
少しへたばっているノッシーでございます。
う~ん、さすがに41歳になってくると体力的に持たなくなってきますよね…
おまけに1人で抱えている仕事がたくさんあり過ぎて…
実は僕、サラリーマンになりたくて法人会社などをいくつか設立したのですが、金銭的というよりも、どれもこれも結局は人の方が追い付いていかず、
追い込まれてわかったこと…自分と人は一緒ではない…必ず相手の目線で考えることが大切だと思うようになり、
偉そうなことを言ってしまうかもしれませんが、相手のある一定のキャパを見えた瞬間から、相手には目の前のことだけを言うように努力をしています。
でも、僕は生きているからこそ、自分の生きた証は少しでも刻みたいという気持ちで頑張っており、おそらく僕の考えていることは自分の実力以上に、また人が思っている以上に大きなことを作りだそうとしていると思います。
だから器用貧乏しているんだなぁと…f(^^;) でも貧乏の方が大きなことを考えて、行動できるんですよね…
なぜなら貧乏だから、そこから脱出しようと思って必死になる…
日本を席巻し、追い抜き、追い抜かそうとしている韓国や中国だけでなく、タイやインドネシアなどの発展途上国の人たちも、貧乏から脱出しようと思い、必死に頑張っている…
それはかつて、金の卵と呼ばれた団塊世代の人たちのように、無から有を生み出そうと必死になっている…それと同じかもしれません。
ちなみに、今回の積載車両費も含めてW202のメルセデスの修理代は全て2万円で、お釣りがきます。助けてくれたヤナセさんには申し訳ありませんが、僕の経験からするとヤナセさんの修理代見積もりは10万円を間違えなく超えるでしょう…
それなのに、ヤナセさんの川越店さんは、そうしたオイシイ思いを捨てて、僕の気持ちを優先した訳ですから、素晴らしいと思います。
ところで、僕がW202のメルセデスの修理代は全て2万円で済んだ理由…それは僕の、この20年の生き様があったからだと思います。
つまりトラブルに巻き込まれたのも、僕の生き様の結果
だから、いつの間にか、ちょっとやそっとのことでは動じない心も備わってしまったのかもしれません。
以前にも、みんカラで僕のことを書きましたが、経験してきた職種は今や30種以上、親と反りが合わなくて、自分で大学の学費を作り出すために、大学時代から
トラック運転や土建屋関係、ガソリンスタンドの店員、外車の販売、修理工、興信所の助手、お菓子の工作機械の営業、株式の売買、損保保険の営業、喫茶店のボーイ、食堂のまかない、コンビニ店員、借金の取り立てなどなどから始まり、
オートメカニックの丁稚小僧、それも写真整理などのお手伝いから始まり、ライターやカメラマン、編集作業、広告営業や販売営業のアシスタント…
それもオートメカニックの編集部の丁稚小僧は先輩たちの雑用アシスタントをしながら、自分でも担当編集ページも持ち、同じ会社の広告営業や販売営業のアシスタントも行い、
その上、夜、戻ってきたら、プリマハムという会社の新開発食品のティスティングや企画書類を制作…それが25歳前後
それからオートメカニックの丁稚小僧から独立して、27歳の時にコンビニ経営とフリーライターのかけもちをして、一時期は毎週数十万から数百万のお金が僕の前を流れていく…
正直、大学では教えてくれない金の作り方を、この時、実体験で学んでいたのかもしれません。
とは言え、多額の大金を20代の時に動かしておりましたが、よく営業のサラリーマンが「自分の財布に入っている金と、会社の金は違う」という人がいるのも、同じように、お金は「ありがとうのカード」であると、その時に学習させて頂きました。
でも、そんな一方で、ハードな生活をしていると一日の睡眠時間は2~4時間くらい…48時間に一度、まとめて6~8時間眠る状況で、お金よりも本当に精神的に苦しかったこと…本当に、一時一億数千万円の借金もあったけれど、
そんな状況だから、アタマは回っていても、ろれつも回らない状況だったり、人身事故を起こしてしまったりと…
一番人生で辛かったのが、28歳の時ですね…
埼玉県の越谷警察署の当時のS巡査部長が、おそらく面倒だから交通事故を、「殺人ミスの犯人にしてしまえ」というカタチにし、3課(刑事課)に回そうと思ったのかもしれません
ですから、その時に、いきなり殺人ミスの犯人に僕はなってしまいました…
でも警察署内も甘くないですから、結局はS巡査部長の仕事として解決しろとなったようで、僕は署轄たらい回し状況…
このことは今までみんカラでも書きましたが、さら一歩進めて、その時の詳細なやりとりの一部を書きますと…
「僕が、殺人しようと思ってやっていません」というと、S巡査部長は「お前、否認するつもりか?」と、大きな声でかち込む発言したかと思うと、次にS巡査部長は「もう、お前が認めてくれないと、俺、48時間勤務で疲れているのに、家に帰れないんだよね…」という泣き落し…
警察署の取調室で、そんなことをやられていると普通の精神状況、もっと言えば気持ちの優しい人であれば、「やりました」と言ってしまうかもしれなませんよね…
でも、きっと最終的には、親や当時に加入していた保険会社の弁護士などが信じてくれ、弁護してくれるだろうという裏付けの無い自信があったから、「僕は本当にやっていないものはやっていません」と言い張りました
しかしS巡査部長がオフクロの会社や保険会社などに電話をして、僕に自白を促すようしたんですから…
オヤジとは反りが合わなかったので、当然、助けてくれず…
たださえオヤジの身勝手さで、僕は小学校5回も転向したんですから…
きっと、オヤジはこのことについても、僕が根に持っていたこと知っていたから、死ぬ間際に弟に紙とペンを用意させて、震える手で、「すまない」と書き残したのかもしれませんね…
僕は死ぬ間際、家からクルマを出そうとした瞬間、吉川市に住む日教組に所属していた元教員の家族が車庫の前にクルマを止めて…
ですから、かみさんだけは友人に頼んで僕のオヤジの死に目に会えましたが、僕はオヤジが死んで10分後に到着したため、オヤジの死に目には会えませんでした…
ですから、中学校時代から日教組の所属している教員たちもイジメられたので、僕は日教組に所属している、また所属していた人間は非合法の暴力団の人間以上に軽蔑をさせて頂きますし、日本をダメにする団体であるということは、彼らから教えて頂きましたので、申し訳ないですが日教組の方々に対しては、僕は、大きな敵意をもっておりますため、御理解を頂きます。
さて話はズレてしまいましたが、さすがにオフクロに「皆が苦しむから何でも良いから認めてしまいなさい」と言われた時は、本当に辛かったですね…
この時ですよね…血がつながっている肉親でも、その瞬間の自分の保身のために、真実も見ようせず、また聞かず、血がつながっている子供でも平気で裏切ってしまうと…
…そして、この時、「こうやって冤罪が生まれるのか?」って、その時に実体験をしましたし、家族愛なんて、そもそも存在しないんだと、いつもどこかでドライな気持ちで、人を見るようになってしまったのも…
この時に僕にとっては、人の本質を見ようとするための視力を持たなければならないと思った瞬間でもありましたね…
この冤罪を越谷警察署のS巡査部長にかけられた時には、本当に辛くて、僕は首を吊って自殺ミスもしていまして、でも死んだら相手の思うように、ストーリーを作り上げられてしまうんですよね…
この時、僕の異変に気が付いた師匠や当時のフジテレビの浦和支局長、大学時代の読売新聞、朝日新聞の友人や先輩たちが動いてくれて
僕の殺人ミスの冤罪と、当時の越谷警察署の看守暴行事件を報道し、さらには当時の越谷警察署の元警部補が友人の組関係から押収した覚せい剤を警察署のトイレで流し証拠隠滅したことなどを報道
さらに越谷で1年後、一時停止を無視…というよりアクセルとブレーキを間違えて突っ込んだクルマが、走行中の僕のクルマに当たり、ブロック塀まで押し込んでプレスするようなカタチで当たって、僕が救急車で運ばれているにも関わらず、
おまけに本当に運転していた男は飲酒していたため逃亡し、同乗していた女性が運転していたことをS巡査部長は虚偽報告したようで…
だからS巡査部長を指摘するよりも、当時の越谷警察署の皆さんがマスメディアの餌食になってしまった状況で…
越谷警察署の当時の職員で、年金や給与などが影響しているのは、もしかすると当時のS巡査部長の行動に影響されている可能性も…もっと言えば、役人の1人1人の行動が人生を色々な人の変えてしまうこともあるのです
これは今の政治家さんたちに知って頂きたいとも思っております。
そのことは、若干1998年の内外出版社の中古車情報でも書きましたが…
まぁ、僕の話がウソだと思うのでしたら、1998~2004年までの越谷警察署に関わる新聞報道やテレビ報道を、インターネットだけでなく自分の足などで調査するとわかると思います…
僕がウソを言っているのかどうかは、その調べて頂いた内容で判断して頂ければ幸いです。
そうそう、南越谷でコンビニをやっていた時に、暴力団組員が店内で暴れて暴行事件が発生した時も、警官はビビって助けてくれなかったこともありましたね…
仕方がないので、結局は僕がその所属する組に乗りこんで行って、親分と話を付けたことも…
日本刀を突き付けられ、「てめぇ、殺しやろうか」と言われましたけれど、その時に「どうせ自分の人生を振り返っても不幸だし、一発で殺して下さいよ。ただし僕もただでは殺されませんよ、1人でもあなたたち一緒に死にたいと思いますから…」と言って
横にあったストーブをけり倒し、床に灯油が広がってライターを火をつけようしたら、「お前、肝が座っているな」と言って、それからコンビニで買い物をしてくれるようになり、
その人たちが率先して、南越谷周辺の治安を良くする活動をしてくれて、
そのせいか南越谷駅前でたまっていたナンパする族を一掃し、一気にいなくなって…その人たちも足洗って、普通の仕事へと就職…
風の噂によると1人は今や、聞けば誰もが知っているかもしれない某会社の部長さんなどをやっているんですから、それも良いパパで腰の低い、社内でも人格者として言われているようですから、人生ってわからないものです。
今考えれば、よく借金を一度は返せた、よく人生のスゴいピンチを乗り越えることができたと思います。
まぁ僕が若かったからできたのでしょうし、
一番はカミサンが一番身近で助けてくれたから
それに師匠をはじめ良い仲間に巡り合えたから
こうして僕は生きているというのが、現実だと思います。
だから宮崎奈穂子さんの「路上から武道館へ」の曲を聴く度に
http://youtu.be/Hi5K8yqLSD8
とくに、出てくる詩の中で
いまこうして目の前にいるあなたの事も
サヨナラしてすれ違っていた人たちも
みんな 私をつくっている
最初は自分だけの夢だった
今は自分だけの夢じゃない
私はあなたに喜んで欲しい
私の夢だったあの武道館で
最初は自分だけの夢だった
今は自分だけの夢じゃない
気温が0度の寒い冬も
焼け付く日差しの真夏の日も
今日も私はただ歌いたい
あなたと私の夢のために
今日も心を込めて歌おう
路上から武道館へ…
と、聞くたびに涙が出てしまいます…
そして今、必死にやっているカービートも最初は、
僕だけの夢物語かもしれないけれど、
また11月24日は第二回 車二夢二の会
(元マツダのロータリー開発者の小早川さんと勉強会&懇親会)
https://minkara.carview.co.jp/calendar/4772/
と言った勉強会も、僕の暴走かもしれないけれど
「1人が皆のため、皆が1人のために」動くことによって
自分も含めて、全員が幸せになることを信じて、
ココまで奮闘して後ろを振り返らずに前見て生きている…
でも振り返ってみれば、色々な人に、僕は助けられてきたし
色々な出逢いの中、助けてもらっているから
だからこそ、今の1つ1つを頑張らなければならないと思い
W202のメルセデスをブツブツと小言を言いながら直して
昨日も4件の打ち合わせと友人と、
夕食を食べなければならないのにと…f(^^;)
本当に、コメントを付けて頂いてくれたり
応援してくれている方々に、1人1人、ちゃんとした対応できずに
心を苦しい思いもイッパイあります。
またカミサンには、色々と我慢をさせてしまっており
それでも自分の夢や自分の夢にかけてくれた人たちのため
じっと耐えている姿を見ていて、本当に申し訳なく感じております…
僕が精神的に極限に追い込まれていても、
苦しくてもがいている時にも、何も言わないで
それでも、色々な人たち、様々な分野な方々に支えてくれている…
そして、皆さんの応援や支えがあったからこそ、
僕がココまで来れたんだなぁと感謝した瞬間、
なかなか取り付け作業でうまくいかなかったベルト張りも
一発できまりました…f(^^;)
さて、今日は、ココのところの突発的な出来事で
疲れが残っているせいか、思っている半分もできておりませんが、
精一杯にいきたいと思います(^^)v
本当に、皆さん、いつもありがとうございますm(_ _)m