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2018年05月22日

追悼・加藤建夫少将

追悼・加藤建夫少将 尊敬する人物、二人目は有名な戦闘機乗りの方です。こちらも再載ながらご一読頂けますと幸いです。


昭和17年(1942)5月22日、加藤建夫(たてお)中佐が戦死しました。「加藤隼戦闘隊」こと、傑作機・一式戦闘機「隼」を愛機とする、陸軍最強の飛行第64戦隊長として知られます。「率先垂範の指揮官」加藤建夫についてご紹介してみます。


「一、いかなる困難にあたっても平常心を失わないこと、
二、何事も任務遂行を第一とすること、
三、個人の功名手柄に走って、団結を乱さないこと」


これは昭和16年(1941)12月8日の大東亜戦争開戦直前、加藤が飛行第64戦隊の部下たちに示した3つの訓戒です。部下たちは教えを守り、開戦後、マレー、パレンバン、ジャワ(インドネシア)、ビルマ(ミャンマー)の空で連合軍機と死闘を演じて、赫々たる戦果を上げました。


そして、空戦の先頭には常に、翼と胴に白い襷〈たすき〉を描いた加藤戦隊長の愛機の姿があったのです。


明治36年(1903)、北海道旭川に生まれ、陸軍士官への道を歩んだ加藤は自ら希望して航空兵となり、昭和12年(1937)の支那事変で飛行第二大隊の中隊長として初陣を飾りました。帰徳航空戦では敵9機を撃墜して、一躍陸軍航空隊のエースとなります。



その後、陸軍大学と航空本部勤務を経て、加藤が飛行第64戦隊の戦隊長として広東に赴任するのは、昭和16年4月、加藤39歳の時でした。


「新たな戦隊長は歴戦のエース」と聞いた部下たちは、さぞかし鬼のような豪傑かと緊張しますが、現われた加藤が温和で親しみやすい人柄だったため、たちまち打ち解けます。飛行第64戦隊は新型戦闘機「隼」を用い、猛訓練を重ねました。


ちなみに64戦隊の隼は尾翼に矢印を描き、それが部隊のトレードマークとなります。


そして12月8日の開戦。加藤たちに与えられた任務は、開戦劈頭、マレー半島に上陸する輸送船団の上空護衛を前日から行なうことでした。


しかし7日当日、天候は荒れ模様。航空機には危険極まりない状況ですが、加藤は自ら先頭に立ち、愛機に乗り込みます。「率先垂範、指揮官先頭」こそ、加藤が生涯貫いた指揮官としての姿勢でした。
加藤らの上空掩護は日没2時間前までとされますが、加藤は珍しく上層部に抗議します。「船団は日没前が最も敵の攻撃を受けやすい。ぜひ日没まで掩護をさせてください」。


もちろん日没まで掩護すれば帰路は暗夜となり、戦闘機には甚だ危険ですが、加藤はあえて進言します。作戦への責任感からでした。


任務の困難さは加藤も十分承知しており、自分を含め特に技量の高い者を選んで、掩護に当たりました。そして船団上空でイギリスの偵察機を撃墜する戦果を上げます。


しかし7日夕刻から猛烈なスコールとなり、3人の部下が未帰還となりました。加藤は深夜1時まで、嵐の飛行場に立ち尽くし、3人の帰還を待ち続けます。


この日を皮切りに、64戦隊はマレー半島に上陸した部隊の障害となる敵飛行場を次々に攻撃、敵戦闘機を撃墜していきます。補給部隊が追いつかないほどのその鮮やかな進撃ぶりから、「加藤隼戦闘隊」の名は陸軍最強の航空隊の代名詞となりました。


中でも加藤の存在感は圧倒的で、他部隊から異動してきた「空の宮本武蔵」の異名をとる黒江保彦大尉は、次のように語っています。


「雲の上を征く加藤隊長機には、恐るべき闘志と迫力が感じられて仕方なかった。(中略)殺気じみているようなすごい気迫のほとばしるのが見え、胸がたぎり立つ感じがした。『勇将のもとに弱卒なし』。この隊長のもと、なるほど部下はふるい立つ以外にない」


加藤は部下たちに、「何機撃墜したかと聞かれたら、部隊の撃墜数を述べよ」と個人の功名争いを禁じ、チームワークを重んじます。


また敵機との戦いに夢中になって任務を疎かにする者には、雷を落としました。しかし部下を叱った後は、さりげなく果物などを振る舞って、奮起を促したといいます。


そして、運命の昭和17年5月22日。ベンガル湾に面したアキャブ基地から部隊が東方のトングー基地に移動を始めていた時、加藤は前日にジャングルに不時着降下した部下の安否を知るため、最後まで残っていました。


そこへ突如、敵爆撃機が来襲しました。「まわせ!」加藤は迷わず愛機を駆って迎撃に向かいます。部下も次々と離陸して銃撃を加えますが、敵の後方旋回機銃による被弾続出で待避が相次ぎます。


不休の連戦に次ぐ連戦で疲労困憊していたであろうこの時の加藤部隊は、必勝法の組織だった編隊飛行は叶わず、精彩の欠く戦いとなってしまいました。部下の被弾と待避を目にした加藤は、まなじりを決してインド洋上まで敵を追撃。遂に必殺の一連射で敵を被弾させます。


しかし、背後から攻撃をかけた瞬間、敵の機銃弾で愛機の翼が火を噴きました。陸地は近いものの、そこは敵地。普段から部下に対し「敵地に不時着して捕虜になるようなことがあってはならん。もし、帰還叶わぬ時は機を急反転して自爆せよ」と、厳命していたとも言われております。


その言葉通りに加藤は部下たちの見守る中、機を反転させてベンガル湾に突入、壮烈なる自爆を遂げ、海原に散りました。自ら言っていたことを身をもって示したのでした。

享年40。奇しくも加藤2歳の時に日露戦争は奉天会戦で戦死した父親と同い年ぐらいの頃でした(なお、父は敵をとるべく自分の子供達に軍人になれと言葉を残しておりました)


5月30日、加藤に個人感状が授与されました。

「ソノ武功一ニ中佐ノ高邁ナル人格ト卓越セル指揮統帥及ビ優秀ナル操縦技能ニ負フモノニシテ、其ノ存在ハ実ニ陸軍航空部隊ノ至宝タリ」

 加藤が軍神として陸軍省から発表されたのは2か月後のことで、そのニュースは日本全国に駆け巡りました。新聞は「仰ぐ軍神・加藤建夫少将」「敵軍慴伏(しょうふく おそれひれ伏すこと)の『隼』部隊長」「感状七度び上聞に達す」と一面トップでその死を悼みました。葬儀は9月22日、築地本願寺で行われました。法号は「建勲院釈顕正」。


 昭和19年(1944年)3月9日、映画「加藤隼戦闘隊」が封切られ、挿入歌となった戦隊歌とともに大ヒットしました。


 エンジンの音 ゴオーゴオーと 

 隼は征く 雲の果て

 翼に輝く 日の丸と

 胸にえがきし 赤鷲の

 印はわれらが戦闘機 


加藤が最期まで身を以て示した不屈の闘志は、薫陶を受けた部下たちが受け継ぎ、彼らは加藤を自分の目標として、「加藤隼戦闘隊」は終戦まで戦い抜いたのでした。
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Posted at 2018/05/22 12:08:21

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