先月、仕事で静岡に出張した時、たまたま新幹線で隣り合わせになったご老人と1時間ほど話をしました。その方は多分80歳近い年齢だと思いますが、新横浜で乗車され、浜松まで行かれるとのこと。
「昔、同じ船に乗っていた仲間達と、年に一回集まるのですよ。」と。
「なんという船に乗られていたんですか?」
と聞くと、
「『能代』・・・能代川の能代という船です。」と。
車好き、イタチ好きの私、実は「隠れ軍事オタク」でもある私は驚きました。
「能代というと、巡洋艦の?」と聞き返すと、「そうです、フィリピンまで行きました。」と(幾分懐かしさを込めて)おっしゃいました。
「栗田艦隊ですよね?レイテですよね?」と聞くと「よくご存じですね」と喜んで頂けたようで、その後(大変心残りでしたが)私が先に下車するまで当時の話を色々伺うことが出来ました。
軽巡洋艦「能代」は終戦の前年1944年10月に、大和、武蔵といった戦艦と共に、米軍が大挙上陸したフィリピンのレイテ湾を目指した(無謀な)捷一号作戦に参加し、
サマール島沖の海戦で沈んだ船です。この作戦は戦艦大和が米艦船(護衛空母と駆逐艦)に対し、主砲を放った
唯一の海戦であり、日本海軍が行った最後の大規模作戦といえるものでした。
「熱帯のスコールがあると、みんな甲板に出て石鹸を泡立てて待っとるんですよ。でも、艦舷のほんの3メートル先を雨が通り過ぎて行ってしまってね・・・」とか、
「艦内でサイダーを製造しとったんですよ。だからサイダーは飲み放題だった・・・」とか。
「・・・アメリカの
巡洋艦と直射で撃ち合ったんですよ。(正しくは米軍は巡洋艦ではなくもっと小型の駆逐艦)」
「・・・『武蔵』は11本も魚雷を受け、撤退中にアメリカの
潜水艦に沈められた(正しくは、潜水艦ではなく、米軍の航空機)」
というように、当時の情報に基づく話も聞くことが出来るなど、大変貴重な体験でした。
実は私は能代が沈没した時の話を聞きたかったのですが、残念ながらそれを言い出せませんでした。日本を離れること数千キロ、乗っている船が撃沈され、(たぶん)重油まみれの海中から生還した体験・・・それは、同じく生き残った友人達とだけ分かち合える体験なのかも知れませんしね。
毎年終戦の夏を迎えると、テレビの番組でも特集番組が放送されますが、そんな中で思うのは、60年前、いったい何が起きていたのか、もっと知るべきだということ。特にこの数年、安直なナショナリズムの台頭を見ると、知ることの大切さ を感じます。
君が代斉唱の時に起立しない教師を、「君が代の是非」を論じることなく処罰する知事。一宗教法人である神社に参拝することに違和感を感じない政府の長。匿名を良いことに隣国(の人々)に対する憎悪、罵詈雑言のみに終始するインターネットの掲示板。
私はナショナリストであることは公言して憚りません。鞄には常に1冊以上大戦の戦記や兵器開発の文庫本が入っているし、妻には放送禁止差別用語ジョークを連発しています(笑)。
でも、戦争がどういうものだったのかを知らずに反戦は語れないし、(我が)内なる差別意識と向き合わなければ憎悪の本質は見えないと思うのです。なにより、無知であること、無自覚であることを恐れます。
サッカースタジアムに鳴り響く君が代の斉唱に恐怖し、打ち振られる日の丸に混じる日章旗に恐怖する、そんなナショナリストでありたいと思うのです。
「コンパクトカメラ」と舌を噛みそうになりながら後ろめたさ感じる、「しな」という言葉をデフォルトでは変換しないATOKを良しとする、そういうナショナリストでありたいと思うのです。
先ほど書いた能代元乗組員のご老人は
「・・・日本に戻ったら、もう乗る船も、燃料の重油もなかったので、横浜で軍に納入される生糸の検査をやって終戦を迎えました。」と終戦の時の話をされました。
「
・・・退屈な仕事でした。」
と、最後に穏やかに付け加えられたのが、
大変印象的でした・・・。
Posted at 2005/08/11 21:04:33 | |
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