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奈良軍団関東全域統括部長・スタールビーのブログ一覧

2019年06月04日 イイね!

河口湖ドライブ

軽井沢ミーティング終了から一週間はND弐号機を乗り回しておりましたので久しぶりにNA初号機を動かすことにしました。

新しい扇風機は左側へ。




右側は従来通りの扇風機。





よし、せっかくだから6/4(火)の休みはNA初号機で出掛けようか?ND弐号機は長距離戦闘機、NA初号機は短距離・局地戦闘機などと誰が格付けしたか?NA初号機も立派に走りますぞ。


…あ、長距離走るのは楽だから断然NDでしょ?としたのは私でした(笑)


仕事後に夜な夜な倉庫から取り出したGT羽付きトランクに付け替えて気合い十分(笑)




レンタルビデオショップ「GEO」にて、乃木坂46の我が永遠の推しメンである橋本氏が女優デビューを果たされた記念作2013年4月~6月放映の「バッドボーイズ」のDVDを借り、往路の車中で観覧することに。

※右から3番目の短髪美人が橋本氏です。



物語の舞台は初代NAロードスターが研究開発されたMAZDA本社もある、更には学園抗争も激しかった1980年代の広島県。主人公達の熱き青春学園ヤンキードラマ。同名の有名な人気漫画が原作で、橋本氏はカフェ店員を演じております。


30周年ミーティング広島特攻作戦を控えたNA初号機で見るには縁浅からぬものを感じる作品です。


橋本氏は当時はまだデビューから2年足らず、初々しい演技が見られます。まだ見てない方はぜひ!

それにしても、やはり芸能界引退は惜しまれます(涙)








他の乃木坂勇士達も出ております。



画像が小さくてわからん!という方の為に。2013年頃の橋本氏。うーむ、美人だ…








圏央道から中央道をひた走り、向かった先は山梨県河口湖。ここは、橋本氏卒業前に最後のセンターを飾った「サヨナラの意味」のロケ地、いわば聖地でもあります。

※以下は他の橋本氏ファンの方の画像を拝借致しました。プロモーションビデオの中で橋本氏が一人で、湖の中で立ち尽くすシーンがあります。橋本氏のあだ名がななみんと呼ばれていることから、通称「ななみん島」と呼ばれ、水位が低いと見れます。






私が行った時は残念ながら水没してました。







富士山をバックにNA初号機も撮影。




サイドからも。




付近をぶらぶらしましたが、なかなか風光明媚な環境でした。














さて、日も暮れてきたのでそろそろ撤収しますかな。





来た時間も遅かったので、次回はまたのんびりと再訪したいものです。富士五湖周辺、もうちょい足を伸ばしたいですな。












さて、帰りも頼むぞ!NA初号機!




帰路、腹が減ったので談合坂🅿️にてワカメそばを食べました。







それにしても当時卒業を控えた橋本氏。そびえる富士を見て何を思ったか?勇士達の見た景色を見ておくのは感無量であります。





Posted at 2019/06/04 19:24:08 | コメント(0) | トラックバック(0)
2019年06月03日 イイね!

NA初号機用車載扇風機購入

表題の件、エアコン故障時代から長年愛用してきた物が、経年劣化に依り首からへし折れた為新たに購入しました。


動力部の過給器の如きファンが内臓されて居り、様々な角度調整が可能です。



小さいボデーに精密なる構造、なかなか佳く出来て居ります。






現代の最新冷房装備付きのND弐号機は夏季に於ては快適抜群です。しかし、如何に全ての部品を新品にしてあるとは云え、トランスミッションと動力部の高熱を直に浴びるNA初号機は、冷房装置の効きも薄れてしまい、いかんせん暑いのであります。


冷風を更に強化して吹き付ける扇風機は、正に「生命維持装置」とも言えましょう。

皆さま方も色々な意味で、ロードスターにおける熱中症にはくれぐれもお気をつけ下さい(笑)
Posted at 2019/06/03 16:37:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2019年06月02日 イイね!

アッツ島血戦勇士顕彰国民歌

アッツ島血戦勇士顕彰国民歌アッツ島守備隊玉砕の悲報から幾日ばかり、6月3日の『朝日新聞』には次のような記事が掲載されました。


「アッツ島に壮烈鬼神を哭かしむる最後の突撃を敢行、玉砕した山崎部隊長以下二千数百勇士の血戦に一億国民の血涙感謝を捧げその青史不朽の武勲と赫々たる皇軍精神を永く後世に伝ふべき、記念国民歌を左記により広く募集する」。これに9683編の応募があり、以下の様な歌詞が制定されました。


1,刃も凍る北海の
御楯と立ちて二千余士
精鋭挙るアッツ島  
山崎大佐指揮をとる
山崎大佐指揮をとる
(以下終行繰り返し)

2,時これ五月十二日
暁こむる霧深く
突如と襲う敵二万
南に邀え北に撃つ

3,陸海空の猛攻に
我が反撃は日を吐けど
巨弾落ちて地を抉り
山容ために改まる

4,邀血戦死斗十八夜
烈々の士気天を衝き
敵六千は屠れども
我また多く喪えり

5,火砲はすべて摧け飛び
僅かに銃剣手榴弾
寄せ来敵と相撃ちて
血潮は花と雪を染むる

6,一兵の援一弾の
補給を乞わず敵情を
電波に託す二千粁
波濤に映る星寒し

7,折柄拝す大御言
生死問わぬ益良雄が
ただ感激の涙呑む
降りしく敵の弾丸の中

8,他に策なきにあらねども
武名はやわか穢すべき
傷病兵は自決して
魂魄ともに戦えり

9,残れる勇士百有余
遥かに皇居伏し拝み
完全鬨と諸共に
敵主力へと玉砕す

10,ああ皇軍の神髄に
久遠の大義生かしたる
忠魂のあとうけ継ぎて
撃ちてし止まん醜の敵


何とも悲壮な叙事詩の如き歌詞であります。私の好きな旧国軍の歌の中では首位に入るものであります。


祖国繁栄の礎となられた全英霊の方々に対し、合掌・最敬礼。
Posted at 2019/06/02 07:26:23 | コメント(0) | トラックバック(0)
2019年06月02日 イイね!

アッツ島守備隊戦記捕捉と所感

アッツ島における激闘、なぜ守備隊は奮闘することができたのか?


そもそもアッツ島の守備隊長に任命された山崎保代(世ではなく代でした。訂正します)大佐は米軍のアッツ島、キスカ島奪還作戦のために他の地域から赴任して来ましたが、これから赴く任務の内容を充分に理解していた様子で、着任前に家族に宛てて遺書をしたためています。


戦争は補給と士気で行うものと言われていますが、空と海をアメリカに抑えられていましたので、既に補給を期待することは出来ない状態にありました。


山崎大佐の入島自体も潜水艦で秘密裏に行われており、遺書を書いての出陣というのも決してオーバーなことではなかったのです。

実は前述のような日本軍の活躍の裏には、援軍部隊の到着まで持ちこたえれば、この戦いに勝利出来るという希望があったのです。


この増援部隊の派遣は、札幌北方軍司令部の樋口季一郎陸軍中将(ひぐち きいちろう)の発案により、大本営からの正式な許可も出ていた決定であり、この増援だけがアッツ防衛隊の光明だったのです。

しかしながら、この望みは虚しく潰えることとなります。

大本営より増援の派遣を中止するとの連絡が入ったのです。


それでもアッツ島の日本兵たちは果敢に戦い続けますが、圧倒的な兵力の差には逆らいきれず、徐々に追い込まれて行きました。


そして遂に、その日がやって来ます。

1943年5月29日、生き残った山崎大尉以下、約300名の兵士たちは、これより突撃するとの最後の打電を残し、まともな武器さえ持たない状態で、敵陣に突撃を試みたのです。


その結果は、当然ながら惨憺たるものとなり、生き残った者は僅か28名。


その生存率1%以下と言う、文字通りの玉砕戦(玉と散る)となったのです。


生き残った28名の内の1人が後の取材に対して、「自決あるいは突撃を強要された」という趣旨の発言をしたと伝えられています。


あなたはこの話を聞いて、どのように思われますか?


日本軍は勝ち目のない戦いに兵士たちを向かわせ、約束した援軍も派遣しなかった。

その揚句に、負けると決まれば、自決か突撃を強要した。


当時の日本は何て酷い国だったのか・・・。

そう思うのが当然かもしれません。

しかしながら、この戦いにも闇に葬られた事実が存在するのです。


まず、大本営が援軍を出さなかったことを、見捨てたというのには疑問が残ります。


当時の日本海軍には物資、人員的に若干の余裕があったことが、見捨てたという疑いの根拠であるようですが、海と空を抑えられている以上、援軍が到着前に大打撃を受けることは必至でしょうから、そこにも苦渋の決断があった可能性があります。


また、援軍を出すと約束した札幌北方軍司令部の樋口陸軍中将は、大本営の援軍中止の知らせに激怒し、アッツ島の救援に行かない代わりに、約6,000名の人員を残すキスカ島への救出作戦を実行することを大本営に約束させたという記録があります。


そして現実に、7月29日にはこの救出作戦は実行に移され、日本は潜水艦3隻を失いながらも、約6000名全員を助け出すという奇跡的な成功を収めているのです。


確かにアッツ島の救援に行かなかった日本軍の行いは酷いことに見えますが、こうした気概を持った者たちが軍部の中にも確実に存在していたことを忘れてはいけません。


これに加えて、アッツ島に取り残された山崎大佐と、救援の断念を伝える樋口陸軍中将の通信もしっかりと記録に残っています。


援軍は送れないと言った樋口中将に対する、山崎大佐の返答は下記のようなものでした。


「戦さする身、生死はもとより問題ではない。守地よりの撤退、将兵の望むところではない。 戦局全般の為、重要拠点たるこの島を、力及ばずして敵手に委ねるにいたるとすれば、罪は万死に値すべし。 今後、戦闘方針を持久より決戦に転換しなし得る限りの損害を敵に与え、九牛の一毛ながら戦争遂行に寄与せんとす。 なお今後の報告は、戦況より敵の戦法及びこれが対策に重点をおく。 もし将来、この種の戦闘の教訓として、いささかでもお役に立てば、望外の幸である。 その期いたらば、将兵全員一丸となって死地につき、霊魂は永く祖国を守ることを信ず」

つまり、

戦争をする以上、死ぬのは覚悟している。撤退は望むとこではない。重要拠点のこの島を敵に渡すことこそ罪なのだ。 これからは援軍を待つのではなく、攻撃のみに切り替え、敵に少しでも損害を与えようと思う。 そしてこれからの連絡は、敵がどんな戦法をとって来たか、それにどう備えるべきかに重点を置くことにするから、今後の戦い方の参考にして欲しい。 そして時が来たなら、全軍一丸となって突撃し、その霊はこれからも祖国を守り続けます。

と言っているのです。

援軍を送れない軍に対して、文句一つ言わないどころか、自分たちの戦い方を参考にしてくれといっているのです。

そして山崎大佐はこの通信で宣言した通り、300名の兵を連れてアメリカ軍に突撃を果たすこととなります。


この最後の突撃における山崎大佐の奮戦は敵国のアメリカでも語り草となっており、自ら軍団の先頭に立ち、右手に軍刀、左手に日の丸の旗を持ち突進を続けました。


そして驚愕するアメリカ軍の戦線を次々と突破し、敵陣深くまで切り込んでいったのです。


この際も、アメリカ軍は繰り返し降伏勧告を放送で流していたそうですが、彼らは誰一人として降伏することなく、異国の地に散っていったのです。

後年行われた発掘調査においては、突撃した日本軍の先頭に山崎大佐の遺品と遺骨が発見され、この壮絶な突撃が事実であったことが証明されました。


また突撃に際して山崎大佐は、大本営に対して、これから突撃を敢行すること、軍事秘密の漏えいを警戒して無線機を破壊することを伝えて来ていますが、この報せを聞いた昭和天皇は、連絡が届かないのを承知で「最後まで良くやった!」という通信を送らせ続けたといいます。


これがアッツ島玉砕のもう一つの事実なのです。

確かに、援軍を出さなかった大本営のやり方には納得がいかない点もあるかもしれませんが、アッツ島で戦った山崎保代大佐、そして戦死した兵士たちの精神は正に侍の気高さを有しています。


そして、アッツ島と引き換えにキスカ島を救った樋口季一郎陸軍中将、貴重な潜水艦を失いながらも約束を守った軍の上層部。


戦争という狂った状況の中でも、彼らは決して日本人の誇りを失っていなかったのです。

もしアッツ島の守備隊がこれ程の奮戦をしていなけば、キスカ島はもっと早く陥落していたでしょうから、約6,000名の奇跡の救出劇も叶わなかったはずです。


それでもあなたは、山崎隊の決死の突撃が国に強要されてのものだと思いますか?

歴史は、見方、切り取り方によって大きく印象が変わってしまうものです。


先に述べた生存者の方の証言が、アッツで散った方々の意見を代表しているように聞こえてしまいますが、残りの約2,600人の意見を聞くことは永久に出来ないのです。


私には、繰り返しの降伏勧告を無視し、突撃を行った方々の行動が強制であったとは到底信じられません。


また考えるべきは、この生存者が話した内容の全てを、メディアが伝えているとは限らないという点です。


長い話の一部を切り取り、時には繋ぎ合わせることはマスコミの得意技なのですから。

最後に別のアッツ島生存者の言葉を記させて頂きます。


私はもう、二度と戦争はしたくない。

でも、もし国土を侵されるようなことかあれば、また何時でも武器を取るつもりだ。

どうですか?最初の一文のみの場合と、全ての文を読んだ際の感想は、全くの別物になっていませんか。


残念なことに、このような情報の操作が普通に行われているのが、日本のメディアの現状なのです。


このブログをお読み頂いた方々には、あの悲惨な戦いを生き残り、多くの仲間を失った方が残したこの言葉の意味を、しっかりと噛み締めて頂きたい。


あなたはこの壮絶な戦いで亡くなっていった方々の魂を、国に捨てられたら、哀れな亡霊だと思いますか?

それとも、祖国のために身を挺して戦い、散っていった偉大な英霊たちとして手を合わせますか?

極寒の地・アッツ島の戦いで玉砕された約2,600名の方々は何も語ることが出来ません。

それを決めるのは、彼らに命を繋いで頂いたあなた自身なのです。
Posted at 2019/06/02 09:07:14 | コメント(0) | トラックバック(0)
2019年06月02日 イイね!

追悼・アッツ島守備隊戦記

昨年のブログの再掲載ながら、去る5/29も私の尊敬する歴史上の偉人の命日に付、あげさせて頂きます。


キーワードは如何なる苦難に陥ろうとも自らの職責を果たし、事に臨んではリーダー自らが先頭に立って行動すること。


今から76年前の大東亜戦争中期の1943年5月29日、北はアリューシャン列島のアッツ島の日本軍守備隊が玉砕しました。守備隊長は山崎保世大佐(戦死後二階級特進で中将に。以下中将と記す)です。


前述の加藤隼戦闘隊の活躍も筆頭に開戦当初は日本優勢であった戦局も、ミッドウェー海戦での主力空母の全滅とそれに続くガダルカナル島攻防戦による大消耗戦により守勢にたたされました。


東南アジアから太平洋迄延びきった戦線の維持も困難になった頃の1943年5月12日、ミッドウェー作戦と呼応して占領したアッツ島に艦砲射撃と空爆と呼応した陸海空よりの米軍の反撃が始まり、約2万の大軍が上陸しました。


対する日本側守備隊はわずかに2500余り。戦う前から勝敗は決していると、米軍は息巻いておりました。


一年中を通じての濃霧等の悪天候と敵の包囲網から援軍も補給もおぼつかない状態。東京の大本営も苦慮し、守備隊としても陣地構築も不十分。準備不足は否めませんでしたが各所で一進一退の攻防戦が繰り広げられました。


装備優秀な10倍以上の敵を前に6000以上の損害を与える鬼神のごとき働きぶり。陣頭指揮には常に右手に軍刀、左手に軍旗をはためかせ、部下を叱咤激励し続ける山崎中将の姿がありました。「不利なことは百も承知。だが何としても敵に寸土も譲ってはならぬ!それが我々に課せられた任務である!」それを見て勇気百倍の部下達「隊長に続け!」と、獅子奮迅の働きを見せます。


血戦死闘実に18日、戦局遂に我に利あらず。守備隊は日々刻々と変わる戦況を伝えておりましたが、5/29山崎中将は大本営に最後の打電を行います。


二十九日一四三五、海軍五一通信完了、一九三〇北海守備隊受領
「一 二十五日以来敵陸海空の猛攻を受け第一線両大隊は殆んと壊滅(前線を通し残存兵力約150名)の為要点の大部分を奪取せられ辛して本一日を支ふるに至れり

二 地区隊は海正面防備兵力を撤し之を以て本二十九日攻撃の重点を大沼谷地方面より後藤平敵集団地点に向け敵に最後の鉄槌を下し之を殲滅 皇軍の真価を発揮せんとす

三 野戦病院に収容中の傷病者は其の場に於て軽傷者は自身自ら処理せしめ重傷者は軍医をして処理せしむ 非戦闘員たる軍属は各自兵器を採り陸海軍共一隊を編成 攻撃隊の後方を前進せしむ 共に生きて捕虜の辱しめを受けさる様覚悟せしめたり(以下略)」

北二区電第九二号(一八四〇、海軍五一通より通報)
「五月二十九日決行する当地区隊夜襲の効果を成るへく速かに偵察せられ度 特に後藤平 雀ヶ丘附近」


打電後、通信機は破壊されました。動けぬ傷病兵は「足手まといにならぬよう、お先にいっております」と、ことごとく自決。動ける勇士はわずかとなるも降伏して捕虜となることを潔しとせず、敵主力に対し最後の突撃を敢行。全員壮烈なる玉砕を遂げました。


戦後しばらくしての戦場整理の折、守備隊の一番先頭には軍刀と軍旗を握りしめたままの山崎中将の遺骨が発見されたと言われております。


「指揮官先頭」帝国陸軍の伝統を守った見事な散り際でありました。

大本営発表(昭和18年5月30日午後17時)
1)アッツ島守備部隊は5月12日以来、極めて困難なる状況下に、寡兵よく優勢なる敵に対して血戦継続中のところ、5月29日夜敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決意し、全カを挙げて熾烈なる攻撃を敢行せり。
 其後通信全く杜絶、全員玉砕せるものと認む。
 傷病者にして攻撃に参加し得ざるものは、之に先立ち悉(ことごと)く自決せり。
 我が守備部隊は2500名にして、部隊長は陸軍大佐山崎保世なり。
 敵は特種優秀装備の約2万にして5月28日までに与えたる損害6000を下らず。
(2)キスカ島はこれを確保しあり。 


昭和天皇は、アッツ島玉砕の上奏をした杉山元参謀総長へ「最後まで良くやった。このことをアッツ島守備隊へ伝えよ」と命令しました。杉山はすかさず「守備隊は全員玉砕したため、打電しても受け手が居りません」と言った。これに対して昭和天皇は「それでも良いから電波を出してやれ」と返答した、といわれております。こうして、無念にも散って逝った守備隊へ向けた昭和天皇の御言葉が、決して届かないであろう事を承知した上でアッツ島へ向けて打電されました。
Posted at 2019/06/02 07:02:34 | コメント(0) | トラックバック(0)

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バッジ5個を獲得、テリトリーポイント10pt.を獲得」
何シテル?   06/20 08:37
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