
滋賀大学のお城博士と”城メグリスト”として知られる城郭ライターの女性と一緒に米子城を巡り、その魅力や見どころを探る「米子城を極める!現地ウオーク」に参加してきました。
米子城跡は標高90mの湊山にあり現在は湊山公園として整備され、私も今年2度ほど登城しています。 一人で米子城を歩いても登って降りて1時間も掛からず見終わってしまいますが、お城に詳しい専門の方たちと一緒に歩くことで自身では気が付かない魅力を発見したいと思いました。
米子城ウオークの前日には、お二人を講師に米子城フォーラム「城メグリストとお城博士の米子城わくわく講座」が市内の施設で開催されていました。

このお二人は各々お城に関する書籍をたくさん出されています →
城メグリスト ,
お城博士
前日、私はJR車両所の見学と客船の歓迎式典に行ってたのでフォーラムには参加してません。
関連イベントの「米子城を極める! 現地ウオーク」は1ヶ月前に参加申し込みしてました。

当日朝は市内にある歴史館に10時集合。 しかし、10時~15時とは長時間だな。
お昼は城山の頂で「いただき」をいただきっ!となっていました。
米子城ウオーク当日、朝早く集合時間よりも先に米子城に寄って写真を撮ってみました。

二の丸門跡の手前にある桝形と呼ばれる箇所の前に車を停めてみて。
米子城は応仁の乱の頃に山名宗之により砦として1470年頃築城。
石垣を構えた本格的な城は戦国時代1591年頃に吉川広家により築城が開始。
関ヶ原の戦後、吉川広家は岩国に転封。代わって領主となった中村一忠により1602年頃に完成。

現在は建物は失われてますが、石垣などは残り、往時の姿をよくとどめています。
平成18年(2006年)に本丸、二の丸などが国史跡に指定されました。
山頂の本丸に四重天守(大天守)と四重櫓(小天守)の2つの天守を持つ壮麗な城であった。

北に内膳丸、東に出丸として、ふもとに二ノ丸、その下に三ノ丸を配した。
南西には中海があり、城郭は中海から水を引き込んだ内堀を廻らせて防御。
内堀と外堀の間は武家屋敷、外堀の外側は町人区を配していました。
車を米子城(湊山公園)の正規な駐車場に停め直して、現地ウオーク集合場所である歴史館に歩いて向かいました。
途中の交差点で振り返り米子城の遠景を撮影してみる。

この交差点の左右にある道路が内堀だったところです。
本丸石垣の上にそびえ立つ大小2つの天守はさぞかし壮観な姿だったことでしょう。

今回の米子城関連イベントの1つとして、1週間ほど石垣の夜間ライトアップがされたそうです。
集合場所である米子市歴史館に到着。 昭和5年に建築された赤レンガ色のモダンな洋館。

既に多くのウオーク参加者が集まっていました。 定員50名を超える55名くらいが参加された。
受付で会費300円(当初500円が値下がり)を支払い10ページに渡る説明資料と

ペットボトルのお茶、それに「いたたぎ」の配給があった。 「いただき」は郷土料理です。
ウオーク開始前に開会の挨拶をされる先生お二人。

この日はとても天気が良くなりました。 暑い日差しにスタート前から汗ばむ感じです。
ウオーク開始。 米子城ウオーク一行50数名はぞろぞろと歩いて米子城へと。
国道からかつては内堀だった道路を歩いて、朝早くはボクスターを停めて写真を撮ってた二の丸門前の桝形へと移動。
こちらは二の丸門跡側から撮影した桝形です。 四角く石垣に囲まれてる。

敵の直進を防ぐため二の丸門跡へは直角に折れ曲がっています。
桝形を囲む石垣の中に「矢穴」が残る石が使われていると教えてもらいました。
矢穴とは、石材を割り出す時に矢(鉄クサビ)を入れるためにノミで開けた長方形の穴。

ここは結局、石を割らずに?割れずに?穴だけ残ったものを石垣に使ったということなのか。
二の丸門跡を通ると米子城に唯一ある建物が現れます。 小原家長屋門。

しかし、これは本来は城内のものではなく、城下にあった屋敷門を昭和28年に移築したもの。
二の丸跡にはテニスコートがあります。
二ノ丸から下の三の丸を眺める。

三の丸跡には市営の野球場と他に大学病院も出来ている。
いったん二の丸を通り抜けて反対側の裏中門跡から三の丸へと下る。

ここは二の丸と三の丸の間にある石垣の角っこのところ。 出角部分(隅石)。
長方体の石の長辺と短辺を交互に重ね合わせることで強度を増す「算木積み」という石垣の出角部分(隅石)の積み方。

多くのお城は出角部分(隅石)が90度の直角なのに、米子城のここだけ120~130度となっており大変珍しいものと素人では絶対に気が付かない見どころを教えていただきました。
書いてる内容がみんカラユーザー向けではないマニアックなブログとなってきました~ (@_@)ξ
そして、二の丸と三の丸の間にある石垣沿いに狭い道を一列になって登るように歩く。

この左手は野球場の外野スタンドであり、盛り土がしてあります。 盛り土の上を歩いてる。
お城博士は、盛り土がされてるため立派な石垣の下部分の多くが隠れて見えなくなってしまってるのが残念だと言われていました。
再び二の丸に戻り、こちらの城山登り口から本丸に向けての登山が始まります。
近年、米子城では発掘調査が進んでいます。 山腹から山頂の本丸に向けて続く「登り石垣」の存在が明らかとなった。 写真中央下から上方向に向けての石垣。

登り石垣とは、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際、倭城の防備を固めるために採られた石垣普請の手法。
米子城には、出丸である内膳丸の石垣から、本丸まで続くこの登り石垣に繋がる一直線の石垣群が存在。
今度は内膳丸に向かいます。

戦国時代の家老である横田内膳正村詮が構築を担当したことから内膳丸と呼ばれる。
内膳丸。

内膳丸は、標高52mの位置にある出丸であり、二重櫓数棟のと武器庫が設けられていた。
さて、登山を続けます。 本丸がある頂上まで約8分。
本丸が見えました。 左側が四重櫓(小天守)台、右側が四重天守(大天守)台。

大天守台の3段となってる石垣は、上段が慶弔に作られ、中段が平成に修繕、下段が昭和に修繕、さらに左の小天守台は幕末の修繕となっており、4つの時代の石垣がいっぺんに見れるとの説明を受ける。
次はいよいよ、米子城の頂上、天守台にて皆でお昼ご飯を食べます。
お昼は城山の頂で「いただき」をいただきっ!
ブログは後編に続きます・・。(^^;