赤ターボが
異音モール状態でなかなかアレです。
シャラシャラチャラチャラ似たような音が複数箇所から出てるしw
1ヶ所クラッチは確定。あとはタービンなのか駆動系なのかよーわからん。
ペラシャもなんか怪しいような…(¬_¬)
過走行の宿命とはいえ、あっち直してもまたこっち。
こっち直したらまたそっち。
モグラ叩きかワニワニパニックかw
いつになったらサーキット全開できるのか。
もーさ、一晩寝たら新車になってねぇかな…←
ルシアン・ネイハム 『シャドー81』 (1975)
先月の最後に読んだ “完璧な強盗小説” というキャッチコピーでコレを思い出したので、引っ張り出してきて再読。
誰も死なない、誰も傷付かない痛快ハイジャック。
ベトナム戦争をパロディ的に扱う所、戦争の道具(戦闘機)を使いながら誰も傷付けない、という諷刺作品でもある。
しかしもう50年近く前の作品なのに、今読んでも全然古さが無い。
世界的に見れば747もまだ現役で飛んでるし、戦闘機の世界もこの頃からそんなに進んでないし。
作中で鍵になる戦闘機は架空機ですが、
現代に生きる我々としては
F35がまんまイメージに合う。
むしろ、著者はF35を知っていたんじゃないのか!?と思えるくらい。
でもま、「燃料に1/3まで軽油を混ぜても飛べる」とかいう設定は「んなワケあるかいww」とツッコんでしまうがw
いや、実際ジェット燃料ってどうなってるのか知らないですけど…
初見の時には流していた部分で、軍内部の人物像や権限・管轄の話なんかが、結構細かく描かれている事に気付く。
“政治ゲームとしてのベトナム戦争” をより浮き彫りにする為の要素なのか、単に好きだから書いたのか?(笑)
マーク・サリヴァン 『緋い空の下で』 (2017)
原題『Beneath A Scarlet Sky』
これは全力で太鼓判!
何がなんでも必読図書!
1943年6月、イタリア・ミラノ。
イタリアがWW2に参戦してから3年、戦況は枢軸国側にとって芳しくなく、ムッソリーニ政権への批判が高まる中、
街は次第に同盟国である筈のナチスドイツによる支配色が強くなっていく。
17歳の少年、ピノ・レッラはそんな戦時下でも気ままに女の子を追いかけて日々を過ごしていたが、連合軍の空爆が始まった事で生活が一変する。
スイス国境近くの教会へ疎開したピノは、神父から毎日山登りをして体を鍛えるように指示される。
連日、明かりの無い夜明け前に出発し、幾多の難所を越えて戻ってくる。
それは、ナチスから逃げてきたユダヤ人をスイスに逃れさせるガイドのトレーニングだった。
半年余りで何十人ものユダヤ人を越境させたピノは、18歳の誕生日の2週間前、突如父親からミラノに呼び戻される。
18歳になるとドイツ軍に徴兵され、ほぼ確実にロシア戦線送りになるという。
それを防ぐ為に、叔父のコネを使って “志願入隊” し、戦場に出ない部隊に入るよう説得される。
パルチザン活動を続けたいピノは反発したが、葛藤の末ナチスの軍服に袖を通した。
疎開していた時に、レーサー志望の青年から運転を教えて貰っていたピノは、ひょんな偶然からナチス将校の運転手に取り立てられる。
ハンス・ライヤース少将。イタリアに於けるナチスのNo.2だった。
ピノはその立場を利用して貴重な情報を探るスパイになった。
ジュゼッペ・“ピノ”・レッラは実在の人物で、本作は “限りなく事実に忠実な小説” だという。
完全なる伝記・自叙伝では無く、多少の膨らましはあるとの事だが、それは戦後50年以上、70代後半になって初めて自身の戦争体験を語ったピノの年齢的な問題もあるのかもしれない。
戦禍によりミラノが荒廃していく様。
パルチザンとして戦う弟や親友からナチスに入った裏切り者と叫ばれ、憎きナチス将校に付き従いながらもその特権を享受するambivalence。
ドイツ軍の軍事施設を作る為に不眠不休で強制労働させられる連合軍やパルチザンの捕虜。
“ポーランドのアウなんとかという所の労働キャンプ” に送られる、貨車に押し込まれた人々。
それらに何かをしてやりたくても何もできない自分。
知人も次々と命を落としていくのを目の当たりにし、痛みと悲しみと虚しさに苛まれながらも、運命の恋に心救われ拠り所として生きていく姿。
“幸せ” とは、遠い未来ではなく、その時その瞬間にあるのだと思わせる。
しかし、最も苛烈な現実は、終戦目前の「ナチ狩り」とも言える “反動” である。
パルチザンや市民によるナチス&ファシスト(ムッソリーニの黒シャツ部隊)への報復行為は、捕食者の立場が逆転しただけで、残虐で醜く歯止めが効かない。
心はイタリアの為にスパイ活動をしているパルチザンでありながら、第三者から見れば「ナチスの軍服を着たイタリア人」であるピノにもそれは重くのし掛かる。
「目には目を」も一つの正義ではあるだろうし、「同じことをされてもいい覚悟があるならやればいい」とはワタクシ自身のポリシーでもありますが、
「やられたからやり返す」では相手と同じレベルになるよ、というのもワタクシ自身の思っている事。
「破壊と略奪」という戦争のリアルな側面を抉り出しながら、英雄譚冒険小説としてのクオリティも半端無く高く、美しい恋愛にも触れられ、男達の成長物語でもあり、
しかもそれが作り話ではないという所。これがとにかく凄い。
あと、みんカラ的ピックアップポイントとして…
ピノが最初に運転した少将のクルマが
6輪のゲレバであるw
そのゲレバは英軍機の機銃掃射を受けて廃棄され、次のクルマはただ「フィアット」とだけ表現されているが、何だったのか気になる気になるw
また、ピノに運転を教えた “レーサー志望の青年” は、
アルベルト・アスカリという。
本作の物語には掛からない部分であるが、ピノは戦後フェラーリのセールスマンをしていた時期があり、その後自身もフェラーリを所有しサーキット遊びを嗜んでいたとか。アスカリ繋がりでF1関係者とも親交が多かったという。
アーサー・C・クラーク 『都市と星』 (1956)
原題『The City And The Stars』
ふと久しぶりにSF、というか
アーサー・クラークを読んでみたくなり、
未読だった作品が新訳で出たところだったのでチョイス。
SFというと一般的にはスターウォーズとかアルマゲドンとかそういう系をイメージする方が多いかもしれませんが、
個人的にはSFというと、
哲学・宗教・科学の思考実験のようなイメージ。
クラークの作品群や、レムの『ソラリス』、イーガンなんかも正にソレ。
クラーク作品は特に
「宇宙に於ける人類の立ち位置」や
「人類の往く末」を、科学の土台の上で哲学的に真摯に夢想する。
一見ユートピアに見える完成された世界は、その実ディストピアである、というのはSFでよくある題材だが、
クラークの場合、そこで悲劇的な展開にも破壊的な展開にもならず、融和の末に昇華する方向に行く。
クラークの多くの著作で共通するのが、人類を
「揺り篭から出ていく子供」として描いていること。
『2001年』シリーズのボーマン船長、『幼年期の終り』のジャンやジェフ、そしてこの『都市と星』のアルヴィンは、
いずれも(それぞれの作品内に於いて)人類の変革の最初の1人となるが、彼らには全て “導く親” のような存在が居る。
その “導く親” の庇護の下を離れて1人で歩き始める人類。
その過程、その変革。
その結果、良いことも悪いことも起こるとしても、より高次元の存在に進んでいこうという向上心と好奇心。
それがクラークの変わらぬ柱であると思う。
またクラーク作品の特徴として、「(基本的に) “敵対的な地球外知性体” が出てこない」というのがある。
『幼年期』のカレルレン、本作の “使徒” やヴァナモンド等、実際に “存在する” 者は友好的・共存的であるし、『2001年』のように間接的にその存在を示すオブジェクトだけが出てきたりと、
ハリウッド映画に多く見られる「問答無用で地球侵攻」や 「異星人のオールスターバーゲンセール」的ノリがどうも白けるワタクシのような人間には、クラークのこのスタンスが心地いい。
「成熟した知性を持つ存在が排他的行動をとるだろうか?」 と本作の登場人物も喋っていて、
読み方によってはこれは人類そのものへの皮肉とも取れるが、クラークの場合は純粋に理想を語っていると感じる。
久しぶりにアーサー・クラークを読んで、
60年以上前の作品でこの科学的根拠の盤石さ、神憑り的な先見性、壮大な想像力、(逆に言えば、科学の世界はその頃で既にほぼ行き着く所まで行ってしまっていたとも言えるか)
やはり彼がSF作家の頂点だと思うし、今後も超える人物は出てこないと思う。
だし、結局、人類の究極の進化≒理想の生命体は精神体のみの存在になる、というニュータイプ理論を、半世紀以上前から一貫して論じているクラークにジークジオンww
アーサー・C・クラーク 『幼年期の終り』 (1953)
原題『Childhood's End』
はい、勢いに乗って続けてクラーク。
これはワタクシが中学生の時に読んでドハマりした1冊。
もうボロボロですわ。この後、改装版が1回と新訳が1回出てますが、新訳は重要な登場人物の名前が変わってるので何か嫌w
人類が宇宙への競争に明け暮れ、いよいよその最初の打ち上げが目前となった時、人類はその競争に遅れを取ったことを知る。
しかもその遅れが、数週間数ヶ月のものではなく、幾千年もの遅れであったことを。
突如現れ、全世界の大都市上空に静止した宇宙船。
その異星人は一切姿を見せることなく地球を管理し、すべての争い・病気・貧困は一掃された。
異星人 “オーバーロード” の登場で地球は一つになり平和になった。
しかし、オーバーロードの真の目的は謎のまま。
そしてオーバーロード来訪から50年が過ぎた時、
遂にオーバーロードが地上に降りてその “姿” を明らかにする。
…という第一部のインパクトが強すぎて、
何度も読んでいるのに後半があまり頭に入っていないので改めて読んでみた。
上↑の『都市と星』の項でだいたい言いたいこと言ってしまっているのでアレなんですが、
本作の最大のメッセージは「宇宙は人類の物ではない」「人類には、自分達が思っている程の価値は無い」というところ。
そして、これもクラークの他の多くの作品と重なる要素ですが、
いわゆる “ニュータイプ論” に通ずる内容がより具体的に描写されている作品。
それは “変容 <メタモルフォーゼ>” とも言える、人類の高次元への進化の過渡期。
オーバーロードはその “変容” を促し、待ち、観察し、見届ける為に派遣された中間管理職。
そこにも皮肉というかアイロニーというかセンチメンタリズムがある。
クラークの特徴はこれなんだと思う。
圧倒的な科学根拠でリアルに物質宇宙を描くと同時に、非常に詩的でエモーショナルな切り口で心に訴えかける。
ロマンチックであり、科学的。
人類の存在価値を問う哲学的思索SFの大家。
Red13指定 必読図書