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奈良軍団関東全域統括部長・スタールビーのブログ一覧

2021年05月29日 イイね!

現代日本への提言

現代日本への提言連日のニュース報道を見ると、様々な内容が侃々諤々と流されて居る。


しかしながら、根本的な所で何一つの対策が成されて居ないと考えられる。戦後76年、我々はそろそろ腐った戦後民主主義体制の矛盾を打破せねばならない。


先ず喫緊の課題は武漢ウイルスの殲滅である。著者がコロナウイルスなどと云う偽善じみた言葉を使わない理由は明白だ。


隣国の共産支那(中国)が此度の諸悪の根源であるのは既にバレバレだからである。如何に奴らがWHOを抱き込んで隠蔽しようと無駄だ。


全世界にウイルスをばら蒔き、国力が疲弊した所であの手此の手で侵略の魔手を伸ばす。我が国近辺ならば尖閣諸島、台湾、南シナ海区域である。


にも関わらず平和の美名に隠れ、対支経済的利権に目の眩んだ我が国の政財界に暗躍する豚共は此に目を瞑り、取るべき水際対策を怠り、国内へのウイルス蔓延をみすみす許すこととなった。


此を万死に値する売国奴、国賊と言わずして何と表現するのか?


此度の災禍については、共産支那を筆頭とした連中にさっさと賠償金を請求すれば良い。昨今騒がれる東京オリンピックの中止等は将に奴らの思うツボだ。逆に北京冬季オリンピックこそ叩き潰すべき存在だ。


当たり前だ。侵略虐殺国家でのオリンピック開催を許すなど、かつてユダヤ人大虐殺を行ったナチスドイツでのベルリンオリンピック開催を許した愚挙の再来とも言えるからである。


領土問題に視点を移せば、竹島や北方領土等、大東亜戦争敗戦のどさくさで隣国からの不当な侵略を受けた状態を戦後の長きに渡って看過して来たのがそもそも異常だ。


時の政府は「話し合いで解決」などとのたまって来たが、其が実現したのは同盟国である米国からの沖縄や小笠原群島の返還ぐらいなものである。


本来ならば1952年のサンフランシスコ平和条約の締結に依り、米国の占領を解かれた時点で9条を筆頭とした永久植民地憲法等は破棄し、即刻再軍備と核武装を宣言するべきであった。


武力で奪われた土地は武力で奪い返す。考えてみれば当たり前の話だ。誰も凶悪犯相手に非武装で話し合いに臨もうなどと云う馬鹿は居ない筈だ。


冷戦の間、日本が独立を保てたのは憲法9条のおかげではない。在日米軍と自衛隊、そして核の傘のお陰に他ならない。


逆に此等の無い国はソビエト、共産支那といった大国にたちまちにして蹂躙された。チベット、ウイグル等々は元より、共産主義の影響を受けたクメールルージュやポル・ポトの台頭したカンボジア等では何百万人と云う無実の人々が虐殺された。


もし、日本に在日米軍と自衛隊、核の傘が無ければ同じような道を辿って居たことであろう。


そして、更に言うならば平和ボケしてただ金勘定に明け暮れるだけの堕落した姿に成り果て、ソビエトや共産支那の悪辣なる様相を武力で止めようとしなかった我が国の醜態が各国への悲劇をもたらしたのである。明治以降数々の戦争を闘って、祖国の独立と植民地支配に喘ぐ有色人種達の希望の光となった戦前とはえらい差だ。此が本当に同じ国か?と疑いたくもなる。


今や東亜は自由で開かれたインド太平洋を標榜し、米英豪を中心として共産支那の世界侵略の野望を防ごうとして居る。


我が国は進んで此に参加し、自由主義・民主主義を守る先陣を切る旗印にならなければならない。


更に進んで南北朝鮮、ロシア等に対しても毅然とした態度をとらねばならない。


我が国の寸土でも、或いは日本帝国臣民の生命財産を僅かでも侵そうものなら断固鉄槌を下し、徹底的に排除・殲滅すると云う姿勢を示さねばならない。


ただひたすらにペコペコと土下座外交を繰り返し、反日諸国へ金をばら蒔き、戦前戦中の先人達を悪しき様に罵る政治家等この世にはいらん。


受験の為だけの勉強、国民精神を養わない戦後民主主義的教育等最早排除すべきである。


我が国が世界に誇る伝統と歴史。偉大なる先人達を敬い、自らの範とする。


其こそが我が国の百年、千年先の子々孫々の未來への繁栄につながるのである。
Posted at 2021/05/29 01:06:47 | コメント(0) | トラックバック(0)
2021年05月22日 イイね!

追悼・加藤建夫少将

追悼・加藤建夫少将尊敬する人物、二人目は有名な戦闘機乗りの方です。こちらも再載ながら加筆版にて、ご一読頂けますと幸いです。


昭和17年(1942)5月22日、加藤建夫(たてお)中佐が戦死なされました。「加藤隼戦闘隊」こと、傑作機・一式戦闘機「隼」を愛機とする、陸軍最強の飛行第64戦隊長として知られます。「率先垂範の指揮官」加藤建夫についてご紹介してみます。


「一、いかなる困難にあたっても平常心を失わないこと、
二、何事も任務遂行を第一とすること、
三、個人の功名手柄に走って、団結を乱さないこと」


これは昭和16年(1941)12月8日の大東亜戦争開戦直前、加藤氏が飛行第64戦隊の部下たちに示した3つの訓戒です。部下たちは教えを守り、開戦後、マレー、パレンバン、ジャワ(インドネシア)、ビルマ(ミャンマー)の空で連合軍機と死闘を演じて、赫々たる戦果を上げました。


そして、空戦の先頭には常に、翼と胴に白い襷〈たすき〉を描いた加藤戦隊長の愛機の姿があったのです。


加藤氏は明治36年(1903)、北海道旭川に生まれました。陸軍士官への道を歩んだ氏は自ら希望して航空兵となり、昭和12年(1937)の支那事変で飛行第二大隊の中隊長として初陣を飾りました。帰徳航空戦では敵9機を撃墜して、一躍陸軍航空隊のエースとなります。



その後、陸軍大学と航空本部勤務を経て、加藤氏が飛行第64戦隊の戦隊長として広東に赴任するのは、昭和16年4月、加藤氏39歳の時でした。


「新たな戦隊長は歴戦のエース」と聞いた部下たちは、さぞかし鬼のような豪傑かと緊張しますが、現われた加藤氏が温和で親しみやすい人柄だったため、たちまち打ち解けます。飛行第64戦隊は新型戦闘機「隼」を用い、猛訓練を重ねました。


ちなみに64戦隊の隼は尾翼に矢印を描き、それが部隊のトレードマークとなります。


そして12月8日の開戦。加藤氏たちに与えられた任務は、開戦劈頭、マレー半島に上陸する輸送船団の上空護衛を前日から行なうことでした。


しかし7日当日、天候は荒れ模様。航空機には危険極まりない状況ですが、加藤氏は自ら先頭に立ち、愛機に乗り込みます。「率先垂範、指揮官先頭」こそ、加藤氏が生涯貫いた指揮官としての姿勢でした。


加藤氏らの上空掩護は日没2時間前までとされますが、加藤氏は珍しく上層部に抗議します。「船団は日没前が最も敵の攻撃を受けやすい。ぜひ日没まで掩護をさせてください」。


もちろん日没まで掩護すれば帰路は暗夜となり、戦闘機には甚だ危険ですが、加藤氏はあえて進言します。作戦への責任感からでした。


任務の困難さは加藤氏も十分承知しており、自分を含め特に技量の高い者を選んで、掩護に当たりました。そして船団上空でイギリスの偵察機を撃墜する戦果を上げます。


しかし7日夕刻から猛烈なスコールとなり、3人の部下が未帰還となりました。加藤氏は深夜1時まで、嵐の飛行場に立ち尽くし、3人の帰還を待ち続けます。


この日を皮切りに、64戦隊はマレー半島に上陸した部隊の障害となる敵飛行場を次々に攻撃、敵戦闘機を撃墜していきます。補給部隊が追いつかないほどのその鮮やかな進撃ぶりから、「加藤隼戦闘隊」の名は陸軍最強の航空隊の代名詞となりました。


中でも加藤氏の存在感は圧倒的で、他部隊から異動してきた「空の宮本武蔵」の異名をとる黒江保彦大尉は、次のように語っています。


「雲の上を征く加藤隊長機には、恐るべき闘志と迫力が感じられて仕方なかった。(中略)殺気じみているようなすごい気迫のほとばしるのが見え、胸がたぎり立つ感じがした。『勇将のもとに弱卒なし』。この隊長のもと、なるほど部下はふるい立つ以外にない」


加藤氏は部下たちに、「何機撃墜したかと聞かれたら、部隊の撃墜数を述べよ」と個人の功名争いを禁じ、チームワークを重んじます。


また敵機との戦いに夢中になって任務を疎かにする者には、雷を落としました。しかし部下を叱った後は、さりげなく果物などを振る舞って、奮起を促したといいます。


そして、運命の昭和17年5月22日。ベンガル湾に面したアキャブ基地から部隊が東方のトングー基地に移動を始めていた時、加藤氏は前日にジャングルに不時着降下した部下の安否を知るため、最後まで残っていました。


そこへ突如、敵爆撃機が来襲しました。「まわせ!」加藤氏は迷わず愛機を駆って迎撃に向かいます。部下も次々と離陸して銃撃を加えますが、敵の後方旋回機銃による被弾続出で待避が相次ぎます。


不休の連戦に次ぐ連戦で疲労困憊していたであろうこの時の加藤部隊は、必勝法の組織だった編隊飛行は叶わず、精彩の欠く戦いとなってしまいました。部下の被弾と待避を目にした加藤氏は、まなじりを決してインド洋上まで敵を追撃。遂に必殺の一連射で敵を被弾させます。


しかし、背後から攻撃をかけた瞬間、敵の機銃弾で愛機の翼が火を噴きました。陸地は近いものの、そこは敵地。普段から部下に対し「敵地に不時着して捕虜になるようなことがあってはならん。もし、帰還叶わぬ時は機を急反転して自爆せよ」と、厳命していたとも言われております。


その言葉通りに加藤氏は部下たちの見守る中、機を反転させてベンガル湾に突入、壮烈なる自爆を遂げ、海原に散りました。自ら言っていたことを身をもって示したのでした。


享年40。奇しくも加藤2歳の時に日露戦争は奉天会戦で戦死した父親と同い年ぐらいの頃でした(なお、父は敵をとるべく自分の子供達に軍人になれと言葉を残しておりました)


5月30日、加藤氏に個人感状が授与されました。

「ソノ武功一ニ中佐ノ高邁ナル人格ト卓越セル指揮統帥及ビ優秀ナル操縦技能ニ負フモノニシテ、其ノ存在ハ実ニ陸軍航空部隊ノ至宝タリ」


 加藤氏が軍神として陸軍省から発表されたのは2か月後のことで、そのニュースは日本全国に駆け巡りました。新聞は「仰ぐ軍神・加藤建夫少将」「敵軍慴伏(しょうふく おそれひれ伏すこと)の『隼』部隊長」「感状七度び上聞に達す」と一面トップでその死を悼みました。葬儀は9月22日、築地本願寺で行われました。法号は「建勲院釈顕正」。


 昭和19年(1944年)3月9日、映画「加藤隼戦闘隊」が封切られ、挿入歌となった戦隊歌とともに大ヒットしました。


 エンジンの音 ゴオーゴオーと 

 隼は征く 雲の果て

 翼に輝く 日の丸と

 胸にえがきし 赤鷲の

 印はわれらが戦闘機 


加藤氏が最期まで身を以て示した不屈の闘志は、薫陶を受けた部下たちが受け継ぎ、彼らは加藤を自分の目標として、「加藤隼戦闘隊」は終戦まで戦い抜いたのでした。


余談ながら元・乃木坂46の橋本奈々未氏も北海道は旭川出身です。そしてその橋本氏を実の姉のごとく慕い、「俺の嫁!」と、公言してはばからなかったのが、歴代の楽曲センターも勤めるエース・齊藤飛鳥氏という方です。


齊藤氏のお母さんはミャンマー出身であります。加藤少将はじめ、隼戦闘隊が連合国軍の毒牙から命懸けで守りたかったものが、ミャンマーの空と大地。それから70数年余りの後、加藤少将と同郷の橋本氏とミャンマー人の母を持つ齊藤氏の乃木坂46に於ける出会い、築かれた硬い結束。


何やら縁浅からぬものを感じます。


※以下は橋本氏(右側)と齊藤氏の写真。群れずに独りを愛し(嫌われてる訳ではない)、ロックを愛し、シニカルで周囲を俯瞰した視点を持つ2人の存在はアイドルとしては異色であります(笑)









Posted at 2021/05/22 23:49:38 | コメント(0) | トラックバック(0)
2021年05月22日 イイね!

追悼・丸山夏鈴氏

追悼・丸山夏鈴氏



昨年の同じ頃にあげたブログの再載となりますが、5/22は特別な日である為、ご容赦下さい。


5/22は自分にとって尊敬する二人の人物の命日であります。


共通するのは「どんなに辛く、困難な時でもがんばること」


今回紹介するのは、福島県郡山市出身の
「丸山夏鈴」というアイドルさん。ちなみに福島県は私の生まれ故郷でもある為、同郷の偉人という感じでもあります。


では、どんな困難を抱えていたのか?


彼女は小学校2年で小児性脳腫瘍を発病して入院しました。失意の中、当時全盛を誇ったモーニング娘をテレビで見て、励まされ、自らもアイドルとなって皆を元気にする存在になると決意されたそうです。中学で再発するも手術により乗りきりました。


高校時代には生徒会長も勤め、東日本大震災時には「このような時こそ、笑顔で行こう」と周囲を励まし続けました。卒業式においてはまたも再発した脳腫瘍の影響で前後不覚となりつつも、自らペンを取り答辞を執筆。


「成功の反対は失敗ではなく、挑戦しないことである。」との言葉を残しました。


この時入院中にアイドルオーディションを受けて、スカウトがかかり、デビューを果たしました。同時に大学へも進学し、福島と関東を往復する生活となりました。


主に撮影会やライブなどで活動を行い一時期はAKB48オーディションの最終選考に残ることもありました。


2014年二十歳の成人式を迎えますが、その間にも脳腫瘍が再発することもありました。しかし、入退院を繰り返しながらも活動を継続。ただ、この年に脳腫瘍の細胞が肺に転移して肺がんを発症。もはや手術や完治は困難との告知を受けました。


この肺がんが厄介で、その影響で心肺機能が低下し、歌うのも困難な状態となります。更に定期的に肺に貯まった水を抜きながら、酸素吸入器をつけながらの生活ともなりました。


徐々に体力、体重共に減少して行きますが、活動をバックアップしていた母の助けも得つつ、レコーディングを行い、夢としたCDデビューを果たしました。地元郡山から仙台、東京とリリースイベントをこなした後に、容態回復の為に2015年4月に入院しました。


しかしながら、「アイドルとして再び皆の前に戻る」という約束を胸に、動画配信やブログ、ツイッター等を通じてファンへの呼び掛けを欠かさずに行いました。その数はじつに48本。そして5月22日、朝イチでツイッターを配信するも、容態が急変。前日に残した別れの挨拶ともなった動画を残し、21年の生涯を閉じました。


生前彼女は「自分の葬儀は盛大にやってほしい。皆に会いたいから。でも自分が見れないのは残念!」という言葉を遺しておりました。あくまでも皆の前に戻るという約束を果たす為に。その意志により葬儀はファン参加型のラストライブという形を取り、盛大に挙行されました。


生涯7回に渡る手術を受け、迫り来る死の恐怖に対して自らの道を曲げなかった不屈の闘争心。病床にあってもアイドルとして振る舞い、自らの命を的にして行われたラストライブ。葬儀という形であっても皆の前に戻り、約束を果たしたプロ魂。


いかなる困難があろうとも死ぬ迄自分の選んだ道を貫き通す。なかなか常人に出来ることではありません。若くして彼女はなぜこのような境地に成れたのか?


彼女はインタビューの時に「病気のことはあまり聞いてくれるな。場の空気が重くなるだろう?そしたら皆つまらんだろう」とも述べておりました。周囲への気づかいを忘れずに、皆を元気にするアイドルでいたい!という初志貫徹の精神がなせるものであったとも言えそうです。


愛犬チェリー君と共に笑顔の夏鈴氏






母と共に通院する夏鈴氏。チェリー君と座席の争奪戦(笑)







2015年3月、渋谷のタワーレコードに於けるイベントにて力強く握手をする夏鈴氏。東京に爪痕を刻みました。



2015年5月、近所の公園にて母に連れられて散歩中の夏鈴氏。膝の上のチェリー君のあくび(笑)





此の2週間後に夏鈴氏は旅立たれましたが、最後までアイドルとしての生き様を貫き通した生涯は当時大々的に報じられ、見る者をして深い感銘を与えました。お母様も又「民放制覇、見事天晴れ。自らの道を貫かんが為、死して尚アイドルとしての名をあげんとするは将に武門の誉れ也。」とSNS上で悲しみの中にも其の感動を露になされたのでありました。

Posted at 2021/05/22 23:41:46 | コメント(0) | トラックバック(0)
2021年05月15日 イイね!

軍国主義は悪いものか?ー戦争資料館で感じた疑問ー

軍国主義は悪いものか?ー戦争資料館で感じた疑問ー先日、御師匠様の元へ出向いて剣術稽古を行い、県内の戦争資料館へ出向きました。


様々な苦難をなされた先人の方々には改めて敬意を表すると共に、旧敵国、特に米国に対しては改めて本土空襲・原爆投下等の悪逆無道の仕打ちに反米感情が益々強くなりました。


そもそも何故未だに国軍を持てない占領植民地憲法を後生大事にしてるのか?


そして、何故外国軍隊である米軍が未だに存在して居るのか?


在日米軍の存在を疑問に思う方々は戦後の日本では殆ど居ないでしょう(沖縄等、基地問題を抱える方々を除き)。

著者の知る限りでは友人知人にも居らず、他には残念ながら共産党ぐらいなものです。


憲法改正、国軍保持、単独核武装。此さえ早期に実現すれば戦後の諸問題は全て解決されます。

時に横暴な在日米軍を追い出し、共産支那、南北朝鮮、ロシアへ睨みをきかせる。


竹島、北方領土、尖閣諸島を侵犯しようものならば直に撃退する。


其をやる覚悟が無いから未だに諸外国へペコペコし、米軍へ思いやり予算を提供する。


だから日本は独立国ではないのです。敗戦後の占領政策でサムライから動物以下の奴隷・家畜に成り下がったのが未だに尾を引いて居るのです。


今は世界侵略の野望を逞しくする共産支那を地球上から殲滅せねばならない時ですから、欧米列強との連合は必要不可欠ではあります。


しかしながら支那を解放する過程、又はした暁にはいずれはしっかりとした関係を築きなおさねばならぬと思います。


参考資料として以下にねずさんと云う方の書かれた、大変感動的なブログが御座いましたので引用致します。


※以下引用文


「軍国主義は悪いものだ」と、これは現代日本においてはほとんど常識になっている概念です。
では、本当に軍国主義が悪いものだったのか。
すこし考えたら誰にでもわかることですが、日本は明治以降、富国強兵の軍国主義だったから、欧米列強の植民地にされず、独立を貫くことができています。

ですから、もし日本が植民地になっていたら、結果はどうなっていたのかと考えると良いのです。
アメリカインディアンを見たら考えたら答えはあきらかです。
北米のインデアンは、かつては北米大陸に800万人いました。
いまは36万人です。
人口の95%が失わています。
しかも、いまいる36万人の中で、モンゴロイドの純血種は、ほぼ皆無、全員白人との混血です。
なぜそうなったのか。
理由は強姦です。

チベットもそうです。
チベットは、人口600万人の敬虔な仏教国でした。
そこを昭和24(1949)年、建国したての中華人民共和国の人民解放軍が侵略しました。
そして150万人が虐殺されました。
これは人口の4人にひとりが殺されたことを意味します。
通州事件の拡大版が、チベットに起きたのです。
そして現在チベットに住むチベット人の純血種は多めに見て約200万人と言われています。
結局、人口のおよそ3分の2が、わずか67年で失われたのです。
その間には、新たに生まれた命があります。
そう考えると、支那人民解放軍の殺戮は、人口の8割を虐殺したという計算になります。

もし日本が、明治以降に軍国主義をとらずにいたら。
幕末の頃の日本の人口は、全国約3000万人です。
そのうちの8割の命が失われたなら、いまの日本人の人口は600万人です。
実際には、現在の日本の人口は1億2600万人ですから、いまいる人口の5%弱にしか、日本人に命が与えられていなかったことになります。
しかも、その600万人の多くは、混血です。
それだけではありません。
蹂躙され、殺されていく人々は、通州事件の再来のようなカタチで殺されて行くのです。

多民族によって蹂躙されるというのは、そういうことです。
 

先般のリオ五輪に参加した国は205ヶ国にのぼります。
昭和39年の東京オリンピックに参加できた国は93ヶ国です。
オリンピックがはじめて開催されたのは、明治29(1896)年のアテネですが、このときの参加国は、14カ国です。
昭和11(1936)年のベルリン大会では、49ヶ国です。
世界には、それしか「国」がなかったのです。

たとえばこの当時の東亜をみれば、ベトナム、ラオス、カンボジアあたり一体は、フランス領インドシナでした。
いまのインドネシアのあたりは、オランダ領東インドです。
インドやビルマは、英国領であり、
フィリピンは、米国領でした。

つまりそこは、それぞれの列強諸国のコロニー(植民地)だったのです。
ですから当然、独立国でもなく、オリンピック参加資格もありません。
現地の人々は、スポーツ競技を楽しむどころか、教育も文化もスポーツも、すべて否定されていたのです。

この200年間の間に、そのうちの60あまりの国家が消滅しました。
10数カ国は自発的に他国と合併しています。
残る51カ国は近隣諸国からの軍事侵略によって消滅しています。

「もし日本が植民地になっていたら、結果はどうなっていたのか」と書きました。
このようなことを書くと必ず、
「歴史にIFは禁物じゃないの?」
言われます。

残念なことにそれを言う人は、かつてのオウムの信者と同じように、自分が戦後の日本人へのマインドコントロールで洗脳されていることに気付いていません。
これまたすこし考えたら、誰にでもわかることです。

「歴史」は、過去の事実です。
その「過去の事実」を正しく調べるという意味においては、IFは禁物です。
あたりまえです。
はじめから先入観をもって見てしまっては、認識に歪みが生じるからです。

ところが歴史には「学ぶ」という側面があります。
現在を生き、未来を拓くために、過去の歴史をひもとき、学ぶのです。
そしてこの場合は、その歴史の当事者の立場に我が身を置いて、
「自分ならどうする」
「もし違う選択をしていたならどうなった」
「現代に置き換えてみるとどうなるのか」
と考える習慣が必要です。

「信長が比叡山延暦寺を攻撃した」
ここまでが事実です。
その事実が、あったかなかったか、どのような規模で、どのように行われたのかを調べることが、「歴史を調べる」という視点です。
この場合は、憶測や「IF」は禁物です。

しかし、
「なぜ信長は比叡山を焼き討ちしたのか」
「もし、焼き討ちしなかったなら、その後の歴史はどのように変わっていったのか」
を考えることこそ、「歴史を学ぶ」うえにおいてとても大切なことです。
そもそも「歴史を調べる」こと自体、そのためにこそあることです。

同様に、東亜の諸国は欧米が植民地支配しました。
では、もし欧米諸国が、その辺り一体を支配しなかったらどうなっていたのか。
そこを考えるのが「歴史を学ぶ」ということです。
そのために「歴史を調べる」という行為が必要になるのです。

これを履き違え、「歴史を学ぶ」ことと、「歴史を調べる」ことを、単に「歴史」という言葉で一般化し、「歴史を調べる」ときにだけしか適用すべきでない「IFは禁物」という言葉を、「歴史を学ぶ」ことにまで延長し拡大解釈したインチキが、実は「歴史にIFは禁物だ」という言葉です。

昨今では、これにさらに輪をかけて、過去の事実について、それが良かったのか悪かったのかと、評価することが、まるで正しいことのように常識化しています。
ところがその発想は、世の中を有産階級と無産階級に分ける、世の中をブルジョアジーとプロレタリアートに分ける、世の中を富者と貧者に分ける、支配階級と被支配階級に分ける等々、世の中にあるものに、何かと理由をつけては、それを二つに建て分け、両者の対立をあおり、片側がもう一方の側を殺しまくってあらゆるものを奪い去るという共産主義の発想です。

共産主義の詐欺性や欺瞞性は、とっくの昔に証明されていることであるにもかかわらず、そのような二律相反による共産主義的対立思考が、いまだに日本人の中に根付き、なかば常識化しているということは、これは世界からみたら、「恐竜がいまだに生きている」というのと同じくらい、異常な思考です。
というか恐竜が今も生きているという論の方が、よっぽど正常な脳にさえ思えます。
それくらい、おかしなことだということです。

現実問題として、信長が比叡山延暦寺を攻撃したことは良かったのか悪かったのか、そんなものを評価して、いったい何の役に立つのでしょうか。
信長にしてみれば、迷惑な話です。
そもそも歴史は、良い悪いではなく、それは現に事実として「あった出来事」です。
過去は取り返えせるものではありません。
いまさら、良い悪いの議論など、してもはじまらないのです。

そのことよりも、むしろ、「あった」という事実を前提として、なぜ信長はそのような選択をしたのか、そして、「もし」信長が、比叡山の焼き討ちをしなかったら、その後の日本はどのようになっていたのかを、当時の歴史の当事者の身になって追求し、考えてみたら、そこから様々な学びを得ることができます。
そしてその学びは、現代を生き抜く知恵となり、また未来を築く石杖となります。

同じことは、広島長崎への原爆投下にもいえます。
原爆投下は良かったのか、悪かったのか。
戦争を終わらせるためには良かったという論者もいるようですが、現実に多くの人の命が奪われているのです。
そのことを良かったなどと言える人は、この世にはおりますまい。
むしろ、そのような議論は、ただ対立を深めるだけで、何の益ももたたらしません。

それよりも、原爆が投下されたという事実を前提として、では原爆投下は、どうしたら防ぐことができたのか。
あるいは、原爆投下という選択がなぜ行われたのか。
そのことを追求することで、二度と原爆を落とされないように国を守るにはどうすべきなのかを考え、議論することのほうが、よほど現実的です。
良い悪いで思考停止していたら、まるで議論が先にすすみません。

通州事件に例えても良いです。
通州事件が良かったのか悪かったのか。
そのようなことを議論しても、何の益にもなりません。
そうではなく、通州事件の被害を二度と私たちが被らないようにするためには、何が必要なのか。
どうすれば、第二の通州事件を防ぐことができるのか。
そのことをこそ、通州事件で実際に殺されてしまった方々が、後世の日本人に願うことなのではないでしょうか。

冒頭に「軍国主義は悪いものだ」という論考自体が間違っていると書きました。
これは二重の意味で間違っているのです。
ひとつは、明治以降の軍国主義によって、いまの私たちの命が存在しているという事実。
もうひとつは、軍国主義を含めて、歴史を良い悪いで考えること自体の誤り、です。

日本が軍国主義でいてくれたから、いま、私たちはこの世に生を受けることができたのです。
今日は細かなことは書きませんでしたが、日本が軍国主義だったから世界の有色人種が開放され、人種の平等の世界が誕生したのです。
そして、日本が軍国主義だったからこそ、戦後70年の長きに及ぶ平和と繁栄を、戦後の私たちは享受することができたのです。

「日本は軍国主義に戻れ」と言っているのではありません。
そうした学びを得て、これからの未来の日本を、どのように築いていくべきなのかを考えることが大事だということを申し上げています。
右も左もないのです。
みんな同じ日本人です。
その同じ日本人同士が、我が妻を、我が子を、我が孫を、決して不条理に蹂躙されることがないように、しっかりとした国つくりをしていく。
それこそが、「学ぶ」ということの最大の意義であるのだと思います。


※以上引用終わり


此の文章を反日売国に勤しむサヨク政治屋、サヨクマスコミの連中にしっかり読んでおいて頂きたいとも思います💪
Posted at 2021/05/15 01:24:38 | コメント(0) | トラックバック(0)
2021年05月12日 イイね!

新軍犬補充

新軍犬補充去る3/4に愛犬パールが病に敢然と立ち向かい、壮烈に散ってより早2ヶ月余り…。





座して死を待つよりも困難な手術に臨んだ姿には、未だ我家族一同に深い感動と共に悲しみも伴わせて居ります。


只、此儘悲嘆に暮れた儘では草場の陰でパールも浮かばれないのも又事実。


其処で兼ねてより計画されて居た新軍犬補充が実行に移されたのであります。


県内のとあるブリーダーの下に向かい、我が両親が徴兵検査。


当初こんなに沢山!?と驚愕しましたが(笑)



見事合格したのは此方のシーズーであります。





パールの幼少期の写真をもとに似通った一匹を選抜したとの由。





なかなかの美犬であります。











此方はウチの長女であるラジュリですが(笑)



パールの没後の生まれ変わりと云うことで、去る3/25生まれ。伝統的に誕生石より命名するという観点から、導きだされたのはアクアマリン。


此のマリンをおフランス語読みにするとエグマリヌ。


更に高貴な形にして、マリーヌは如何?と提案してみました。





※おフランスといえば此方の御方(笑)






他にもマリナ、マリーナ等々様々な案もありましたが、父、母、続いて姉の賛同もあり、最終的には此が見事に採用!


私が名付け親の一角を担った形となったのであります\(^-^)/


ちなみに此の時念頭にあったのは、元乃木坂46の白石麻衣氏がかつて冠番組内で扮したおフランス人形、「マイーヌと響きが似て居るから」と云うものであったのはここだけの話です(笑)



















マリーヌが来るのは来月頭。今から待ち遠しいものであります😁

※旧帝国陸海軍の軍犬の勇姿。














Posted at 2021/05/12 15:13:37 | コメント(1) | トラックバック(0)

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「[ハイタッチ!drive] ハイタッチ!drive
2024年04月27日 22:42 - 04/28 08:44、
22.87 Km 1 時間 21 分、
1ハイタッチ、コレクション1個を獲得、バッジ4個を獲得、テリトリーポイント10pt.を獲得」
何シテル?   04/28 08:44
NAのパカ目ライトに惚れ込んでおりマス♪ 免許をとって最初に乗ったのが、当時父の 所有する赤のNAでした。 今ではありませんが、 就職を機に私が...
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アンチ最右翼から神推しに変わる奇跡3 
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2024/02/28 00:43:14
SHIBATIRE / シバタイヤ R23 205/50R15 200 
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2024/01/31 18:50:33
近況報告(ベンたつさんありがとう) 
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2024/01/04 21:06:09

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愛車は幻のつるつるデフ!2185番台の元年式です(トラクション向上の為に2016年にNA ...
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2017年4月20日無事に納車しました。現代によみがえったクラシックレッド、ND NR- ...
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