男子たるもの悉皆、一気筒とは申せ、この世の中は魑魅魍魎で、やれ4気筒だの8気筒だのと申すもので御座候。
そんなにたくさんあってもね、と思いつつ、まあ、エンジンには気筒が必要なんですよ。気筒が。
思いのほか、気に入っていたインプレッサスポーツではあったが、もう間もなく、契約期限も切れ、暑い内陸地帯に返却しにいかなあかん。
VIDEO 【STIではないインプもスポーティーだった!】スバルインプレッサスポーツ 【Jap car】Subaru Impreza sport
しかし、げに無常なる世の中。平和の祭典の影響で首都高が一億円増しになると聞いたので、コンクリートジャングルの中を駆け抜けることにした。
さて、どの道を辿って行こうか。
この東京砂漠に住んでもう256年ほどになろうか。この世界に冠たるTOKIOの地理はだいたい頭に入っているので、まずは交差点を右折することした。出だしが肝心だ。
すると、杉並のチベットと呼ばれる区画に鎮座する大宮八幡のことを思い出し、区部の神社では珍しく、無料でクルマが停められることもあり、立ち寄ってみることにした。
この神域は崖下にある和田堀にいた住民が善福寺川(だよね)を渡って、偉い人を祀ったことが起源だということが古墳の発見などからわかっている。
ということが書かれていたり、出土した土器などが、宮司室の近くに展示されていた。
せっかくなので、大宮八幡名物という饅頭と抹茶をいただく。
給仕の方は年配で背の高い方であった。古墳が発見されたのが昭和40年代頃と記憶しているが、彼はその頃はいわば丁稚のような形で大宮八幡の社に奉仕していたのだろうか。
存外にシュールな絵柄のある幼稚園バスの駐車場所を抜け、鳥居を抜ける。
駄菓子屋がある。物品といえば、ピンククラウンの箱破損もの程度があるくらいで、平成の駄菓子屋という風情である。昔、駄菓子屋以外でもよく見かけたものを中心に購入。特にガムは床屋に行った後、ご褒美替わりにもらっていた。
その後、カットすると百円をくれる床屋があるぞと学友に言われ、そこには通わなくなった。その頃から、貨幣資本主義に侵食されていたのだ。ビックリマンチョコを買うのに百円を求める必要があろうか。チョコだけなら、友人がチョコだけ廃棄したものをもらえばいいし、当時は小遣い制という制度の中で暮らしていた。一億総中流時代の古き良き時代であった。
基本的には環七を使うことに決めたが、通ったこともないような道を駆け抜けていく。脳は所与の情報が与えられると覚えられなくなる。カーナビの購入以来、私も道を覚えられなくなっていた。だから、なるべく使わないようにしている。
が、ロードマップを使うわけでもなく、ナビの画面を頼りに移動しているのだが。
この辺りの消息については、
「スマホ脳」 から示唆を得られるところが多いだろう。
周りの景色を見ているんだか見ていないんだかよくわからない感覚。不快である。雑念が絶えず去来してきて、昭和な食堂を目にしてもうっかり通り過ぎてしまう。そして、存外に遠い。首都高速や幹線道路は確かにネットワークを効率的に構築することに成功したといえるだろう。しかしながら、そんなに急いでどこへ行くというのだ。ロードプライシングがいい機会なので、知られざる道をかき分けていけばよい。思えば、そういう試行錯誤の連続が私のドライブでは無かったか。安易に効率を求めてしまっていた自分に対して絶望を感じてしまった。
越県である。日本人にとっては県跨ぎは特別なことのようであるが、版籍奉還から廃藩置県後も、県の名称や領域は幾度も変化した。別に歴史と伝統があるわけではなく、県単位で括るのはいわば行政の都合である。
かつて天皇の直属民として、どんな道でも通行御免の権利を持っていた道々の輩が、のちに差別の対象とされることが多くなったように、このアメリカの傘の下で生きている国も、県跨ぎに対しては何らかの免罪符が必要な時代となっている。
せめて東京都町田市民は県跨ぎさせてあげて(笑)
で、ここで蕎麦屋を発見。バックからでないと入りにくいのだけれど、他に駐車している車両はいないし、思い切り据え切りをさせていただこう。さすれば、駐車も可能となろう。
味は練馬の蕎麦屋のものに似ていた。親子丼がおいしくて、味皇でもそこそこいいリアクションをとってくれるはずである。
近くのスタンドで給油をし、ようやくショップへ。
相変わらずひしめき合っているなあ。駐車技術がないと入れません、ここ。
本来はめでたく手元に戻ってくるはずだったインプだが、特にリアのキャリパーを取り付けるボルトがものすごく硬く、金属加工屋に出すという。
何事も諦めが肝要であるし、衣笠の私とはいえ、腰にまだ不安を抱えてはいたので、これで良しとしよう。
その他、オイルクーラーホースやエキマニ周辺部などを交換。
さて、総額はおいくら万円になるでしょうか。
※クーラントと水をだいたい半分の割合で希釈するのだそうだ。
さすがにここから家まで帰るのは大変。最寄り駅まで行くのにおそらく30分はかかるであろう。代車をお借りする。久しぶりの三菱車だ。
それにしても、去年、洗車してあげたのにもう汚れているのか。
そう、これが三気筒の三速オートマ車で、ナビもETC車載器も電格もないスパルタンなモデルだ。踏んでも40キロくらいしか出ないので、皆、市街地しか走っていないように思える。
代車だからこそ大切にせねばならないと思う。だって、クルマを預けたときの代車が劣悪な状態であったり、代車として機能しなくなったら、自分たちが困るだろうから。
機械洗車ながら撥水を選択。そして、腰を養生して、店員さんにお願いして、空気圧を調整していただいた(すべて2.4キロ・純正は四輪とも2.2キロ)。
松戸の五香のエネオスでの話だけれども、夕食難民になったあとの話となる。
千葉に渡り、松戸の馬橋にある馴染みの煎餅屋さんにお邪魔。お元気そうではあったが、今回はあまり歴史の話をしなかったかもしれない。
小柄な骨柄ながら、少し前までアルファードに乗っていた温厚な紳士は昭和40年に当地にて開業。福島須賀川の出身ではあるが、関東での生活も長い。
39年の東京五輪に際しても、強制立ち退き等、いろいろとあったらしい。当時はネットなどないし、戦後の復興期だから、なおさら、そういうことがあったのだろうし、闇に葬られたのであろう。首都高にしても、C1の銀座付近は川の水を浚渫して作ったものだったし、非常に突貫工事だったわけだ。
しかし、娯楽は五輪ということになるのだろう。蒸し暑い店内のテレビには五輪の競技が映し出されていた。
同じオートマとはいえ、シフトもコラムだし、パーキングブレーキも足踏み式だし、何度か乗ったことがあるとはいえ、慣れるのが大変だ。そして、ジウジアーロの薫陶を受けたかもしれないと思わせるようなフロントマスクには好感が持てるのだが、いかんせんフツーの生活車過ぎる。
沼南(今は柏市)のオートバックスでラリーアートのステッカーを購入。
さすがにべたっと貼り付けるのは気が引けたので、工夫して、窓ガラスにうまく貼り付けた。マキネン仕様にレプリカしたいくらいなんだけれど、そこは我慢汁。
※食品コーナーも21時で終わり
都内の木場まで一般道をひた走り、都心中央部や臨海部は避けようと思い、首都高に乗車。ETCカードを見せる。あっ、最大料金。車載器が無い場合は四の五もなく、最大料金徴収なのであった。まあ、下道行脚を楽しんだからよかったけれど。
首都高では時折、アクセルをベタ踏みする。それでもスピードが出ないし。
私は速度には興味はないけれど、ちょっと、このままでは三菱の名がすたると思うので、しばらくはフルスロットル気味で調教しようと思う。
そういえば、またマニュアル車に乗ります。
新型BRZを試乗することになりました(旧モデルは86にしか乗ったことがないので初めてです)。ダメ元で東京スバルの本拠地(?)に電話したのですが、OKでした。
その後、なんと近所の営業さんから電話。ウチにも準備がありますとのこと。近所だと試乗というか、何かしらの運転フィールを感じられないと思うんですよね。特に今は。
おそらく、フィーリングはもともとよかったものの、パワーがもう一歩というクルマでした。そういう意味では、私にはいいのかもしれません。ただ、エンドユーザー用に既存の2リッターも残しておいてもらいたいですね。おそらく、ドライバーを成長させるクルマだと思うので。
VIDEO 華原朋美 - I'm proud
※華原朋美もフルスロットルで駆け抜けた人だったと思う。
いっときは生放送中でもやばいなと思っていた。
今は、まずまず自分を取り戻しているように思える。元来が生真面目な人なのだろう。ちょうど、この頃、大学生でした。喫煙も飲酒もやっていました。この頃では普通でしたね。ウィンドサーフィンをしたり、ナンパしたりもしていました。すでに未曾有の就職難といわれていましたが、今から見ればそうでもないですね。ガソリンも安かったので、レギュラー指定のクルマにハイオクを入れていました。