑寅櫓と共に国宝に指定されていたが、第二次世界大戦末期、1945年の大垣空襲✈︎により惜しくも焼失🔥してしまった😭

左に天守南附多門、右に天守東附多門が設けられた全国的にも珍しい四重四階の複合式層塔型天守を見事に外観復元👏

第五弾へとつづく🛻💨
Posted at 2021/04/02 00:27:12 | コメント(2) | トラックバック(0)
2021年03月13日 イイね!

【岩手城】お忍び弾丸城めぐりツアー③

【岩手城】お忍び弾丸城めぐりツアー③弾丸ツアー第三弾…の前に、

雨も止み、少し寒いが、せっかくなのでオープンに‼️
ストッパーを2箇所解除して、あとはボタン一つでフルオープンになる👏

関ケ原から10分ほど車を走らせ、垂井町の岩手城🏯へ🛻💨

岩手城🏯は1588年、美濃国不破郡岩手に竹中半兵衛重治の嫡子、竹中重門が築いた平城で、竹中氏の居城である菩提山城🏯が堅固な山城のため、平時には不便なことから、麓に岩手城🏯を築いたと云う🤔 

城の東側を囲う石垣を履いた土塁👏
関ケ原の戦いの当初、竹中重門は西軍として石川貞清、稲葉貞通、稲葉典通、加藤貞泰、関一政ら美濃の諸将と共に犬山城🏯にて籠城するも、井伊直政の調略により、旧知である黒田長政の陣に加わり、重門は伊吹山山中にて潜伏していた小西行長を捕縛したと言う手柄が認められ、不破郡岩手、府中、関ヶ原等の地5千石を安堵された🤔
安土桃山時代には岩手城🏯と呼ばれていたが、江戸時代には旗本身分と看做され、岩手陣屋・竹中陣屋・竹中氏陣屋と呼ばれるようになった🤔

息子の重門が築いたけど、やはり竹中半兵衛重治推しの垂井町😁

櫓門の前にも竹中半兵衛重治の像👏
withコロナでマスク着用😅
主君斎藤龍興を諌めるため、稲葉山城🏯を僅か17人で智略をもって占拠した智謀の士😳
豊臣秀吉が三顧の礼で迎え入れた名軍師だ👏

石垣で組んだ立派な現存櫓門👏 櫓門は南側6m、北側2m程の石垣及びその南面に約5m程残存する袖石垣の上に建っており、木造白漆喰塗りで間口約11m、奥行約5mあり、戦国時代の姿を今に遺している👏
陣屋というよりも小規模な城という佇まいだ😊

櫓門をくぐった右手には稲荷神社⛩が鎮座している🤔

櫓門の正面には馬隠しの石垣があり、その先は岩手小学校の敷地となっており、立入禁止🚧となっている😭
奥に見える山が竹中半兵衛重治の居城菩提山城🏯のある菩提山⛰だ🤔

櫓門を城内から📸
現存する櫓門は、「岩手小学校の正門だ」という地元の方の主張が通り、明治の破却を免れたらしい👏

石垣に登ることが出来る😮

竹中半兵衛像の背中👀
石垣の上に登ってみると結構な高さだ😨

石垣は濠の先端まで続いている👏
岩手城🏯は東辺78m、北辺68m、西辺66m、南辺77m、 1,636坪の規模を誇る👏

櫓門南には、幅5m、長さ20mに亘る濠が遺存する👏

小規模ながらも戦国の面影を今に遺す岩手城🏯お見事でした👏

ホントは菩提山城🏯も攻城したかったが、時間の都合で断念😭
第四弾へつづく🛻💨
Posted at 2021/03/31 00:44:18 | コメント(1) | トラックバック(0)
2021年03月13日 イイね!

【関ケ原古戦場】お忍び弾丸城めぐりツアー②

【関ケ原古戦場】お忍び弾丸城めぐりツアー②かなりアップ⤴️が遅くなってしまったが…😅
弾丸ツアーの第二弾は…
やはり一度は行っておきたい、天下分け目の大舞台「関ケ原」へ🛻💨

1600年、石田三成率いる西軍約85,000と徳川家康率いる東軍約88,000が繰り広げた、戦国最大ともいわれる天下分け目の戦「関ケ原の戦い」
因みに現在の関ヶ原町の人口は6,700人ほどなので、合戦当時は凡そ25倍の人口密度になっていた😳

兜を象った関ケ原町章😳
「関ケ原」という地名の由来は、「関所」のある「原っぱ」という説があり、「関東」「関西」という呼び名も、関ケ原を境にしているからとも云われている🤔

徳川家康最初陣地がある桃配山‼️
ここ桃配山は、672年に起きた日本最大の内乱「壬申の乱」の際に、大海人皇子が本陣を置いたとされる地で、村人から献上された山桃🍑が美味しかったので、大海人皇子は代金を支払い、兵士らに配ったことが地名の由縁で、この古代の「天下分け目の戦い」も、ここ桃配山に陣を張った大海人皇子が大友皇子に勝利している😳

現在は民家の裏にひっそりとある徳川四天王の一人、本多忠勝の陣👏

こちらも徳川四天王の一人、井伊直政とその娘婿である家康の四男、松平忠吉の陣🤔
東軍先鋒は福島正則と決まっていたにも関わらず、福島隊の可児才蔵の制止を振り切って、宇喜多隊へ発砲し決戦の火蓋を切った😳

その関ケ原の戦いの開戦地‼️

島津義弘の陣👏
てっきり平地に布陣していたと思っていたが、周辺よりも4〜5mほど高い位置だった😳
島津隊は、戦さ場のど真ん中に陣を布き、前方に島津豊久その右に山田有栄、後方に島津義弘という配置で、矢のような陣形を取るも、攻め込む気配を見せず傍観を決め込んだ😳
石田三成直々の督促も、「本日の合戦は銘々に戦いたい」として取り合わなかった👏

小早川秀秋らの寝返りを切っ掛けに、西軍が総崩れで敗走する中、島津隊は前代未聞の敵中突破の退却を敢行した👏
鬼気迫る勢いで突進してくる島津隊は、福島正則隊を突破し、前方600mほどまで迫っていた徳川家康本陣を掠める様に駆け抜け、戦場を脱した🏇
有名な「島津の退き口」だ👏
本多忠勝・井伊直政や松平忠吉らが島津隊を追撃したが、殿軍が死ぬまで戦い、全滅すると新たな殿軍が死ぬまで戦う「捨て奸(すてがまり)」戦法によって切り抜けたと云う😱生きて薩摩に戻ったのは島津義弘を含めた80余名だった😰

最も戦いの激しかった決戦地😨左手の小山が西軍石田三成が陣を布いた笹尾山だ😳

笹尾山の麓が石田三成が自身の俸禄の半分を与え、三顧の礼を以って迎え入れ、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と唄われた島左近の陣👏

石田三成の旗印「大一大万大吉」
この旗印は、1184年に木曾義仲を討ち取った石田次郎為久という武将が使っていたものとされ、「一人が万人の為に、万人が一人の為に尽くせば天下の人々は幸せになれる」という意味だ🤔
ラグビー🏉の基本精神「 One for All, All for One」と似ている😁

笹尾山に登ってみる🚶‍♂️

石田三成の陣👏

三成の笹尾山から見て東に約3km、徳川家康が最初に陣を布いた桃配山を望める😳

(陣跡はざっくりだが…)
視線を南に向けると島津義弘がど真ん中に陣取っていることや、大谷吉継が小早川秀秋に向けて陣を布いているのがよく分かる🤔

三成目線👀だと、
井伊直政そこから福島正則超えて開戦地までッ😳
島津動けよ〜とか、小早川裏切りやがって〜😤
家康最後ここまで出て来たのか⁉️近っ😳
こんな感じだろうか🤔

1600年10月21日の関ヶ原合戦から、ちょうど420年経った2020年10月21日にオープンした「岐阜関ヶ原古戦場記念館」👏コロナ禍なので、要予約だ☺️

大河ドラマ「麒麟がくる」の劇中で使われた「古天明平蜘蛛」が展示されている😳
松永久秀が信貴山城🏯にて自害する際、叩き壊したとも、爆薬を仕込んで爆死💥したとも云われている😳

1582年5月15日、織田信長が、武田討伐に功を成した徳川家康を安土城🏯に招き、饗応役明智光秀に命じて作らせた饗応膳「天正十年安土御献立」‼️
家康が安土城🏯に到着して最初に提供された「十五日おちつき膳」は鮑や渡蟹🦀、鯛などの高級食材を使った計三十三品‼️そのレプリカが展示されている😳

床にはコロナ対策で「ここに布陣」の表示も😁

シアターへ向かうホールには戦雲垂れ込める映像が壁に投影され、気持ちを高揚させる😊

※撮影不可🚫なので以降の画像はネットか本の拾い物
床面スクリーン「グラウンド・ビジョン」で関ケ原の戦いを俯瞰して学ぶ☺️
講談師神田伯山氏の語りにグイグイ引き込まれる😆

シアターは縦4.5m、横13mのワイドな曲面スクリーンで大迫力な映像を楽しめる👏

約9分の上映だが、風や振動、光、音による演出があり、関ケ原の戦いにタイムスリップしたかのような臨場感を味わえる👏

武将たちが美化や妙なデフォルメなどされていないのが良い👍島津の退き口なんかはカッコ良すぎてマジ泣けた😭

映画の後の様な高揚感の中、展示室へ🚶‍♂️
展示室には、関ケ原の戦いを彩った10人の武将達の甲冑(かなりクオリティの高い複製)が展示されている👏

石田三成所用
乱髪天衝脇立兜 鉄錆地塗当世小札黒糸威二枚胴具足
ヤクの毛を用いた乱髪に、天を衝くような大きな脇立😳戦下手、文官三成のイメージを払拭する猛々しい甲冑だ👏

徳川家康所用
黒漆塗大黒頭巾形兜 伊予札黒糸素懸威胴丸
大黒天の夢を見た家康が、奈良の甲冑師に命じて造らせた一領で、小牧長久手の戦い、関ケ原の戦い、大坂の役においてもこの甲冑で勝利を重ねた吉祥の具足だ🤔
また兜の前立てがシダの葉をモチーフとしていることから、「歯朶具足」とも呼ばれている☺️

本多忠勝所用
鹿角脇立獅噛前立突盔形兜 黒糸威二枚胴具足
「徳川四天王」「徳川三傑」のひとり本多平八郎忠勝は、この甲冑を身に纏い、「天下三名槍」のひとつ「蜻蛉切」の名槍を手に、57回に及ぶ合戦に臨み、傷一つ負わなかった歴戦の勇士だ👏
「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり 手に蜻蛉、頭の角のすさまじき 鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」
戦国時代の「変わり兜」の中でも、ひと際、存在感を放つこの兜は、「桶狭間の戦い」を好機に岡崎城🏯入城を目指す家康一行の行手を阻む矢作川の増水🌊を前に浅瀬に導いてくれた鹿🦌を伊賀八幡宮の使いと考え、鹿角の兜を作ったと云われている🤔

「一言坂の戦い」では武田軍の小杉左近が「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という狂歌を詠い、織田信長からは「日本の張飛」「花も実も兼ね備えた武将」と讃えられている👏
「小牧長久手の戦い」では、500騎の部隊で数万の大軍を擁する秀吉軍と対峙😳忠勝は単騎身を晒し、悠々と川で馬に水を飲ませ、秀吉の軍勢を挑発した👏その立居振舞いに、秀吉も「日本第一古今独歩の勇士」と褒め称えた👏
ここ関ケ原の戦いでも500程度の精鋭で90もの首級を取るズバ抜けた活躍を見せ、その武功を福島正則に賞賛さされると、「敵が弱すぎたのだ」と語ったと云う😳
ただ、島津の退き口では、愛馬🐴三国黒が撃たれ、流石の忠勝も落馬したと云う🤔

井伊直政所用
金箔押大天衝脇立越中頭形兜 朱漆塗鉄綴桶側胴具足
「徳川四天王」「徳川三傑」のひとり井伊直政は、武田四天王山県昌景の赤備えを取込み、朱色に統一された軍装の威容から「井伊の赤鬼」とも呼ばれた👏
軽装で身軽さを重視しながら、生涯において一度も傷を負わなかった本多忠勝に対し、井伊直政は重装備で守備力重視にも関わらず、傷が絶えなかったと云うのも面白い😃

外交・交渉能力にも長けていたが、部下にも厳しく、些細なミスも許さず手討ちにしたことから、「人斬り兵部」と恐れられていた🥶
関ケ原の戦いでは東軍先鋒には福島正則が任命されていたが、井伊直政が松平忠吉(家康の四男)を連れ、半ば強引に福島隊の前に出て、宇喜多隊に鉄砲を撃ち掛け、合戦の火蓋を切って落とした😳
合戦終盤、島津の退き口を追撃中に、島津隊の放った鉄砲に被弾し、その後、この傷が元で井伊直政は41歳の生涯を閉じることになった🙏

細川忠興所用
山鳥尾頭立黒塗越中兜 黒糸威革包畦目綴二枚胴具足
関ケ原の戦いの際の忠興の着料ということから「御吉例の甲冑」として細川家中で尊ばれている🤔
忠興の武具に対する拘りは相当なもので、忠興が実戦での経験を踏まえて考案・製作した具足は、機能性に富み、身動きが取りやすいように、最低限の防御を備えているのが特徴で、越中具足という様式を確立した👏

足利義昭〜織田信長〜豊臣秀吉〜徳川家康と、時の権力者に仕えて来た細川忠興は、和歌や能楽、絵画にも通じ、利休七哲の一人にも数えられる一流の文化人であり、茶道の流派三斎流の開祖でもあった😳
ただ、相当に気性が荒かったらしく、肥後熊本藩主であった細川忠利の施政が捗らないのは側近たちの不忠として36人を手討ちにした🥶その時の刀を和歌の『三十六歌仙』に準えて「歌仙兼定」と名付けたという😨
残忍なのか風流なのか、ギャップ半端ないっ😅

関ケ原の戦いに際し、石田三成は忠興の正室細川伽羅奢(ガラシャ)を人質に取ろうと兵に屋敷を囲ませた😨
キリスト教で自害は禁じられているため、家老の小笠原秀清がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火🔥を点けて自刃した🙏
ガラシャの辞世の句は、
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」
ん〜カッコイイ👏

福島正則所用
黒漆塗桃形大水牛脇立兜
石田三成に先んじて尾張・美濃を抑え、岐阜城🏯を攻め落とし、関ケ原の戦いでは徳川方の先鋒として、西軍の最大兵数である宇喜多秀家隊1万7,000を退けた福島正則は、関ケ原の戦いで最も奮戦した武将と云われる👏
関ケ原の戦いで敗北し、捕らえられた石田三成に対して、正則が罵声を浴びせたのは有名な話だ🤔

関ケ原の戦いの後日譚だが、正則の酒🍶を積んだ船が暴風雨に遭い、八丈島に一時避難した時、一人の島の男が「この紋所は、福島殿の船とお見受けするが、無理を承知でお願いしたい。その酒を一杯飲ませてもらえないか」と、この男こそ、関ケ原で正則と激闘を演じ、八丈島に配流された宇喜多秀家だった😳
正則の家臣は一樽の酒を進呈し、後日、正則に報告すると、「酒船一艘失ったとて大したことではないが、汝の一存で秀家公に酒一樽を贈ったとは、よく計らってくれた」と、褒められたと云う☺️直情的な正則らしいエピソードだ👏

黒田長政所用
銀箔押一ノ谷兜 黒糸威胴丸具足
この兜は竹中半兵衛の形見分けとして福島正則が所有していたものだが、黒田長政の家臣、母里太兵衛が福島正則の家宝である名槍「日本号」を呑み取り、正則の返還要請を長政が拒否したことから起きた諍いの和解の証にお互いの兜を交換したものだ☺️

どーしてもこの兜を被ってる長政が不満そうに見えるんだが…😅
嘗て、荒木村重が謀反を起こした際、黒田官兵衛が有岡城🏯に説得に行くも捕らえられ幽閉されてしまったため、官兵衛が寝返ったと思った織田信長は、息子(長政)の首を刎ねろと命ずるが、竹中半兵衛は長政の首を斬らずに匿ったので、長政にとって半兵衛は命の恩人となる🤔
関ケ原の戦いでも長政は、この一ノ谷兜で参陣しており、縄目の恥を受けた石田三成に対しては、自らの陣羽織をかけてあげたと云う☺️
罵声や嘲りには顔を上げて堂々と応えていた三成も、この時ばかりは涙を流したと云う🥲

島津義弘所用
鍍金大鍬形前立十六間四方白星兜 赤糸威大札大鎧
「島津に暗君なし」その中でも名君の誉高い島津義弘は「鬼島津」とも呼ばれていた👏
その名を轟かせた慶長の役の「泗川の戦い」では明・朝鮮の連合軍20万人に対し、7000人という寡兵で立向かい、敵兵38,717人を討取った上、味方の犠牲はたった2人という前代未聞の大勝利😳
あまりの勇猛ぶりから、鬼石曼子(グイシーマンズ)と大いに恐れられたという👏

関ケ原の戦いでも島津義弘は平安・鎌倉時代に多く着用された古式の鎧「大鎧」で臨んだと伝えられており、関ケ原合戦屏風にも龍頭の兜に赤糸縅の大鎧を身に纏った義弘が描かれている🤔

大谷吉継所用
白頭巾がメインだが…😅
癩病(ハンセン病)のため崩れた顔を隠すため、白頭巾で顔を覆っていたとされる大谷吉継は、関ケ原の戦いでは親友石田三成の“義”を貫こうとする決意に打たれ、病身を押して、死装束で輿に乗って参陣した👏
豊臣秀吉に「100万の兵を指揮させてみたい」と言わしめたほど、戦術に長けていた吉継は、当初より小早川秀秋の裏切りを予想していたため、松尾山の真正面に陣を張り、脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保を松尾山の麓に陣取らせていたと云う😳
小早川秀秋の裏切りを機に、脇坂・朽木・小川・赤座の軍も東軍に寝返り、東軍の勝利を確定的にした🤔
吉継は自害する際、小早川秀秋の陣に向かって「人面獣心なり 三年の間に必ずや祟りをなさん」と言って切腹したと云う🥶

小早川秀秋所用
三鍬形後立鉄黒漆塗六十二間小星兜 紫糸威二枚胴具足
大きな三鍬形の後立を立てた小星兜に本小札の鎧、小鰭の飾り、五七の桐紋、まさに天下人秀吉の縁者に相応しい一領だ👏先日、靖国神社⛩の遊就館で実物を目にすることが出来たが、肖像画から受けるイメージとは逆に、甲冑はかなり大きく、実際はけっこうな偉丈夫だったと思われる🤔

関ヶ原の戦いから2年後、秀秋は21歳の若さで急逝😳
大谷吉継の祟りと云われるが、アルコール依存症による内臓疾患が死因という見方が有力視されている🙏

関ケ原古戦場記念館最上階は全方位を見渡せる展望スペースとなっている👏
写真の中央が石田三成の陣だ‼️
雨も弱まり雲が低く流れ、合戦当日もこんな天気だったのではないかと妄想する☺️

町全体が古戦場‼️関ケ原町サイコーでした👏
Posted at 2021/03/28 21:34:39 | コメント(1) | トラックバック(0)

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