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2019年07月07日

盧溝橋事件の日

盧溝橋事件の日 7月7日は七夕祭りの日でもありますが、日中関係やら歴史認識問題を語る上では、一つの重大事件が起きた日でもあります。


1937年(昭和12年)7月7日、北京(北平)南方向の盧溝橋にて演習中の我が帝国陸軍に対し不法に撃ち込まれた一発の弾丸が元となり、現地近くに居た中国国民革命軍第二十九軍との間に武力衝突が発生しました。世に言う盧溝橋事件であります。


今ではこの一発の弾丸は中国共産党軍、ひいては其の後ろに付くソビエト・コミンテルンによって仕組まれた罠であると判明しております。即ち当時明治以降、おびただしい血を流して得た朝鮮・満州国という大陸への勢力圏=防衛圏を引いていた我が国と国民党軍とを争わせて共倒れを狙い、一挙にユーラシア大陸を赤化・共産主義化させる目的を以てなされていたのです(赤化した国々の民がどの様な悲惨な末路を辿ったかは歴史の示す通り)。


しかし、この盧溝橋事件自体は現地での停戦協定に依って解決。問題は其の後、7月28日に入り、通州という都市に老いて我が国の守備隊と居留民が国民党軍に依って虐殺されると云う悲劇が起きました。


中国大陸を含めた東亜の安定を願う我が国の真意を解せず、国民党軍は利権を狙う米英を筆頭とする傀儡に成り下がり、其の援助を得、共産党軍と共に無闇な反日・抗日戦争に打って出た訳であります。


事此処に至らばやむ無し。遂に我が国は在留邦人と、共産党・国民党に依る内戦と悪政、搾取に苦しむ現地人を救うべく、立ち上がったのでありました。


世に言う支那(中国の別称)事変、日中戦争の始まりであります。


無論精強なる我帝国陸海軍の前に敵は無く、北京から上海、南京と大陸沿岸主要都市に次々と翻る日章旗。其の御旗の元に秩序は回復し、荒廃した大陸各地から人々は次々と集まって参りました。幸いにして親日政権樹立もなりましたが、相変わらず奥地の重慶に逃げ込んだ国民党軍と、各地でゲリラ戦を展開する共産党軍は無意味な抵抗をするに止まりました。


事変発生から一年半も経つと戦線も安定&膠着。その間に我が国がしたことと言えば、ひたすらに占領地の安定化、鉄道網を筆頭としたインフラ整備に邁進したのでありました。


ただ、惜しむらくは後に発生した大東亜戦争に於ける武力戦の敗退に依り、我が国は大陸からは全面撤退。内戦に破れた国民党は台湾に逃れ、ユーラシア大陸はソ連・中国共産党の支配下へ、朝鮮半島は戦争を経て南北に分断されるなど、現代に繋がる東亜問題の禍根を残す形となったのであります。


現代に於けるロシア、中国、北朝鮮、韓国を筆頭とする特亜諸国の増長、反日的言動、領土問題は将に戦後から現代に至る難事であります。


ひたすらに東亜の安定・平和を願って戦い、植民地や占領地に対しては治安安定化や近代化を推し進めた先人達(赤字経営であったとの由)。其に対し「侵略だ」等と言う勢力こそが、正に歴史歪曲を図る者達であると認識せねばなりません。


歴史にIfはありませんが、もしあの時、我が国と国民党政府とが手を結んで共産党軍を殲滅し、満州国を安定化してソ連の南下を防ぎ、朝鮮を守り、米英の野望を挫く事が出来ていたならば?


今よりはマシな東亜になっていたのではないか?と、思えてなりません。
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Posted at 2019/07/08 23:14:34

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この記事へのコメント

2021年2月5日 15:13
<1937年(昭和12年)7月7日、北京(北平)南方向の盧溝橋にて演習中の我が帝国陸軍に対し不法に撃ち込まれた一発の弾丸が元となり>

当時の回想では上空を通過する2発の銃弾とあります。
可成り高空を通り過ぎたようで、当然被害者はありません。
本当に銃撃があったのか謎です。
コミュンテル発砲説も無理があります。
解っていることは「発砲があったようだ」「用便で点呼に遅れた日本兵が居て騒ぎになった」その2つの事実

盧溝橋へ行ったことがありますか?
北京からタクシーで行けます。
紫禁城からおおむね15~20キロ程度の場所で
東京に例えるなら皇居から1号線を15キロ西へいった
多摩川堤防あたりです。

そんな場所で外国の軍隊が連隊(5千人規模)の演習を行えば
ヤンキーが爆竹ならしたくらいでも
軍事的衝突が起ります。

日本軍が挑発してことは間違いないでしょう。

コメントへの返答
2021年2月5日 19:20
ブログへのコメント、ありがとうございます。

日本軍が現地に居たのは北京議定書に基づくもので、何等違法行為ではありません。確かに法人保護の名目で其の後各国軍隊が撤収する中で居座り続けたのは賛否両論かもしれませんが、内戦続く最中にはやむを得ないことであります。

現に手薄なところを狙って日本人虐殺の通州事件が
起きてますから。

戦後に中共軍政治部発行の初級革命教科書のなかに「蘆溝橋事件は中共北方局の工作である」と記述した資料があるとのことであり、中共による謀略の疑いも大きいです。

現地解決・不拡大方針を目指した日本軍がわざわざ挑発しますか?そちらの方が疑問が残ります。



2021年2月6日 19:03
議定書に基づくものであっても
北京郊外で演習することはないでしょう。
御存知の通り軍事演習は軍事行動のひとつです。

通州事件は日本軍の友軍である中国人保安隊が起こした反乱です。
謂わば飼い犬に手を噛まれた。
理由は別にありますが
満州から北支へアヘンを輸出する回廊に通州が位置しますから

<戦後に中共軍政治部発行の初級革命教科書のなかに「蘆溝橋事件は中共北方局の工作である」と記述した資料があるとのことであり、>

そんな事書いている史料はありません。

<現地解決・不拡大方針を目指した日本軍がわざわざ挑発しますか?そちらの方が疑問が残ります。>

はい、敵が発砲したと理由付けで反撃して北京を占領したのは
当時の連隊長は
インパール作戦で有名な牟田口ですからね。
コメントへの返答
2021年2月6日 21:42
当時北京周辺には既に数十万を越える支那軍が集結しつつありました。しかもコミンテルンの抗日の指示を受けた者達であり、盧溝橋事件前から既に露骨な準備がなされてました。

増派されたとはいえ、たった5千の駐屯する日本軍に何が出来ますか?出来ることといえば反日・抗日行動に対する自衛な演習・措置ぐらいでしょう。


盧溝橋事件の為に日本軍が出兵して手薄になり、和平が実現しそうな所へ起こったのが通州事件です。あらゆる残虐な仕打ちでの民間人虐殺。和平をぶち壊しにしたのは策動した支那側の責任です。特に共産党ですね。


戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」に初級革命教科書の記述がありますし、実際に読んだという証言もあるそうです。ただ、共産党軍が自分達を誇示する為に嘘を書いたのでは?と云う意見もありますが。


史料が無いとする根拠は何ですか?


牟田口氏のインパール作戦での無為無策ぶりを弁護するつもりは全くありません。確かに、「支那軍カ二回迄モ射撃スルハ純然タル敵対行為ナリ 断乎戦闘ヲ開始シテ可ナリ」(支那駐屯歩兵第一連隊戦闘詳報)と、記載してることから彼は自分が支那事変を引き起こした張本人と自覚して居たようですし。もっとも盧溝橋事件を共産党軍の引き起こしたものとするならば、自意識過剰とも言えましょう。


在留法人を守る為に停戦交渉中に攻撃して来るような敵を追い払い、北京を占領したのは当然の成り行きです。牟田口氏は軍人としての仕事をした迄です。
2021年2月7日 14:52
盧溝橋事件は数々の陰謀説がありますが
いずれも確証がありません。

ですので、史学会では「偶発発砲説」が主流です。盧溝橋事件は盧溝橋付近で夜間演習中の日本軍が発砲を受けたことから端を発しますが、実際には銃声と上空高くを通過する弾の音を聞いたというモノです。

当然、近くに着弾したわけではありません。
この時点では演習中の日本軍も攻撃を受けたとは認識していません。
しかし演習後、点呼をすると兵士の1名が足らない。
これが発射音と結びつき中国軍に捕虜にされたのでは?日本軍に被害が出たのでは?と騒めきます。

この報告が末端部隊から司令部に上がると
状況を把握するため軍使を派遣して確認に勤めますが、当然中国軍も「何も知らない」と返答します。
後で解ったところ行方不明の兵は30分後に見つかっており(体調を崩し用便だったと報告されている)、本来ならこれで一件落着のはずでした。 ところが、どういうわけか兵が見つかったという報告が上に提出されず、意味も無く緊張が高まる中、有名な牟田口が、さらに銃声を聞いたということから、これを攻撃と断定して、
牟田口は許可もとらずに勝手に「自衛行動」を起こして事態は武力衝突へと発展します。 結局のところ、最初の銃撃と牟田口の起こした自衛行動は直接関係ありません。
両軍が睨み合う中、緊張が高まり許可なく日本軍が火蓋を切った流れです。

演習中の連隊長が司令部の許可なく戦闘を開始したのが盧溝橋事件の始まりです。

歴史家がまとめた著書や当時の戦陣日誌を読んでみてください。

<在留法人を守る為に停戦交渉中に攻撃して来るような敵を追い払い、北京を占領したのは当然の成り行きです。牟田口氏は軍人としての仕事をした迄です>

上で書いたことから牟田口は勝手に許可なく暴走しただけです。

<当時北京周辺には既に数十万を越える支那軍が集結しつつありました。>

それは華北担当の中国29軍の総数です。
そのすべてが盧溝橋へ終結したわけではありません。

<蘆溝橋事件は中共北方局の工作である>

工作も何も 「銃声があった」らしいと言うことだけで
その件は軍使を立てた確認している。
その後牟田口連隊指揮下の一木大隊が攻撃を仕掛けます。

牟田口は撃たれて反撃したのではありません。
勝手に攻撃しだしたのです。

コメントへの返答
2021年2月7日 15:59
詳細御説明ありがとうございます。盧溝橋事件のあらましはだいたいわかります。日中いずれの立場でお互いに陰謀だと言ってる部分もありますから、其では結局水掛け論なので、良い落としどころとしての「偶発発砲説」なのでしょう。


独断専行は帝国陸軍の良い点でもあれば、悪い点でもありますね。牟田口氏の行いが周りめぐっての日本の大敗戦とするならば、やはり歴史の教訓を生かさねばと改めて感じます。


肝心の29軍ですが、既に反日・抗日の命を帯びた共産党の面々が上を牛耳りつつあったそうなので、やはり日本軍と国民党軍がぶつかりあうのは必至であり、結局漁夫の利を得た共産党が一番得をしましたね。

戦後に中共北方局の工作と云う件の書を読んだ国民党の方が「共倒れさせるつもりだったのか!?」と憤慨されたお話もあるそうです。


工作の史料等が一切ないとする根拠を教えて下さい。
2021年2月7日 17:51
<日中いずれの立場でお互いに陰謀だと言ってる部分もありますから、其では結局水掛け論なので、良い落としどころとしての「偶発発砲説」なのでしょう。>

陰謀論で解決するのは簡単ですが
確証がありません。
時間系で追うと

①演習中発砲音がして銃弾が空を通過する音を聞いたものが居る
②点呼に遅れた兵を捜索して、中国軍の仕業と緊張が走ったが
実情は用便で遅れただけ、しかし点呼に遅れた兵が見つかったことは
司令部に報告されなかった
③司令部は中国軍へ軍使を出し、不明の兵士の安否を尋ねた。
(停戦状態)
④牟田口連隊配下の一木大隊が戦闘開始

以上、中国側が陰謀を行う要素がありません。
どこに陰謀がありますか?
牟田口が司令部の了解を得ず 勝手に戦闘開始しただけです。

<工作の史料等が一切ないとする根拠を教えて下さい。>

中国共産党の陰謀説とは
よく言われる劉少奇が陰謀を張り巡らし
蒋介石軍と日本軍を戦わせてと言うことですが、
それの元は葛西純一氏が著書『新資料 盧溝橋事件』で記述していることです。
内容は
抗日戦士政治課本と言う中共軍の兵士教育教科書に書かれていた事柄だと言われています。
ただ、その冊子が実存しないのですね。
葛西氏しか見たことが無いらしい。
歴史学者の秦郁彦『昭和史の謎を追う 上 』からの下記引用ですが

==引用開始===
問 その証拠文献を今見せて貰えないか。
答 今は所持していないが、某所に保管してある。もし北京政府が「そうした事実はない」とシラを切ることがあれば、内外記者団に公開するし、私は北京と対決する。
 というくだりがあるのを見ると、著者は帰国のさい、現物を持ち帰ったようですが。。



 筆者はついに葛西に会う機会がなかったが、名越二荒之助は生前に本人に会って申し入れたところ、「銀行の貸金庫に入っている」といわれ、現物は見せてくれなかったそうである。

====引用終了====

もちろん、そんなことが記述された教本があったとされる陰謀論ですが
証拠が無いのです。

その教本が現存するとか
中国共産党が公式に認めるとかあれば良いのですがね。
コメントへの返答
2021年2月7日 22:01
御返信と詳しい御説明をありがとうございます。


当時現地に居た将兵の証言では、日本軍の弾薬食糧は不充分演習の為に不充分であり、此から進んで戦いを仕掛けるものではなかったとあります。


また、以下引用文ですが、


当時、日本軍の支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊は、北京郊外にある盧溝橋から北西約4キロに位置する豊台(ほうだい)に駐屯地(=基地)を置いていた。この第三大隊第八中隊の133名が7月7日深夜、盧溝橋周辺の永定(えいてい)河の河床地帯で実弾を使わない夜間演習を行っていたところ午後10時40分頃、突然実弾射撃を受けた。その後も午後10時50分頃に2回目の実弾射撃があり、翌日の午前3時25分頃、3回目の実弾射撃を受けた。


 3回もの実弾射撃を受けて、その「犯人」が中国の第二十九軍か匪賊(ひぞく)であるかを確かめるため、第三大隊が永定河左岸堤防に向け前進すると、午前5時30分、永定河左岸堤防に布陣していた第二十九軍が一斉猛射撃を開始し、日本側も前夜以来初めてそれに応射、ついに全面衝突となった。これが、いわゆる「盧溝橋事件」である。


 約2時間後、現地での激戦はいったん収まった。以降、8日の午後3時30分頃に戦闘が再発するなど一時的な戦闘はあったものの、概ね小康状態にて推移し、北平(現在の北京)及び盧溝橋城(苑平県城)内で、停戦に向けた交渉が行われ、11日に北平で日本の支那駐屯軍と中国の第二十九軍との間で現地停戦協定が結ばれた。


 しかし、中国側は25日に北平東方の廊坊駅付近で、26日には北平の広安門で相次いで衝突事件を起こした。さらに29日に、北京郊外の通州で中国側の冀東防共自治政府(1935年12月、蒋介石政権から分離して成立した政府)の保安隊が、軍人及び女性を含む日本人居留民を多数殺害する「通州事件」を起こした。かくして日本政府は内地から三個師団を派遣し、全面的な日中対決となったのである。

 ところが、中国共産党政府の歴史教科書では、「最初の一発」にも、停戦協定後に中国側が「廊坊事件」や「通州事件」といった軍事的挑発や在留邦人に対する組織的大量殺害事件を起こしたことにも全く触れておらず、あたかも日本軍側が一方的に戦争を仕掛けたかのように描いている。


一九三七年七月七日夜、日本侵略軍は北平西南の盧溝橋に進攻し、長い間もくろんでいた全面的な侵華戦争を開始した。(中略)

 七日夜、日本軍は盧溝橋北側で盧溝橋進攻を目標とした軍事演習を行った。彼らは一人の兵士の失踪を口実に、苑平県城に入って捜索することを理不尽に要求、中国守備軍に拒絶された。日本軍はすぐさま苑平県城に向けて攻撃を開始した。(中略)双方は盧溝橋で争奪を繰り返した。ほどなくして、日本軍は大量の援軍を集合させ、北平、天津に向けて大規模な進攻を開始した。


初級中学用『中国歴史』人民教育出版社
出典・日本政策研究センター『ここがおかしい中国・韓国歴史教科書』


以上引用終わり。


確かに支那側の陰謀説は東京裁判では却下されてますが、日本側にも無いとされてます。


「飼い犬に噛まれた程度」の通州事件が如何に日支関係に響いたかも考えさせられますね。国民感情からして賠償金で済むだけの問題ではなかったのかもしれませんね。


では残る犯人は共産党?ともなりますが、史料があると云う確たる証拠が無いのですね。確かに其では陰謀論もあくまでも多数ある説の一つとなりますね。


日本の大陸進出を全て正しいとする為にうまく陰謀論を使って居るのか?とも勘繰りたくなりますが、果たして?




2021年2月8日 11:10
主さんの引用分は日本軍に良いように書いています。
史実とまったく違います。
可成り昔、雑誌レベルで陰謀説は取り上げられましたが
史学の世界ではとうに解明されています。


特に下記の引用はひどいですね。
停戦状態にあった日本軍に対して一方的に中国軍が発砲したように書かれています。
盧溝橋事件は日本側に多くの公文章や参加した兵士の証言が残されています。

<3回もの実弾射撃を受けて、その「犯人」が中国の第二十九軍か匪賊(ひぞく)であるかを確かめるため、第三大隊が永定河左岸堤防に向け前進すると、午前5時30分、永定河左岸堤防に布陣していた第二十九軍が一斉猛射撃を開始し、日本側も前夜以来初めてそれに応射、ついに全面衝突となった>

上の第三大隊とは一木大隊の事で上部指揮官は牟田口連隊です。

当時、一木中佐と牟田口大佐の間での電話連絡が戦前文字起こしされています。

(『東京朝日新聞』 昭和十三年六月三十日)より
『蘆溝橋事件一周年回顧座談会』より
一木中佐談話

==下記引用==

 その話を承つてから私は部隊長に今の状況を申上げた
 今しがた又向ふから射つて来ました、これらから考へるとどうも断然盧溝橋を攻撃しなければ爾後の交渉はうまく行かぬと思ひます、私は断然攻撃をしたいと思ひますが部隊長はお許しになりますか
 と申上げた、

 部隊長は暫く考へて居られたやうでしたが「やつて宜しい」と電話口でいはれました、

 私は実は部隊長はまさかやれとは仰つしやらんかも知れぬと思ふ位の腹で申しましたのが本当にやつて宜しいとなると重大問題ですから本当に間違ひないかどうか、本当にやつて宜しいんでありますかといふと牟田口部隊長は

 やつて宜しい、今四時二十分、間違ひない

 とかういふ風に時刻と共に明瞭に言はれましたので私は「やります」と申上げて電話を切つた、


そして応答した連隊長牟田口大佐の談話は
雑誌「大陸」牟田口廉也連隊長『盧溝橋事件の真相を語る』より
昭和13年7月より

===下記引用==

ところが間もなく大隊長から電話があつて『支那側が龍王廟の方からまた射撃をしました。どうしますか』と聞いて来た。この時が恰度四時過ぎであつた。

 私は前々から、今度支那側がやつたら、立ちどころに鉄槌を加へるつもりだ、と言つてゐる手前もあつたが、何しろいま、ここでやるとなると、非常に大きな問題化する惧れがある。

 さうかと言つて、一度ならず二度までも日本軍に射撃を加へて来た支那軍に対して、この際黙つてゐては、皇軍の威信にも関係すると思ふので、全く反対の考へが一瞬、頭の中に渦巻いた。

 然しその次の瞬間私の頭に憶ひ浮んだのは、前の豊台事件の時に、あれほど情けをかけてやつた支那軍に、却つて悪用された貴い体験であつた。これは矢張り、事件を最も迅速に解決するには、過ちを犯したその者に、その場で徹底的に拳骨を喰わす他はないと私は考へたのである。

 私は受話器を持つて、うーむと唸つた。腕時計を見ながら二分間ばかり考へた。『よしツ、断然戦闘開始して宜しい』と言ひ切つた。それは四時二十分であつた。

 私は、ついで自己の責任を明かにする意味において、『隊長が、断然戦闘を開始して宜しい、といつたのは午前四時二十分である。よく覚えておけ』と言ふと、大隊長もまた『午前四時二十分ツ』と復唱する。

 『よし、間違ひなし』といふと、大隊長は元気な声で『それでは、これでお眼にかかれないかも知れませんが、よく御趣旨を体してやります』『健闘を祈るぞ』といつて、電話を切つた。

===引用終了===

第三大隊長一木中佐が直属の上司である牟田口連隊長に攻撃を意見具申し
許可を得たことがわかると思います、

また、当時の状況は両軍に緊張が走り睨み合いの状態で
軍使と中国29軍へ軍使として出た森田中佐が戻ると第三大隊歩兵砲が射撃の準備をしていたので、森田中佐が射撃を止めた状態です。

森田中佐に射撃を止められて困った第三大隊は下の引用のように画策します。

寺平忠輔著 「蘆溝橋事件―日本の悲劇」より
同書126Pより引用
(著者の寺平氏は当時特務機関の桜井徳太郎中佐に同行し盧溝橋城内で中国側と交渉を行っていました)

==下記引用===

その時、歩兵砲隊の伝令が地隙を縫い、コマ鼠のように大隊長の方にとんで来た。

 「大隊長殿、歩兵砲隊長報告、ただいま一文字山に、連隊長代理森田中佐殿が見えております。射撃開始の件は、森田中佐殿が、絶対いかんといって中止を命ぜられましたッ」

 「そりゃあいかん。森田中佐は情況の変化をご存知ないんだ。小岩井中尉、とんで行って情況を報告して来い、そして直ちに射撃を開始させるんだ!」

 小岩井中尉はまっしぐらに一文字山に向って駆け出して行った。

 その直後、荒田中尉がひょっこり顔を出した。

 「大隊長殿、荒田中尉、ただいま北京から戻って参りました。森田中佐殿と同行して参りましたが、中佐殿はいまから不拡大交渉を開始するといっとられます。しかし、敵は明瞭に二十九軍ですなあ! 森田中佐殿はまだ、全然この情況はご存知ありません」

 「そうだろう。それだもんだからいま、歩兵砲の射撃が食い止められてしまったんだ」

 「大隊長殿、このまま演習のような格好で部隊を前進させたらいかがですか。そしたら敵は、きっと射撃して来るに違いありません。その時、断乎反撃を加えたらいいじゃありませんか」

 「確かに一案だ。しかし森田中佐の肚がハッキリつかめん事にはなあ」

 大隊長は眼を前方に転じた。第八中隊はすでに敵前二、三百メートルに近接している。 ―いかん、歩兵砲が協力せんうちから衝突してしまったら、ひどい損害を受けなきゃならん。 ―
~~~~中略~~~~~

大隊本部の書記が、はるか後方から駆けつけて来た。

 「中隊長殿、大隊命令であります。第八中隊は敵の左翼を包囲するごとく直ちに前進、敵が射撃を始めたらこちらも射撃開始」

 中隊長は大きくそれにうなづいた。そして右手を高くあげると、前方に振りおろして、

 「攻 ― 撃 ― 前 ― 進!」と高らかに叫んだ。

 中隊は青々とした草原の上に美事に散開して、分隊交互に躍進を起した。ここから左の方を眺めると、大隊主力もいま、一文字山の方から疎開前進を始めている最中である。

 敵との距離が次第次第に接近してきた。突如、廟の北側のトーチカから、中国軍の将校が一人、ポッカリ姿を現わした。

 彼は両手を広げて、しきりに、「站着、站着!」(停まれ! 停まれ!)と叫んでいる。彼の背後には兵が二名従っていた。

 野地少尉が

 「日本軍は演習のために前進中だッ! 停まれぬ、停まれぬ」とあざやかな中国語で応酬した。敵はそれでもまだ「站着、站着!」を繰り返していたが、急にトーチカの中に姿をかくした。

 瞬間、清水中隊長は、射ってくるぞ! と直感した。大声張りあげて「伏せッ!」と号令したとたん、敵はバリバリッ! と撃続射撃を浴せかけてきた。中隊は直ちに応戦する。これが大隊主力方面の戦闘開始とほとんど同時、いや、実はこちらの方が十数秒早かったのである。

 したがって五時三十分における本戦開始、これは世間に伝えられるごとく、中国軍が一木大隊の攻撃を、頓挫したとあなどって射ちかかってきたのでは決してない。清水中隊に対する対応射撃が原因で、これが全線に波及した、と見るのが至当であろう。

 この点は清水中隊長もまた、確かにその通りだということを自認している。

(同書 P130~131)


===引用終わり====

その後の第三大隊の行動の証言が含まれた文献も日本側の研究者から沢山出ていますが
長くなるので引用はこれくらいにしましょう。

間違いないのは 
① 銃声を聞いた
② 兵が1名行方不明
軍使を出し平和的打開案を模索中に
③ 第三大隊が牟田口連隊長へ意見具申し攻撃許可を得る
④ 軍使にたった森田中佐に攻撃を止められる
⑤ 窮した第三大隊は演習と偽り、中国軍が撃つまで前進する。
⑥ 途中、中国軍兵士が両手を上げて第三大隊の前進を止めに入るが無視して進む
⑦ 中国軍が発砲と同時に反撃

それが盧溝橋事件です。
コメントへの返答
2021年2月8日 15:05
ご返信・長文引用にての貴重な史料のご提示、ありがとう御座います。戦前の記憶まだ新しい時期での証言記録等は将に第一級品でありますね。


戦後数十年も経って巷で色々と広まって居る事に、如何に書き手の思惑が含まれて居るのか?実際の歴史ではなく、講談話が混じって居るのか?が伺えました。

如何せん実際に現場を見て来た訳ではない後世の人間からすれば、様々な資料・史料、そして観点から歴史を学ばねばならんということを改めて痛感致しました。
2021年2月8日 11:20
蛇足ですが
主さんの引用文献
(初級中学用『中国歴史』人民教育出版社
出典・日本政策研究センター『ここがおかしい中国・韓国歴史教科書』)


日本政策研究センターは日本会議の関係先で
昔の「生長の会」との関係の深い団体です。
余りにバイアスの掛かった団体の教科書を引用するのは
ちょっと危険ですね。
それは歴史学でなく宗教ですからね。
コメントへの返答
2021年2月8日 15:14
成る程、私の引用した資料にも何らかの思惑が入り交じって居る可能性が高いのですね。此は今後は注意せねばなりませんね。


例えば所謂「大東亜戦争肯定論」的な戦前戦中の評価、記し方と、日本共産党の「赤旗」に書いてある歴史とは全く正反対であります。


読んで居て「どちらが正しいのか?」と云う疑問や疑念が、其の内に自分自身の中で「いや、此はこうであるべきだ、此が正しいのだ」と思いたい方向づけだけに視野が狭まって来るような感じも客観的に見ればして居ります。


歴史とは記す立場・イデオロギーからすればいくらでも変わって来てしまう。と云うのを改めて感じました。


2021年2月10日 15:24
所謂、「大東亜戦争肯定論」は
今の日本では無理があるでしょう。
例えば戦後の歴代首相が先の戦争を肯定すると
失職するのではないでしょうか?


私はイデオロギーは
自民党でも共産党でも公明党でも
創価学会でも関係ないですが
歴史的な事実を捻じ曲げるのは良くないと思うだけです。
また歴史的事実に対して
政治的思想から「自分はこう思う」または「私はああ思う」は
勝手にすれば良いでしょうね。

ようするに
盧溝橋で中国軍の挑発に耐えかねて
牟田口連隊が攻撃開始した。はオカシイと言っています。

司令部の許可なく攻撃した牟田口連隊長は
本来なら軍法会議モノですよ。
また、冷静に状況判断すれば日本軍に被害者は無く
銃声が聞こえたとしても近くに着弾したわけでもないですから
攻撃する理由になりません。

許可なく攻撃開始した事が
よく言われる「軍部の暴走から日中戦争が始まった」です。

コメントへの返答
2021年2月12日 22:18

許可なく攻撃開始した事が
よく言われる「軍部の暴走から日中戦争が始まった」です。

ご返信ありがとうございます。

上記の一文が絶妙に腹に落ちました。

イデオロギーなんぞに囚われずに歴史的事実だけをしっかり見据えて行く。非常に御聡明であると感じます。


政治思想やら何やらを全て抜きにして、歴史的事実・結果だけを冷静に見据えれば、牟田口連隊長の攻撃開始が後々の多大な犠牲を払った大敗戦に繋がったとも言えそうであり、そうなると軍法会議だけでは済む問題ではないのかもしれません。


此は私の個人的な意見ですが、やはり下の兵隊を沢山殺した上級司令部の人間は、腹を斬ってしかるべき、と思います。


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何シテル?   05/27 09:34
NAのパカ目ライトに惚れ込んでおりマス♪ 免許をとって最初に乗ったのが、当時父の 所有する赤のNAでした。 今ではありませんが、 就職を機に私が...
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