
2014年にデビュー30周年コンサートを成功させた菊池桃子さんは、2年連続となるコンサートツアー「MOMO CAN SHA 2015」を開催しました。
会場が小さく、申し込みは抽選となりました。東京の2公演がハズレで、途方に暮れていたところへ朗報が舞い込みました。大阪会場で、中央最前列の席が当選していたのです。
7,200円のチケットを懐に忍ばせ、往復30,000円近い交通費を用意して、東京から新大阪へ向かいました。
このコンサートは、事前のファン投票で曲目が決まるベスト10方式になっていました。
――コンサートの中盤でMCの時間が入り、桃子さんが、おもむろに、キーボードを弾き始めました。「この曲分かりますかあ?」という具合に、シングルカットされていない自分の曲を弾きながら、会場とのキャッチボールを楽しんでいました。31年間も続けているような熱狂的なファンばかりでしたので、誰もが全問正解できる内容でした。
ところが、一掬の間を経て、ある曲を弾き始めると、会場の空気が凍りつきました。
勇気ある観客の一人が、その曲名を叫びました。
「正解。これは、ラ・ムーの曲なんですよ」
桃子さんは、1985年から1987年まで、7作連続でオリコン1位を獲得し続けていました。その勢いに陰りが見られた1988年2月、突然、「ラ・ムーのボーカルになります」とアイドルからの卒業を宣言しました。しかし、ロックとブラック・コンテンポラリーをミックスしたような先進的サウンドで、商業的には大失敗し、歌手活動の一線から退くことになりました。
私の中では、「何故、あのとき、桃ちゃんをもっと応援できなかったのだろう」という痛恨の思いがあり、おそらく周囲にもそういう心境のオールドファンがたくさんいたはずです。桃子さんのほうも、あらゆる場面でラ・ムーの話題を避けてきたのが明らかで、お互いタブーになっていました。
――桃子さんが、少し不機嫌そうに、でもときおり笑顔を見せながら、語り始めました。
「知ってるんですよ。ラ・ムーでのあたしのこと、笑いものにしてた人、多かったですよね」
会場は、静まり返っていました。
散発的に、「そんなことないよ」と否定する観客の声もありましたが、虚勢にしか聞こえませんでした。ラ・ムー作品のセールス不振が、なによりも明確なファクトでした。
桃子さんの語りが続きました。
「今みたいにSNSがない時代だったから、あたしもひどく傷つかなくて、助かったのかも」
この一部始終を、他の誰よりも近い場所で目撃しており、表情の変化と揺れ動く心情をつぶさに感じとっていました。胸中で、「桃ちゃん、ゴメンね」と謝り続けるしかありませんでした。
――「次の曲は、レコーディングのときを含めて、人前で3回しか歌ったことがないんですよ」という前置きを経て、イントロが始まりました。12枚あるシングルとコンサートでの定番曲を押しのけ、ファン投票の上位に食い込んだ「青山Killer物語」という曲でした。
ラ・ムーの4thシングル「青山Killer物語」は、桃子さんが初めてチャートのトップ10から陥落した不名誉な記録を残していました。オリコン最高位19位、セールスもキャリア最低の2.1万枚でした。「卒業―GRADUATION―」が39.4万枚売れたのとは、比べようがないほどの低迷だったのです。
ファンの間で、SNSやYouTube等を通じて、「あの曲いいよね」という評判が蓄積していく形で再評価された作品で、桃子さんもベスト10入りに驚愕している様子でした。
このときの会場の一体感はものすごく、桃子さんの熱唱ぶりにも拍車がかかっていました。これで、和解できたんだという歓喜が、会場一帯に広がっていくのを感じました。
補遺
トップ画像は、デビュー40周年を記念して自主制作したステッカーです。愛車に貼っています。
Posted at 2023/12/02 07:51:26 | |
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