2016年05月26日
春日山城を出て、帰路諏訪に立ち寄りました。たまたま宿が諏訪大社上社に近く、探索してみました。前回2011年に来ている記録がありますが、上社本宮だけでした。諏訪大社は諏訪湖の周りに4カ所あります。今回は上社前宮と本宮の2か所。
まず前宮を訪ねると4本の御柱に囲まれていましたけど、そこから本宮に向かう途中に見えた小社も4本の柱に囲まれているものがあり、これは前回気がつかなかったのですが、面白いですね。本宮近くの駐車場に歩いていくと、寺があって明智光秀がどうこうと看板が見えたので寄ってみました。
法華禅寺
一説ではこの時、信長の家臣である明智光秀は信長の怒りに触れ、居並ぶ諸将の面前で欄干に頭を押し付けられて殴られるという辱めを受けたといわれる。この後、信長は 6月2日未明、信長は本能寺の変で討ち死に。ここ法華寺での信長の光秀に対する処遇がその原因の1つであったともいわれている。
忠臣蔵・赤穂義士の討入で有名な吉良上野介義央の外孫で、のちに養嗣子になった義周の墓がある。
義周は討入の翌年の元禄16年(1703)赤穂の浪人が討入った折に防戦につとめながらも、 その働きが武士らしくなかったとして幕府より咎めを受け、領地を召し上げられ、 江戸時代、流刑の地となっていた諏訪の地へ流されることになった。
諏訪高島藩にお預けの身となった義周は、高島城南の丸におかれたが、 3年後の宝永 3年(1706)1月20日に病気のために死去した。幕府の検死後、 断絶した吉良家に義周の遺骸を引き取る者はおらず、幕府より死体取り捨ての沙汰を受け、この法華寺に土葬されたとのことである。
それから、たぶん前回とは違う入り口から上社本宮へ。記憶は殆どなくなってます。ちょうど祈祷中でした。諏訪市立博物館にも行ってみました。企画展「御柱を知る」ーなぜ4本か諸説ありすぎてわからないようです。
『古事記』に記述があるもので出雲のオオクニヌシが高天原から降ったニニギに国譲りを承諾したとき、ただ一柱反対したタケミナカタは武神タケミカヅチに追われることとなった[5]。結局諏訪湖畔まで逃げてきて降伏し、その際この地から出ないことを誓って許される。その時結界として神社の四隅を仕切った、という話が残っている。地鎮祭の神話的表現とも考えられる。実際には記紀神話以前からの諏訪地方の信仰との関係が深いといわれている。神長官守矢氏の伝えるところによるとこの御柱はミシャグジの依り代であるという。(wiki)
周辺にもいろいろあるので、諏訪探索に丸一日かけるのも良さそうです。

フォトギャラリー:
長野県茅野市の探索(上社前宮) 1 2
長野県諏訪市の探索(上社本宮) 1 2
Posted at 2016/05/31 21:34:08 | |
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