
学生時代、テニス部の団体戦でのエピソードです。ダブルス3試合に続けて、シングルス6試合の合計9試合が行われ、5試合を制したほうが勝利するルールでした。チーム全体の勝敗を背負う団体戦の緊張感は、個人戦とは比べものにならない重圧です。特に、チームの勝敗が拮抗した状態で迎えるシングルスの上位戦は大変でした。コート周囲には、両校合わせて50名を超す応援要員が集まっていますので、1ポイント終わるたびに大歓声となります。校風やチームカラー、あるいは歴史的な因縁の有無にもよりますが、その7割以上は、実質的にヤジです。
私が、あるときのシングルスで対戦した相手校の江本選手(仮名)は、闘志を表に出してこない非常に大人しいプレーヤーでした。黙々とプレーし、ポイントを取っても、落としても、常に淡々としていました。その落ち着きがとても不気味でした。
言葉をほとんど発しない江本選手でしたが、集中するときのルーチンが一つだけありました。構えに入ると、「よしこぉ」「よしこぉ」と小声で繰り返しつぶやくのです。
第1ゲームが終わり、チェンジコート時のベンチでのインターバルで、私のまわりに仲間が集まってきました。あの独特の発声が話題になっていました。
「緊張丸出しで凡ミス連発なのに、なにが、よし子だよ」
「こういう大事な試合でカノジョの名前をつぶやき続けるなんて変な奴だな」
「天国の姉貴に力が欲しいとお願いしてるとか、なにか訳ありぽいね」
「カルト宗教のにおいがしないか?」
いろいろな説が出ましたが、変わった選手というところで意見が一致していました。方法はともかく、周囲の雑音を遮断してメンタルコントロールできることは一流の証です。底知れないなにかを持った警戒すべき選手に見えました。
試合開始から40分近くが経過し、ワンサイドなスコアとなって終盤を迎えていました。劣勢になっても、江本選手は、「よしこぉ」「よしこぉ」とつぶやき続けています。
――あるポイントのときに、同級生が気づきました。
その直後のインターバルで耳打ちされました。
「分かったぜ。よし子じゃないよ。よし来い、よし来いって、必死にお前を威圧してるんだよ。なのにちゃんとした声になってなくてよう」
その次のゲームからは、応援の仕方が変わりました。冷静沈着に見えて、実は、単なるチキンハートなのが明らかになってしまったのです。
本稿にはとても記せない強烈なヤジと挑発で、コート全体が江本選手のメンタルをつぶしにかかりました。全力を尽くすことが相手への礼儀である以前に、もっと重たいものを背負っていました。試合に出たくても出られない仲間もいたのです。学生テニスの団体戦は、メンタル40、体力40、技術20くらいの、テニスとは似て非なる特殊で苛酷な競技でした。
Posted at 2022/10/05 08:51:43 | |
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