またまた溜め込んていたブログの放出〜
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見ていると、武蔵の国が舞台になっていることもあり、聖地巡礼を思い立ち近隣をぐるぐるドライブ🚐💨
先ずは桶川市総合福祉センター地内にある足立遠元館跡へ🚐💨
「伝足立右馬允遠元館跡」の石碑が建っているのみ😅
源頼朝死後、2代将軍源頼家の時に成立した十三人の合議制「鎌倉殿の13人」の一人だ😊
熊谷市妻沼へ🚐💨
続いては平家方の斎藤別当実盛ゆかりの地へ🚐💨
元々は源義朝に従っていたが、やがて源義賢幕下に伺候する様になった🤔
義朝の子、源悪源太義平に義賢が討ち取られ、再び義朝麾下に戻るも、義賢の遺児「駒王丸」(のちの旭将軍・木曾義仲)を信濃に送り届けるなど旧恩も忘れない義理人情に厚い武将だった👏
斎藤別当実盛がご本尊聖天さまをお祀りした日本三大聖天さまの一つ、「大聖歓喜天」の1番目の門、国指定重要文化財「貴惣門」👏
貴惣門を護るのは、仁王(金剛力士)像ではなく、二天王像だ😳こちらは毘沙門天👏
そして持国天👏
国宝の御本殿‼️
奥殿が凄いんだが、有料なのと、以前にも入ったので今回は華麗にスルー😁
歓喜院本坊へ🚶♀️
鎌倉時代の供養塔🙏
中央に阿弥陀如来像、脇侍に観音菩薩像と勢至菩薩像が半浮き出しに彫られる👏
歓喜院本坊の門☺️
どこか悲しげな狛犬😯
歓喜院本坊の本堂☺️
1197年、聖天行者の修行所として開創された🤔
続いて、斎藤別当実盛館跡と伝わる大我井神社⛩へ
徒歩圏🚶♀️なのがありがたい☺️
大我井神社⛩唐門は、1770年に若宮八幡社⛩の正門として建立されたものだ👏
門柱に狛犬が居るのが面白い☺️
大我井神社⛩本堂😯
遠く人皇第十二代景行天皇の御代、日本武尊東征の折り、軍糧豊作祈願に二柱の大神、伊邪那岐命、伊邪那美命を祀った由緒ある社だ😳
1183年、加賀国の篠原の戦いで味方が総崩れとなる中、老齢の身を押して一歩も引かず奮戦した斎藤別当実盛も、ついには木曾義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られてしまう🙏
首実検の際にもすぐには実盛その人とは誰も気づかなかったが、実盛が老兵と悟られないように髪を墨で黒く染めて出陣していたと聞いた木曾義仲が首を洗わせたところ、みるみる白髪に変わり、かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目も憚らず咽び泣いたという😭
続いて、熊谷駅へ🚐💨
織田信長が好んで舞った幸若舞の「敦盛」で有名な熊谷次郎直実の騎馬像☺️
そしてスルー🚐💨東松山市へ🚐💨💨
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」比企氏ゆかりの地として盛り上がりを見せている🤔
源頼朝の乳母「比丘尼(ひきのあま)」が草庵を営んだと伝わる「比丘尼山(びくにやま)」😳
比丘尼は、約20年間に渡り、伊豆に流された頼朝に米🌾などを送り続け、物心両面で鎌倉幕府の成立に大きく貢献した👏
比企尼の甥(後に養子)であった比企能員の館は埼玉県東松山市大谷周辺にあったとされる🤔
比企能員館跡に建つ宗悟寺☺️
比企能員は、頼朝の死後、鎌倉幕府2代将軍源頼家を支えるために選ばれた十三人の合議制の一人だ🤔娘、若狭局が源頼家の側室となり、一幡を産むと、頼朝の外戚として能員は大いに権勢を振るったと云う😳
しかし、一幡に政権が移り能員の勢力が増すことを恐れた北条義時によって、比企氏もろとも誅殺されてしまい、以降の鎌倉幕府の執権職は北条氏に独占されていくことになる🤔
扇谷山宗悟寺の山門☺️
山門脇には土塁と思しき土手が😳遺構だろうか🤔
境内には、比企一族顕彰碑が建てられている🤔
宗悟寺の創建は1204年、若狭局が源頼家の菩提を弔うために比丘尼山の麓に壽昌寺を建てたのが始まりとされる🤔
そのため、若狭局が持ち帰ったと伝わる源頼家の位牌が現在も安置されている🙏
また、若狭局が夫頼家を失った苦しみから逃れるために祀った蛇苦止観音も遺されている🥲
比企氏が深く帰依した岩殿観音正法寺へ🚐💨
仁王門☺️
創建は718年、古くは坂上田村麻呂の悪竜退治の伝説もある古刹で、観音信仰の篤かった源頼朝が制定した坂東三十三観音霊場の第十番の札所で、頼朝の妻・北条政子の守り本尊として、比企能員が復興し、頼朝の没後には政子が堂宇を再建している🤔
独特の質感で大迫力の仁王像👏
元々は運慶作と伝わっていたが、平成4年の解体修理の折に発見された棟札から運慶作のものは江戸時代に焼失🔥し、現在の仁王像は文化年間に再建されたものと判明した🤔
仁王門を潜った先には長い石段💦
市指定天然記念物の大銀杏は推定樹齢は700年を越えていると云われている👏
境内を囲む様に聳える石崖には、石仏が安置されている😳
百観音(西国、坂東、秩父札所)、四国八十八ヶ所の写本尊であり、参拝したのと同じ御利益が得られると云われている☺️
観音堂はその石崖に囲まれる様に鎮座する☺️
坂東の三十三札所のうち3札所が比企能員の領地となっており、頼朝の信頼が厚かったことを窺わせる🤔
岩殿観音正法寺の御本尊である金色の千手観音は
「前立本尊」であり、奥の厨子に室町時代作の秘仏本尊の千手観音菩薩坐像が収められている🤔
隆盛を誇った岩殿観音であったが、戦国後期の永禄年間の始めの松山城合戦の際、七堂伽藍は灰燼に帰した🔥
その後、松山城主であった上田安独斎の庇護を受け、1577年には再興を果たしている👏
茅葺の鐘楼は、1702年に寄進されたもので、東松山市で最も古い建物と云われている👏
また銅鐘は鎌倉時代末期の1322年鋳造のもので、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の際、大道寺政繁が軍勢の士気を鼓舞するため、鐘を引き摺りまわして打ち鳴らしたため、表面に無数の傷が出来たと云い伝えられている😳
大河とは少し離れるが、帰路の途中にある高坂城🏯へ🚐💨
高坂城🏯は高坂館とも呼ばれ、南北朝時代に高坂刑部太輔が築いたとされ、戦国時代、松山城の戦いでは北条氏政が陣を敷き、1590年の徳川家康の関東入部に伴い、加賀爪政尚が三千石を与えられ居館としたと云う🤔
現在、館跡には高済寺が建つ🤔
法音山多門院高済寺は、野本無量壽寺第六世大渓和尚が開山し、1649年には江戸幕府より寺領25石の御朱印状を拝領したと云う🤔
城山稲荷⛩
高済寺の西に横たわる巨大な土塁と堀👏
松山城攻めの際に北条氏によって、もともとあった古墳を利用して築かれたものと考えられている🤔
土塁を登りきった矢倉台跡には、加賀爪氏累代之墓がある🙏
土塁上から堀を見降ろす👀結構な高さだ😨
残念ながら堀は途中で埋め立てられている😢
堀から見る土塁👀
堀は北側の都幾川河川敷へと落ち込んで行く😳
北側から土塁を舐める☺️
住宅街にありながら、よく遺されていたものだ👏
今回、大河ドラマの聖地巡礼をしたが、登場人物のほとんどが坂東武者なこともあり、近場にゆかりの地が沢山あるので、ドラマをより一層楽しめます😊