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2017年12月06日 イイね!

お城学者 加藤理文さんとめぐる! 米子城 (前編)

お城学者 加藤理文さんとめぐる! 米子城 (前編)米子市の中心地、湊山に築かれた米子城は、山頂に五重の天守閣と四重の副天守閣(四重櫓)を持ち、山陰随一の名城とも称される壮麗な城であったといわれています。

現在、建物は失われていますが、石垣などは往時の姿をよく留めており、天守跡からは秀峰大山、日本海、市街地、中海などが一望できます。



前日1日目の屋内会場イベント「石垣で魅せる! 山陰三城跡シンポジウム」に続いて、翌2日目は実際に米子城の現地を歩く「お城学者 加藤理文さんとめぐる! 米子城」に参加してきました。

なお、昨年も同様に米子城の現地ウオークイベントに参加しています。 2年連続2回目の参加。
関連ブログ : 米子城を極める! 現地ウオークに参加 (前編) , (後編)

米子城現地ウオーク集合時間の1時間前、一人こっそり米子城現地を訪れて、二の丸入り口である枡形虎口の前でブログ用サムネイル画像の撮影です。


みんカラ用ブログのため車は入れないと。 そのため早めに現地入りする努力を惜しまない。 

また、この撮影のときだけ敢えて屋根オープンにする演出を施してます。

米子城は標高90mの湊山に築かれました。 

近くからは山頂の石垣は確認し辛い。もっと離れた場所からの遠景で山頂の石垣は確認できます。

米子城は応仁の乱の頃に山名宗之により砦として1470年頃築城。
石垣を構えた本格的な城は戦国時代1591年頃に吉川広家により築城が開始。
関ヶ原の戦後、吉川広家は岩国に転封。代わって領主となった中村一忠により1602年頃に完成。

明治6年(1873年)の廃城令で全国の名城が取り壊されたように、その6年後に米子城も終焉。
平成18年(2006年)に、本丸、二の丸などが国史跡に指定されました。
また、今年4月6日のお城の日には、続・日本100名城に選定されています。

午前10時、米子城現地ウオーク集合場所の山陰歴史館に到着。

もともとは昭和5年に米子市庁舎として建てられた赤レンガ色スクラッチタイルのモダンな建物。
この山陰歴史館が建つ場所は、内堀と外堀の間にあり武家屋敷が並んでいた場所であった。

玄関ロビーにある米子城在りし日の姿の模型です。

四重の副天守閣(四重櫓)と五重の天守閣。

米子城現地ウオークの受付を済ませました。

本日巡るルート地図(A班用)やパンフをもらった。

今年は米子城の缶バッジももらいました。

もらったバッジは数種類(4種類?)あるうちの一番数少ないレアな冬バージョンだそうです。

そして、お昼に食べるお弁当、境港市の郷土料理「いただき」の配給がありました。

この郷土料理「いただき」の正体については、食べる段にまたご説明します。

米子城現地ウオーク「お城学者 加藤理文さんとめぐる! 米子城」には定員50名(申し込み先着)のところを、130人?もの人が集まりました。 県外遠方からもお城マニアの猛者が集まる。

ただし、お城学者の加藤理文さんと歩くのは申し込み先着50人のA班のみです。
残り多くの人たちは重ならないよう別ルートで歩きます。(B班)


現地ウオーク開始。 皆でぞろぞろと歩いて米子城跡へと向かう。

我々A班一行は、お城学者の加藤さんと市教育委員会の方のお二人に付いて歩きました。

途中、昔は内堀だった現在は埋め立てて作られた道路や三の丸跡を通る。

朝はボクスターを停めてた枡形虎口に到着。

枡形虎口は二の丸への入り口であった場所。

早速、お城学者の加藤さんにより詳しい石垣の解説がありました。

入り口にある石垣は大きな石が選ばれ表面を削り磨かれているというような説明だったと記憶。

枡形虎口を囲む石垣の中には「矢穴」の跡がはっきり分かるものも多数ありました。

矢穴とは、石材を割るのに矢(鉄クサビ)を入れる長方形の穴。 画像のギザギザのところ。

また、この矢穴の大きさや形によって使っていた道具・矢(鉄クサビ)が分かり、

いつ頃の時代に作られた石垣であるのかが分かるのだそうです。 まさに石垣は語る。

敵の直進を防ぐため直角に曲がり石段を上ったところにある二の丸門跡から眺めた枡形虎口です。

四角く枡形に囲まれている。 ここは城兵の集合場所でもありました。

現在の米子城跡にある唯一の建物が旧小原家長屋門です。

もともとは城内にあったものではなく、城下にあった家臣小原家の屋敷門を移築したものです。
雨漏りのため屋根全体にはシートが被せてありました。

昔の門扉というのは必ず正方形で出来てるものなのだそうです。 

実演し説明する加藤さん。 両側にある礎石の間隔が分かればそこにあった門の高さも分かる。

二の丸にあるテニスコート。


二の丸から見下ろす三の丸は野球場になっています。 あと左端に写る大学病院も三の丸。

画像手前側のバックスタンドは土が盛られ、二の丸石垣の一部を隠してしまっている。

二の丸を通り抜け、反対側にある裏中門跡近くの石垣です。

石垣の中から木の根が飛び出しています。 こういった石垣近くに生えた木が育ち内側から石垣を壊していくお城が全国各地にあり、木の伐採が石垣保存の大きな課題であるとのこと。

いったん二の丸から下りて、二の丸と三の丸の間にある石垣。(二の丸石垣)

石垣の角っこ、出角部分(隅石)。  

その出角部分(隅石)を見上げています。

多くのお城は出角部分(隅石)が90度の直角なのに、米子城のここだけは地形のためか?120~130度となっており珍しいところ。

二の丸石垣沿いに野球場バックスタンドの盛土の上を歩いています。

この盛土が無ければ、野球グラウンドの平面まで伸びる石垣の姿が見えるはず。

野球場バックスタンド側にある石垣の角っこ、出角部分(隅石)。  

長方体の石の長辺と短辺を交互に重ね合わせることで強度を増す「算木積み」という石垣の出角部分(隅石)の積み方。

というように、石垣だけでご飯が何杯でも食べれる詳しい石垣解説が続く。


ここから、来た道を戻って裏中門跡まで。 そこから登山道に入ります。
 
お城学者の加藤さんと市教育委員会の方のお二人に付いて歩きました。


昨年(2016年)4月のこと、お城ファンが色めき立つような大発見が伝えられました。
米子城跡の発掘調査によって「登り石垣」が確認されたというニュースです。 この登り石垣が築かれたと確認できるお城は全国でも僅か5例目。 中国地方では初という貴重な遺構の発見でした。

昨年、発掘された登り石垣。 現在までの発掘では長さ40m、高さ3m以上を確認。
内膳丸から天守遠見櫓にかけて尾根を登るように築かれています。 実際には100m以上ある?

登り石垣とは、本来は日本のお城には無かったもの。 豊臣秀吉が朝鮮出兵(1592~1598年)を行ったときに持ち帰った技術といわれ、海に面した軍港を守る目的で築かれた強固な防御施設であった。

中海側に面した内膳丸(ないぜんまる)へと進む我々A班一行。


米子城跡の出丸である内膳丸は、丸山に築かれた郭(くるわ)で、二段に配置されている。

まずは一の段郭。 先に進むと少し高く上がるところがある。

二の段郭。 ここは角櫓があった場所。 この先に中海が見えるはず。

奥に展望場所(東屋)ありますが、木が邪魔で景色は広がりません。

内膳丸から振り返ると山頂、本丸の石垣が見えました。

続いては、いよいよ本丸へと上がります。

ここで「お城学者 加藤理文さんとめぐる! 米子城」のブログは後編へと続きます・・。<(_ _)>
Posted at 2017/12/06 20:18:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | ボクスター | 日記

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