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イイね!
2017年06月23日

翼の向こうに(67)




辺りが薄暗くなって徐々に視界が狭くなってきた頃、私は遠くに焼玉発動機の規則正しい排気音を聞いた。うねりに持ち上げられるたびに私は精一杯首を回して辺りを見回した。そして遠くからこちらに向かって来る一隻の漁船を見つけた。船は自分の方に近づいてきてはいたが、今の進行方向では私のところから少し離れたところを通り過ぎて行きそうだった。


『あの船に拾われなければ本当に生きる道は絶たれてしまう。』

 
私は意を決して首に巻いていたマフラーを外すと両手に持って大声で叫びながらできるだけ大きく振り回した。その分、今までマフラーでかろうじて押し止められていた海水が襟から流れ込んで来て体温で温められた海水と取って代わった。全身が硬直して意識が遠のくような冷たさだった。そんな努力にもかかわらず漁船はゆっくりと私から遠ざかっていった。

 
マフラーを振っていた手の力が徐々に抜けていって、とうとう私はマフラーを海面に投げ捨てた。絶望感が全身を巡って私は海面に仰向けに体を投げ出した。


『これで最後か、一体今までに何機撃墜したかな。十機は超えているはずだから少しは殺されるかもしれなかった非戦闘員の命を救ったかもしれない。それで良しとするべきか。』

 
重くなって支えるのが面倒になった両手を海水に投げ出した時、右手が飛行服のズボンのポケットに触れた。そこには護身用というよりは万が一の時に自決するために自費で購入した拳銃が入っていた。その瞬間、私はあることを思いついた。そして急いで拳銃を取り出すと何度も水を払ってから拳銃を空に向けた。

 
一日中水に浸かっていた拳銃が果たして激発するものかどうか自信はなかった。引き金を引けば暴発する恐れもあったが、躊躇わずに引き金を引いた。


「パン」


乾いた音が海面に響いて弾が出た。私は続けて引き金を引いた。


「パン、パン、パン」

 
何発発射したか分からなかったが、拳銃の発射音とは違う焼玉発動機の規則正しい排気音が自分に向かって近づいてくるのが聞こえた。そして間もなく舳先で銛を構えた若い女性と舵を握っている年配の男性を乗せた小さな漁船が目に入った。どうも敵と思っているらしかった。


「帝国海軍剣部隊の武田中尉だ。」

 
私は銛を打ち込まれる前に何度もそう叫んだ。やっとのことで船に引き上げてもらった私は軍人として何とか毅然とした態度を取ろうとしたが体が言うことを聞かなかった。船底に大の字に寝転がって喘いでいる私に男が声をかけた。


「あんた、今朝方、敵をたくさん落とした海軍さんかね。落下傘が見えたが、あれからずっと海に浸かっていたのか。本当にご苦労さんなことだ。早く濡れた物を脱いで着替えるといい。おい、幸恵、何か着る物を出してやんなさい。」

 
幸恵と呼ばれた若い女性は黙って船板を外すと汚れた毛布と女物のチャンチャンコを出してくれた。私はその女性に飛行服を脱ぐのを手伝ってもらうと裸の上にチャンチャンコを羽織って汚れた毛布を腰に巻きつけた。魚の臭いが鼻をついたが濡れた飛行服よりははるかに心地よかった。


「幸恵、七輪を起して魚でも炊いてやれ。温まるだろう。」

 
幸恵という女性は手早く七輪を起すと鍋で海水をすくって火にかけた。そしてその中に輪切りにした魚を放り込んで少しばかり味噌を加えて蓋をした。なれた手つきだった。私は歯をガツガツと震わせながらぼんやりと鍋を眺めていた。

 
魚が煮上がると塗りの剥げたお椀によそって差し出した。私はそれを受け取って汁をすすった。汁の暖かさが体中の肉に染み込むように広がった。海水とわずかな味噌で炊かれた魚の名前が何と言うのか全く分からなかったが、私は息もつかずに腹の中へと流し込んだ。そしてあっという間に空になったお椀を手にしてため息をついていると女は笑顔で手を差し出した。

 
二杯目はゆっくりと味わいながら口に運んだ。そしてそれを食べ終わる頃にはもうほとんど暮れかかった陸地が見えてきた。


「申し訳ありませんが陸に上がったら駐在に連れて行ってください。部隊に連絡を取らないと。」


私は舵を握っている年配の男性を振り返った。


「駐在は浜から四里も行かねばな。今日はもう遅い。うちに泊まって明日の朝出かけて行くといい。それまでには服も乾くだろう。その格好で夜中に駐在を起しても相手にはしてくれんだろう。」

 
そう言われて私は自分の姿をまじまじと見直した。赤い花模様のチャンチャンコに毛布を巻きつけた姿ではなるほど海軍の搭乗員と言っても相手にはしてもらえそうになかった。船が入り江の中の小さな漁港に着くと私を岸に待たせて二人は手早く船を舫ってから漁具と魚の入った籠を抱えて歩き始めた。二人の家はそこから五分ばかり歩いたところにある粗末な小さな小屋だった。中は十二畳ほどの板の間と竈を据えた土間があるだけの漁師小屋だった。

 
二人は私を板の間に休ませてそれぞれ自分の仕事を始めた。男は取ってきた魚の始末と漁具の整理、少女は竈に火を入れると食事の支度と忙しく立ち働いているのを私は板の間から眺めていた。


「一杯飲むといい。体が温まる。」

 
一通りの仕事を終えた男は流しの下から徳利と湯飲みを取り出した。差し出された酒を手に取ると男は少女の方を向いて静かに話し始めた。


「幸恵の両親は漁に出て行ってアメリカの飛行機に殺された。小さな漁船に何度も何度も機銃掃射を繰り返してそれこそ木っ端微塵だった。身寄りのなくなった幸恵は近所で付き合いのあった俺のところに転がり込んだんだ。毎日西から飛んでくる敵の飛行機の数は減りゃあしない。

 
それに引き換え、西に飛んでいく味方の飛行機はろくに戻っても来ない。この戦争はもういかんと思っているが、戦争が終わらなければ敵の飛行機は毎日やって来て人を殺して漁場を荒らしていく。それでも今日はあんたが敵の飛行機をやっつけてくれて気持ちが良かった。

 
戦争は人殺しだから悪いことないんだろうけど、我が物顔に日本の空を飛び回って荒らしていく敵の飛行機が目の前で二機も燃えて落ちれば、いけないとは分かっていても手を叩きたくもなるさ。まあ、何もないが酒でも飲んでくれ。そのうちに飯の支度もできるだろう。」


私は手に持った湯飲みを床に置いた。そして深々と頭を下げた。


「皆さんを守り抜くことができなくて申し訳ありません。」


「いや、あんたたちは良くやってるよ。たった一機でたくさんの敵に向かって行って二機もやっつけたんだから。さあ、頭を上げて飲んでくれ。」


男は徳利を差し出した。


「おじいちゃん、飲み過ぎちゃだめよ。さあ、兵隊さん、潮を流しましょう。こっちへ来て。」


少女は土間に盥を置いて私を呼んだ。


「兵隊さんを流したら私が使ってもいい。」


少女は男を振り返ると返事も待たずに着物を脱ぎ始めた。


「早く裸になってここに座って。」

 
上半身裸の少女は私を急き立てた。私は手拭をとると借りていた着物を脱ぎ捨てて土間に下りた。そして盥の真ん中に座った。少女は手桶の湯を器用に体にかけては手拭で体を洗ってくれた。


「もういいわ。」

 
一通り洗い終わると少女は私に声をかけた。盥から立ち上がったものの衝立一つない小屋ゆえに覚悟を決めて板の間に飛び移り用意してもらった下着と浴衣を素早く身につけた。


「じいちゃん、先に使ってもいい。」

 
女はそう言うと腰に巻いた布を取り去って盥の中に腰を下ろした。人前で平然と肌を晒す女を目にした私は返って目のやり場に困って板の間に置かれた湯飲みを睨み続けていた。


「日本がどうしてこんな戦いを始めたのか、難しいことは俺達には分からん。戦争をしているあんたたちには申し分けないが、こんな戦はやってもらわないほうが良かったんだ。若い者はみんな戦争に行って死んでしまうし、最近じゃあ敵の飛行機が飛んできては船を沈めていくわ、家は燃やしてしまうわ、年寄りや女子供まで殺してしまうわ、いいことなんぞ何一つない。わし等はただ漁をして平和に暮らしていければそれでいいんだ。この戦に勝てば日本が豊かになるのかどうかは知らんが、別にわし等豊かになんかならなくてもかまわん。村の者が穏やかに生活していければそれで十分だ。ところであんたは職業軍人かね。いくら職業軍人でも戦って死にたくはあるまい。軍人でもなんでもないわし等はなおさらだ。」

 
男は湯飲みに注いだ酒を舐めるように飲みながらゆっくりと平坦な調子で話した。感情を高ぶらせないその口調が返って私の心に突き刺さった。


「止めなよ、じいちゃん、この人、予備士官だよ。召集されたんだ。戦争が好きでやっているんじゃないよ。」


何時の間にか、体を洗い終わって体を拭きながら私たちの前に立った女が言った。


「いや、職業軍人も召集された予備士官も関係ない。俺達は軍人だ。その軍人があなた達国民の命や暮らしを守れないということは自分たちの義務を果たしていないということだ。本当に申し訳ないと思う。そのことはどんな理由をつけても許されることではない。」


私は板の間に両手をついて頭を下げた。


「もう止めようよ、こんな話。じいちゃんも見ただろう。この人、たった独りでアメリカの飛行機に向かって行ってたくさん撃ち落したんだよ。この人だって一生懸命戦っているんだから、もう止めようよ、こんな話は。そうだ、洗濯が終わったら体を揉んで上げるよ。一日中海に浸かって冷えて体が堅くなっているだろう。じいちゃんもやってあげるよ。待っていて。」

 
女は手早く衣類を身に着けると土間に下りて私の飛行服を運んできて洗濯を始めた。私は黙って洗濯をしている女を見つめていた。老人は決して私を責めるつもりはなかったのかもしれない。ただ、心の中に積もったものを吐き出したかっただけなのかもしれなかった。老人の口調は決して激しいものではなく、むしろ私に問い掛けているようだった。こんな時はむしろ詰られた方がまだしも気が楽だったかもしれない。穏やかな老人の口調が私の心に重く圧し掛かって離さなかった。


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Posted at 2017/06/23 23:17:05

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