弾丸ツアー第三弾は続日本百名城のひとつ本佐倉城🏯へ🚐💨
佐倉城🏯から本佐倉城🏯は車で15分程度なのは、ありがたいが、駐車場までの道が狭い💦
駐車場は10台駐められる程度だが、さすがに空いている😊
佐倉市と酒々井町の違いか、日本百名城と続日本百名城の違いか、佐倉城🏯と比べ整備状況にかなりの差がある😅
本佐倉城🏯は、酒々井町本佐倉と佐倉市大佐倉にまたがる将門山⛰に築かれた連郭式平山城で、標高33m、比高24m、東西約700m、南北約800mの規模を誇る中世城郭だ😳東から北に東山、北から西にはセッテイ山、西から南に奥ノ山、南から東に城山が内郭を囲い、その同心円状に外郭部が取り巻き、更にその外側に町場や支城群を配した惣構えになっていた👏
これぞ本佐倉城🏯というショット😁
東山馬場に千葉氏の家紋「月星紋」が描かれた矢盾が並ぶ👏
古河公方足利成氏と結んで下総国を平定したことで宗家の地位を確保した千葉輔胤が、1469〜1486年頃に従来の亥鼻城🏯(千葉城)より本拠地を移すため築城したとされる🤔
東山馬場の上段は広大なⅣ郭と倉跡が広がる🤔
何故か「Ⅳ郭」だけ名前がない😢 因みに…
Ⅰ郭(主格または城山)
Ⅱ郭(奥ノ山)
Ⅲ郭(倉跡)
Ⅳ郭(無名郭)
Ⅴ郭(東山馬場)
Ⅵ郭(東光寺ビョウ)
Ⅶ郭(セッテイ山)
Ⅷ郭(荒上)
Ⅸ郭(向根古谷)
Ⅹ郭(佐倉根小屋)
となっていて、荒上以降は外郭部となる😳
9代にわたって戦国大名千葉氏宗家の本拠地となっただけあって、その規模はハンパない👏
千葉氏が小田原征伐後に改易されると、徳川氏に接収され、1602年12月に家康の六男、「鬼っ子」こと松平忠輝が5万石で封じられるが、翌年2月に信濃国川中島に移封された🤔
その後、江戸防衛の東の要衝として、土井利勝が本佐倉城🏯に入って佐倉藩の藩庁が置かれた🤔
左手に城山と奥ノ山を隔てる大堀切がある👏
往時は、この大堀切を跨いで城山と奥ノ山を繋ぐ木橋があったそうだ👏
先ずは城山を目指す🚶♂️
堀切を進むと櫓台状の壁が行く手を阻む😳右手は奥ノ山、左手が将門山の頂上にあたる城山だ🤔
「将門山」と云うと何か平将門伝説があるのか⁉️って調べてみると、出てくる出てくる😳
①平将門がこの地で生まれたとの伝承
②平将門がこの地に館(城)を構えたとの伝承
③佐倉は平良将(将門の父)の本拠地だった
④本佐倉城🏯の西側の町名はズバリ「将門町」
⑤戦国以来「将門三社」と呼ばれる神社があった
⑥将門の娘である「瀧夜叉姫」が、父の恨みを晴らそうとして、将門山に篭もり「蝦蟇の妖術」を習っていたという伝説
瀧夜叉姫と云えば、妖術で父・将門公の怨霊である大きな骸骨を呼び出しているシーンが有名🥶
横矢が仕掛けられ、城山への侵入を困難にしている😳自然地形を活かした、まさに天然の要害👏
「左折れの坂虎口」と言われる虎口から門を入ると土塁にぶつかり直角に左へ曲げられる構造になっている👏
グイッと曲げられる💦
曲がった先には土塁が遺る👏
城山‼️🤔城山への侵入は堀切からの一箇所のみで、本佐倉城🏯の中で最も要害性の高い郭であり、発掘調査では主殿跡や遠侍、台所や倉庫もあったことが判明し、庭園も築かれていた😳しかし現在は残念ながら埋戻しされて、その痕跡を見る事はできない😭
城主が客を迎え、宴を開いていたりしたのだろう😊
城山からの眺望👀アルがお留守番している駐車場も見える☺️
先ほどの分かれ道まで戻り、奥ノ山…へ向かう😅
奥ノ山に到着💦奥に土塁が見える👀
妙見宮跡‼️この辺りから妙見宮のものと思われる約15m四方の基壇が見つかっている🤔
妙見様は千葉氏の守り神であり、奥ノ山は別名妙見郭と呼ばれ、儀式や儀礼に使われ、本佐倉城🏯城主はここで元服したらしい🤔
倉跡からの侵入を阻む土塁👏
奥ノ山の先にある倉跡郭は段階状に築かれ南に向かって高くなっている🤔
そのまま進むと
先ほどの東山馬場に戻る😳ぐるっと一周してきたことになるのか🙄
セッテイ山を目指してみる🚶♂️
Ⅳ郭を囲う北側の土塁🤔
鳥居⛩が見えてきた😳
諏訪社⛩
で、ここで行き止まり🙄
どうやったらセッテイ山に行けるのだろう😅
馬場を突っ切り東山へ向かう🚶♂️💦
圧倒的な存在感を放つ東山虎口👏
階段があるので登ってみよう😁
オーっ‼️東山馬場が一望出来る👏
東山虎口の切通しに迫ってみよう☺️
先端まで来た💦
下を覗き込む👀6mくらいの高さにもう一歩が踏み出せない😭
東山にも行ってみよう😊
東山は城山から東山馬場を挟んだ対面に東に突き出た半島状の山だ☺️
脇に降りる道があるから降りてみる🚶♂️
東山に沿って折れていく見事な堀👏
堀底を進むと北側の草っ原に出て行き止まり😅
元のルートへと戻る🚶♂️
東山はこの両側が切り立った尾根をクネクネと進んで行く💦
東山の先端に到着💦残念な眺望😅
再び元に戻る🚶♂️
東山虎口👏枡形を構成しているようだ🤔
城側は広いが外部からの入口は狭くなっている👏
東山虎口を振り返ってみる👏
この先が印旛沼方面に広がる広大な郭「東光寺ビョウ」のようだ🤔
セッテイ山を目指して先人がつけた僅かな獣道を頼りに突き進んで行く🚶♂️💦前方に僅かな堀が見える👀
南奥虎口☺️
この案内板の後ろの黄色い線が入った竹は「金明竹」という珍しい竹らしい😳
藪でほとんど見えないが、階段がある‼️
苦労して登ったら…またⅣ郭😅
セッテイ山はどこだー😭
セッテイ山と倉跡を隔てる巨大な堀👏
地図を見ながら遠目に目星をつけて藪を掻き分けて直進する💦
セッテイ山の由来は、郭を繋ぐ「接続」からという説や、「接待」からという説があるが、実際は堀で囲った「人質郭」だったという🤔
やっとの思いで辿り着くと崖崩れで進めない😭
付近をウロウロしてると虎口を発見😳
セッテイ山の大堀👏折れを伴う横矢掛かり👏こりゃ狙い撃ちでっせ😅
ホントに深い堀だ👏人質を囲ってたというのも頷ける🤔
倒木や竹が散乱していて、これ以上の行軍を断念😭
京成本線が走る🚃
1615年、藩庁の佐倉城🏯への移転と一国一城制により本佐倉城🏯は廃城となった🥺
将門山、東山、二つの半島状の丘陵の間に大手口を開ける湾の様な構造は、まさに天然の要害👏
本佐倉城🏯お見事でした👏
Posted at 2020/07/30 12:15:54 | |
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