
先日千代田区の金網稲荷神社を探索しました。金網…文字どおり社殿が金網に囲まれていて、知らないと悪魔を封じ込めているかのように見えますが、そういうことではないようです。
金綱稲荷神社は、日本通運株式会社秋葉原支店の敷地内に安置され、「正一位金綱稲荷大明神」を祀っている。その由来は、同社の発祥のひとつである飛脚問屋・京屋弥兵衛が京都の伏見稲荷大社から勧請した稲荷であると伝えられている。
現地説明板によれば、京屋弥兵衛は、慶長年間(一五九六~一六一五)より幕府の許可を得て、京・大坂・江戸の運送業を始めた。当初は、江戸日本橋瀬戸物町(現・中央区日本橋室町)に店舗を構えて、その店内に稲荷を安置して生業の発展と道中安全、さらに奉公人たちの家内安全を祈願していた。ある夜、夢枕に王冠白衣のご神霊が立ち「汝の篤信のため、汝に黄金の綱を授けるものなり」との託宣を受けたことから、社名に「金綱」の名前をつけ、「金綱稲荷大神」と称することにしたという。これ以降、京屋の飛脚は、道中における山賊などの人災に遭うことはなくなり、「金網稲荷大明神」は厄除け・交通安全とともに、無事故であるという信用が増したことから、商売繁昌にも繋がる御利益をもたらしたとして手篤く祀られた。明治時代を迎え、京屋をはじめとするいくつかの飛脚問屋は「陸運元会社」に統合、さらに「内国通運会社」と改組された。大正期ころには、神田支店(現在の秋葉原支店)となった現在地に社殿が造営され、社員のみならず一般の人々が参拝できるようになり、このころから現在にいたるまで初午祭が毎年盛大に行なわれている。同社はその後、昭和三年(一九二八)に「国際通運株式会社」を経て、昭和一二年に「日本通運株式会社」の創設となっている。
毎年二月の初午祭は、神田神社から神職を招いて神事が執行される。当日は、同社社員及ぴOBなどで組織される「日通金綱稲荷奉賛会」(昭和四七年に結成)が中心となって活動し、社員や関係者が大勢参列する。(「千代田の稲荷」より)
さて、その境内で「草木塔」を発見しました。これまでにいろいろな塚や石碑を見ていますが記録を調べると「草木塔」は初です。まだまだ見ていないものがありますね。草木塔は富士塚とは違って、
草木塔は江戸時代の半ば(1780年)、今の山形県米沢市田沢地区塩地平地内に建てられたのが最初といわれ、米沢市周辺と置賜地方に数多くみられます。しかし草木塔が何のために建てられたのかについては様々な説があり、学術的に確かなことはわかっていません。現代では、自然と人との共生という観点から改めて注目されるようになり、草木塔の精神に共鳴する人々によって、各地に多くの新しい草木塔も生れてきています。草木塔の総数は全国で約170基、関連の類似塔を含めると190基以上ともいわれていますが、江戸期の草木塔は34基で、そのうち32基が置賜地方にあります。米沢市域には17基です。(草木塔の里 田沢)
Wikipediaによると、
1780年(安永9年)、江戸時代、出羽国の米沢藩・上杉鷹山の時代に、米沢市大字入田沢に建てられたものが最初と伝えられ、高さ90cm、幅52㎝、厚さ24㎝の自然石に「草木供養塔」と刻まれている。他には「草木塔」、「草木供養経」、「山川草木悉皆成仏」などの碑文のものも確認されている。塔は自然石か、もしくは部分的に研磨されたものがほとんどで、日本国内に160期基以上が確認されている。そのうち9割ほどが山形県内、しかも置賜地方に集中していることから、鷹山の教化によるものという説もある。江戸時代以降も主に林業の盛んな地域に建てられており、米沢市万世町梓山、米沢市田沢、米沢市簗沢、米沢市綱木などの「木流し」が行われた所に多く建てられている。また米沢市と隣接する川西町では22基の草木塔が確認されている。1986年(昭和61年)、米沢市三沢公民館前に自然愛護の精神を後世に伝える趣旨のものが建立された。
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2023/10/28 17:41:18