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奈良軍団関東全域統括部長・スタールビーのブログ一覧

2018年05月28日 イイね!

海軍記念日&軽井沢ミーティング2018

海軍記念日&軽井沢ミーティング2018去る5/27は海軍記念日と軽井沢ミーティング2018の日でした。


ちなみに海軍記念日とは1905年の日露戦争における最終局面、日本海海戦において大国ロシアのバルチック艦隊を我帝国海軍が圧倒的勝利の内に撃滅。後の講和に多大な貢献をしたことを祝した戦前の祝日のことです。


軽井沢ミーティングとは今さら説明はいらない程ですが、年に一回軽井沢の地に全国から約千台のロードスターが集う大祭です。主に実行委員会の他、臨時召集令状を受けた会場誘導ボランティア有志の手により運営されます。


前日の内に我愛車ND弐号機の洗車を済ませ、朝0430頃起床。装具を身に付けて準備万端。呼集命令時刻の期限0700に間に合わせるべく、一路関越道へ。もちろんロードスターなので屋根を開けて出陣しました。


日本海海戦と言えば、聯合艦隊旗艦三笠のマストに掲げられた決戦旗のZ旗!昨年の中部ミーティングに於ける我等が奈良軍団のテーマ「アロハ」から連想したキーワード「アロハ→ハワイ→真珠湾→真珠湾攻撃時の帝国海軍第一機動部隊旗艦空母・赤城に掲揚されていた旗」という点から入手したZ旗。うっかりミーティング中に掲げるのを忘れるという失態をおかしてしまいましたが、ちゃんと持って来てはおりましたよ!


このZ旗の意味合い通り、0700に緊張した面持ちで会場に集結した面々に打ち合わせ後、実行委員会代表より「軽井沢(興国)ノ荒廃、此ノ一戦二在リ。各員一層奮励努力セヨ」との訓話がありました。


26周年を迎えた軽井沢ミーティング。先人から連面と続くその輝かしい伝統の歴史を後の世にも受け継ぐ為にはまずは安全第一。参加者の皆さま方につつがなく楽しい思い出を作って頂く為にも挺身抜刀斬り込み的な努力が必要な訳であります。軍刀ならぬ誘導灯(通称・人参棒)を握る手には自然と力も入り汗も握ります。


銀シャリのおむすびにお茶という野戦食を平らげ、ぼちぼち会場周辺道路にはロードスターの走る姿が見受けられるようになりました。


そしてついに0740頃、日本海海戦直前、連合艦隊が大本営に送った有名な打電文風に実行委員会本部へ入電あり!「ロードスター(敵艦隊)見ユトノ警報ニ接シ、スタッフ一同(聯合艦隊)ハ直チニ出動、コレヲ誘導(撃滅)セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ(括弧内は原文ママ)」


「総員戦闘配置二付ケ!」の令一下、第一駐車場出入り口付近及び場内受付&誘導係、第二駐車場方面担当部隊と蜘蛛の子を散らす様に各員は散兵線を拡大していったのでありました。

続く
Posted at 2018/05/28 23:59:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2018年05月23日 イイね!

TKくらぶ走行会報告3

一ヶ月たってしまいましたが、TKくらぶ主催ロードスター走行会報告の続きです。

レース中の車内の熱気と酷暑の天候により、体力勝負ともなった本走行会。そして周りの早いクルマに道を譲って全体の流れを損なわないように張り巡らせた神経戦。


幸いにしてバラエティー豊かな出店の中に美味しいお茶やら甘いデザート、ケバブ等の肉類、更にはマッサージ屋さんも来ていた為、激しい消耗戦の後の休憩時間で体力の充電が出来ました。


昼休みにおいては熾烈なるレースとは趣を異にして、見学者も交えたパレードランと、見学者の方もサーキットを体験できるのんびり貫徹走行(ちゃっかり私も混ざってました)、そして集合写真と楽しい催しもありました。


そんなこんなで時間も終盤に差し掛かり、帰りの会では数々の景品を引き当てる恒例のじゃんけん大会がありました。


しかし、残念ながらそれには参加かなわず、1日お世話になった方々にご挨拶して早退しました。


なぜならばこの日4/22は私の応援するアイドルグループ、乃木坂46の顔とも言える生駒里奈氏の卒業コンサートの日だったからです。


日本武道館での12000人の枠は殺到した恐るべき高倍率により逃してしまったので、日本全国の映画館で6万人と共にお見送りするライブビューイングというものにて参戦しました。


途中渋滞に巻き込まれ、ライブ開始の18時からは40分程遅れたのは残念でしたが何とか大勢のファンと共に見送れました。


ロードスター走行会に乃木坂ライブと充実した1日でありました。
Posted at 2018/05/23 08:20:05 | コメント(0) | トラックバック(0)
2018年05月22日 イイね!

追悼・加藤建夫少将

追悼・加藤建夫少将尊敬する人物、二人目は有名な戦闘機乗りの方です。こちらも再載ながらご一読頂けますと幸いです。


昭和17年(1942)5月22日、加藤建夫(たてお)中佐が戦死しました。「加藤隼戦闘隊」こと、傑作機・一式戦闘機「隼」を愛機とする、陸軍最強の飛行第64戦隊長として知られます。「率先垂範の指揮官」加藤建夫についてご紹介してみます。


「一、いかなる困難にあたっても平常心を失わないこと、
二、何事も任務遂行を第一とすること、
三、個人の功名手柄に走って、団結を乱さないこと」


これは昭和16年(1941)12月8日の大東亜戦争開戦直前、加藤が飛行第64戦隊の部下たちに示した3つの訓戒です。部下たちは教えを守り、開戦後、マレー、パレンバン、ジャワ(インドネシア)、ビルマ(ミャンマー)の空で連合軍機と死闘を演じて、赫々たる戦果を上げました。


そして、空戦の先頭には常に、翼と胴に白い襷〈たすき〉を描いた加藤戦隊長の愛機の姿があったのです。


明治36年(1903)、北海道旭川に生まれ、陸軍士官への道を歩んだ加藤は自ら希望して航空兵となり、昭和12年(1937)の支那事変で飛行第二大隊の中隊長として初陣を飾りました。帰徳航空戦では敵9機を撃墜して、一躍陸軍航空隊のエースとなります。



その後、陸軍大学と航空本部勤務を経て、加藤が飛行第64戦隊の戦隊長として広東に赴任するのは、昭和16年4月、加藤39歳の時でした。


「新たな戦隊長は歴戦のエース」と聞いた部下たちは、さぞかし鬼のような豪傑かと緊張しますが、現われた加藤が温和で親しみやすい人柄だったため、たちまち打ち解けます。飛行第64戦隊は新型戦闘機「隼」を用い、猛訓練を重ねました。


ちなみに64戦隊の隼は尾翼に矢印を描き、それが部隊のトレードマークとなります。


そして12月8日の開戦。加藤たちに与えられた任務は、開戦劈頭、マレー半島に上陸する輸送船団の上空護衛を前日から行なうことでした。


しかし7日当日、天候は荒れ模様。航空機には危険極まりない状況ですが、加藤は自ら先頭に立ち、愛機に乗り込みます。「率先垂範、指揮官先頭」こそ、加藤が生涯貫いた指揮官としての姿勢でした。
加藤らの上空掩護は日没2時間前までとされますが、加藤は珍しく上層部に抗議します。「船団は日没前が最も敵の攻撃を受けやすい。ぜひ日没まで掩護をさせてください」。


もちろん日没まで掩護すれば帰路は暗夜となり、戦闘機には甚だ危険ですが、加藤はあえて進言します。作戦への責任感からでした。


任務の困難さは加藤も十分承知しており、自分を含め特に技量の高い者を選んで、掩護に当たりました。そして船団上空でイギリスの偵察機を撃墜する戦果を上げます。


しかし7日夕刻から猛烈なスコールとなり、3人の部下が未帰還となりました。加藤は深夜1時まで、嵐の飛行場に立ち尽くし、3人の帰還を待ち続けます。


この日を皮切りに、64戦隊はマレー半島に上陸した部隊の障害となる敵飛行場を次々に攻撃、敵戦闘機を撃墜していきます。補給部隊が追いつかないほどのその鮮やかな進撃ぶりから、「加藤隼戦闘隊」の名は陸軍最強の航空隊の代名詞となりました。


中でも加藤の存在感は圧倒的で、他部隊から異動してきた「空の宮本武蔵」の異名をとる黒江保彦大尉は、次のように語っています。


「雲の上を征く加藤隊長機には、恐るべき闘志と迫力が感じられて仕方なかった。(中略)殺気じみているようなすごい気迫のほとばしるのが見え、胸がたぎり立つ感じがした。『勇将のもとに弱卒なし』。この隊長のもと、なるほど部下はふるい立つ以外にない」


加藤は部下たちに、「何機撃墜したかと聞かれたら、部隊の撃墜数を述べよ」と個人の功名争いを禁じ、チームワークを重んじます。


また敵機との戦いに夢中になって任務を疎かにする者には、雷を落としました。しかし部下を叱った後は、さりげなく果物などを振る舞って、奮起を促したといいます。


そして、運命の昭和17年5月22日。ベンガル湾に面したアキャブ基地から部隊が東方のトングー基地に移動を始めていた時、加藤は前日にジャングルに不時着降下した部下の安否を知るため、最後まで残っていました。


そこへ突如、敵爆撃機が来襲しました。「まわせ!」加藤は迷わず愛機を駆って迎撃に向かいます。部下も次々と離陸して銃撃を加えますが、敵の後方旋回機銃による被弾続出で待避が相次ぎます。


不休の連戦に次ぐ連戦で疲労困憊していたであろうこの時の加藤部隊は、必勝法の組織だった編隊飛行は叶わず、精彩の欠く戦いとなってしまいました。部下の被弾と待避を目にした加藤は、まなじりを決してインド洋上まで敵を追撃。遂に必殺の一連射で敵を被弾させます。


しかし、背後から攻撃をかけた瞬間、敵の機銃弾で愛機の翼が火を噴きました。陸地は近いものの、そこは敵地。普段から部下に対し「敵地に不時着して捕虜になるようなことがあってはならん。もし、帰還叶わぬ時は機を急反転して自爆せよ」と、厳命していたとも言われております。


その言葉通りに加藤は部下たちの見守る中、機を反転させてベンガル湾に突入、壮烈なる自爆を遂げ、海原に散りました。自ら言っていたことを身をもって示したのでした。

享年40。奇しくも加藤2歳の時に日露戦争は奉天会戦で戦死した父親と同い年ぐらいの頃でした(なお、父は敵をとるべく自分の子供達に軍人になれと言葉を残しておりました)


5月30日、加藤に個人感状が授与されました。

「ソノ武功一ニ中佐ノ高邁ナル人格ト卓越セル指揮統帥及ビ優秀ナル操縦技能ニ負フモノニシテ、其ノ存在ハ実ニ陸軍航空部隊ノ至宝タリ」

 加藤が軍神として陸軍省から発表されたのは2か月後のことで、そのニュースは日本全国に駆け巡りました。新聞は「仰ぐ軍神・加藤建夫少将」「敵軍慴伏(しょうふく おそれひれ伏すこと)の『隼』部隊長」「感状七度び上聞に達す」と一面トップでその死を悼みました。葬儀は9月22日、築地本願寺で行われました。法号は「建勲院釈顕正」。


 昭和19年(1944年)3月9日、映画「加藤隼戦闘隊」が封切られ、挿入歌となった戦隊歌とともに大ヒットしました。


 エンジンの音 ゴオーゴオーと 

 隼は征く 雲の果て

 翼に輝く 日の丸と

 胸にえがきし 赤鷲の

 印はわれらが戦闘機 


加藤が最期まで身を以て示した不屈の闘志は、薫陶を受けた部下たちが受け継ぎ、彼らは加藤を自分の目標として、「加藤隼戦闘隊」は終戦まで戦い抜いたのでした。
Posted at 2018/05/22 12:08:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2018年05月22日 イイね!

追悼・丸山夏鈴氏

追悼・丸山夏鈴氏昨年の同じ頃にあげたブログの再載となりますが、5/22は特別な日である為、ご容赦下さい。


5/22は自分にとって尊敬する二人の人物の命日であります。


共通するのは「どんなに辛く、困難な時でもがんばること」


今回紹介するのは、福島県郡山市出身の
「丸山夏鈴」というアイドルさん。ちなみに福島県は私の生まれ故郷でもある為、同郷の偉人という感じでもあります。


では、どんな困難を抱えていたのか?


彼女は小学校2年で小児性脳腫瘍を発病して入院しました。失意の中、当時全盛を誇ったモーニング娘をテレビで見て、励まされ、自らもアイドルとなって皆を元気にする存在になると決意されたそうです。中学で再発するも手術により乗りきりました。


高校時代には生徒会長も勤め、東日本大震災時には「このような時こそ、笑顔で行こう」と周囲を励まし続けました。卒業式においてはまたも再発した脳腫瘍の影響で前後不覚となりつつも、自らペンを取り答辞を執筆。


「成功の反対は失敗ではなく、挑戦しないことである。」との言葉を残しました。


この時入院中にアイドルオーディションを受けて、スカウトがかかり、デビューを果たしました。同時に大学へも進学し、福島と関東を往復する生活となりました。


主に撮影会やライブなどで活動を行い一時期はAKB48オーディションの最終選考に残ることもありました。


2014年二十歳の成人式を迎えますが、その間にも脳腫瘍が再発することもありました。しかし、入退院を繰り返しながらも活動を継続。ただ、この年に脳腫瘍の細胞が肺に転移して肺がんを発症。もはや手術や完治は困難との告知を受けました。


この肺がんが厄介で、その影響で心肺機能が低下し、歌うのも困難な状態となります。更に定期的に肺に貯まった水を抜きながら、酸素吸入器をつけながらの生活ともなりました。


徐々に体力、体重共に減少して行きますが、活動をバックアップしていた母の助けも得つつ、レコーディングを行い、夢としたCDデビューを果たしました。地元郡山から仙台、東京とリリースイベントをこなした後に、容態回復の為に2015年4月に入院しました。


しかしながら、「アイドルとして再び皆の前に戻る」という約束を胸に、動画配信やブログ、ツイッター等を通じてファンへの呼び掛けを欠かさずに行いました。その数はじつに48本。そして5月22日、朝イチでツイッターを配信するも、容態が急変。前日に残した別れの挨拶ともなった動画を残し、21年の生涯を閉じました。


生前彼女は「自分の葬儀は盛大にやってほしい。皆に会いたいから。でも自分が見れないのは残念!」という言葉を遺しておりました。あくまでも皆の前に戻るという約束を果たす為に。その意志により葬儀はファン参加型のラストライブという形を取り、盛大に挙行されました。


生涯7回に渡る手術を受け、迫り来る死の恐怖に対して自らの道を曲げなかった不屈の闘争心。病床にあってもアイドルとして振る舞い、自らの命を的にして行われたラストライブ。葬儀という形であっても皆の前に戻り、約束を果たしたプロ魂。


いかなる困難があろうとも死ぬ迄自分の選んだ道を貫き通す。なかなか常人に出来ることではありません。若くして彼女はなぜこのような境地に成れたのか?


彼女はインタビューの時に「病気のことはあまり聞いてくれるな。場の空気が重くなるだろう?そしたら皆つまらんだろう」とも述べておりました。周囲への気づかいを忘れずに、皆を元気にするアイドルでいたい!という初志貫徹の精神がなせるものであったとも言えそうです。
Posted at 2018/05/22 12:04:10 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2018年05月17日 イイね!

TKくらぶ走行会報告2

大変後れ馳せながら前回のブログの続きです。

と、その前にもしこのブログを読んでいる方の中で走行会は敷居が高い、周りに迷惑かけそう、僕&私なんかが出て良いのかしら?ウチのロードスター(他のクルマにも当てはまりますが)は場違いだ、等々で二の足を踏んでる方がいらっしゃいましたら、それは非常にもったいないと思います。


そんなこと言ってたらスピンの数は最多、ラップタイムだけなら参加者中で一番ビリの私はつまらなかったということになります(苦笑)そんな私が楽しめた訳ですから問題ありません。


もちろん時間、環境、お金等々、モータースポーツを楽しむには個々人で様々な解決すべき事情はあります。ですから無理強いは出来ません。かく言う私も一年振りの走行会でしたから。


でも、人生は有限です。できない、やらない言い訳なんぞはいくらでも出来ます。来る者拒まず、去る者追わず。誰に強制される訳でもなく、あくまで自分自身の意思と自分自身の愛車で終わり無き道を走る。それが走りの道です。


それを楽しむのか?あこがれだけで終わらせるのか?それはあなた次第です。


かつて走りがつまらなかった時がありました。まだ乗り初めて間もない頃、当時の先輩・同輩から散々ヘタクソとか遅いと言われていた時代です。当時は正直、ロードスターでスポーツ走行すること、ツーリング等でおいてけぼりを食うなど、苦痛・ストレス以外の何物でもありませんでした。


それからはいつかは見返してやろう、早い上手いは無くても破綻の少ない安定性や危機対策能力をあげようと考えました。


サーキット場で他の方々の走りを見たり聞いたり、時には横乗りしたり。自分でも走ってみたり。


あるいは人里離れたこの世とあの世の境目の様な、誰もいないはずなのに常に何者かの視線を感じる某魔界村と呼ばれる奥深いドライブコースに通い詰めたりも。


普通のドライ面から時には豪雨、夜間、霧の三拍子揃い踏み。あるいは真冬の降雪後にフルアイスバーンという環境下、1,5車線も無い道幅、ガードレールも無く道路の向こう側は落ちれば即死の崖っぷちという地にて、黙々と走り込んでみたり。


いつしかNA初号機はあちこち傷だらけとなりましたが、走りをやめたり、ロードスターをおりたりという方々がいる中で、13年目に到るも無事に生き残って動いておる訳であります。


そんなヘタクソな私が今でもタイムうんぬんよりもまずは楽しんで走るを主眼において走れてる訳ですから、二の足を踏んでる方もぜひ、勇気ある一歩を踏んでみて下さい。
Posted at 2018/05/17 08:31:44 | コメント(0) | トラックバック(0)

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