
群馬県太田市を再訪しましたが、気温の急な上昇もあり本格的な探索はせず、D'station Racers に立ち寄った他、ナビに現れた「高山彦九郎記念館」に行ってみました。
高山彦九郎という人物については知りませんで、調べて行ったわけでもない、そういう飛び込みが多いのですが、林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の1人。名は正之。上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)の生まれ。
-------------------------------------------------
山彦九郎は上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市細谷町)で生まれた、江戸時代中頃の勤王思想家で、幕末の勤王の志士たちに大きな影響を与え、明治維新を導いた人物です。
生涯を旅に過ごし、京都・江戸・郷里を拠点に全国各地を遊歴、公家・武士(大名・家老・諸藩士など)・学者(国学者・儒学者・蘭学者など)・文化人(画家・歌人・俳人など)・剣術家・神官・商人・農民など様々な階層の人々と交流、その様子を地域の歴史・地誌・習俗・民情などとともに克明な日記に記録しています。
第2次世界大戦以前は彦九郎の
一側面が強調され、小学校の教科書にも載っていましたが、現在では、一部の高校日本史教科書に取り上げられているだけで、多くの人から忘れられてしまっています(公式HP)
-----------------------------------------------------
吉田松陰への影響も大きく、松陰という名は彼の戒名が元かもしれないという。また、「
一側面」というのは辞世の句
朽はてし身は土となり墓なくとも/心は国を守らんものを
に象徴的に現われた側面ではないかと思いますが、個としてロマン主義的かもしれないが指導原理としての軍国主義とは違うのではないか。個の生き様や美学と集団の指導原理がだんだん同一視されてくる流れというのは日本の歴史上でも何度か登場してます。実際にはどういう人物だったかはよく調べてみないとわからない。(一部の人はテロリストと呼ぶ吉田松陰なんかも)このあたりの歴史は 儒教的秩序→本来の日本を取り戻すという本居宣長の国学(はよいが)→平田篤胤でちょっとおかしくなって自意識過剰化→尊王攘夷、明治維新へ、明治以降の誤りの種もこの辺りにあるというイメージを持っていたのですが、多少の過激さや過剰さもあったからあの時代滅ばずに済んだ面はあるでしょう。 (現代の最大の危機は経済や少子高齢化による衰退であり、若者が外敵にどう処するかという局面ではない)
館内は比較的こじんまりとしていますが、時々企画展もあるらしい。近くには屋敷跡や遺髪塚があります。また、本当に奇人なのか、いろいろ調べて歴史小説に書かれているようです。
Posted at 2019/05/25 06:34:05 | |
トラックバック(0) |
アート | 日記