
今日は千葉県
白井市を経由して印旛沼近辺を少し散策しました。まず事前の知識もないまま印旛沼公園へ。駐車場に車停めて入ってみると地形がどうも城跡のよう(のちに城跡と判明)
スマホカメラでは城跡の緑が重なった構造の立体感が全然でなかったのが、PLフィルターとホワイトバランス曇りにすることでだいぶ変わりました。城内には彼岸花の群生も。近頃Web上で彼岸花の写真にUPを目にすることが多いです。
その後、沼の畔に行ってみたところ、2機編隊の飛行機が飛来、これは今のレンズでは厳しいが.... 今回は湖畔のごく一部しか見てませんが、帰りの車内から見たところ絵になりそうな場所はまだありそうでした。
フォトグラフィー:
印旛沼の探索
「印旛沼」検索すると「
いんばぬま情報広場」とか「
水土里ネット印旛沼」とかいろいろできます。
実は水質は相当悪い。
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およそ2万年前、海面が著しく低下していた際に形成された下総台地の侵食谷が、縄文海進時の地盤沈降により溺れ谷となり古鬼怒湾と呼ばれた海の一部であったが、その出口を河川の運搬物(土砂など)がせき止めて形成されたものである。
江戸時代に入って、江戸の町を利根川の氾濫による水害から守るため行われた利根川東遷事業によって利根川の下流となり、周辺の村々は水害により大きな被害を受けるようになった。このため沼の水を現在の東京湾へ流すという掘割工事と、あわせて当時人口が激増していた江戸の町の食料事情もあって干拓事業(新田開発)が行われた。享保9年(1724年)、平戸村(現在の八千代市平戸)の染谷源右衛門が着手したが失敗。次に、天明年間(1781年 - 1789年)老中田沼意次の時に計画され、工程の3分の2まで進捗したが天明6年(1786年)7月の大洪水と、田沼の失脚により中断された。
江戸後期には老中水野忠邦による天保の改革の一環として開削事業が企図され、幕府財政基盤の再建を目標とした改革後半の天保14年(1843年)には勘定奉行の鳥居耀蔵を責任者として沼津藩、庄内藩、鳥取藩、秋月藩、上総貝淵藩の5藩に御手伝普請が命じられ、印旛沼から江戸湾に水路を開削する印旛沼堀割工事が行われた。この工事の背景には水害対策や新田開発や水運航路の開発など経済的な事情のほか、外国の軍船に江戸湾口を封鎖された場合に、江戸へどのように物資を供給するかという、対外危機への意識の高まりもあった。つまり、那珂湊-利根川-印旛沼-検見川-江戸という新しい水路の建設である。印旛沼の開発は各藩の多大な財政負担により進捗せず、天保の改革も上知令の頓挫による水野の罷免により中止され、印旛沼開発も弘化元年(1844年)6月に中止となり、江戸期における工事はいずれも成功しなかった。
明治以降も織田完之による印旛沼干拓計画や、昭和放水路計画など、印旛沼の開発計画は次々と立てられたが、当初の治水・干拓を目的とした開発は、京葉工業地帯の造成と人口の増加に伴って利水を目的としたものへと変貌していく。印旛放水路(新川・花見川)が完成するのは1960年代末である。
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Posted at 2013/09/28 22:26:50 | |
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