
新幹線の食堂車営業が終わったのって、いつ頃でしたっけ ?
というわけで今ちょっとwikiを見てみたら2000年だそうですね、東海道・山陽新幹線の食堂車営業終了時期って。
0系の食堂車が1995年、100系の食堂車が2000年、そうかー、もうそんな昔のことなんですね。
タイトル画像は先週訪れたリニア・鉄道館で撮った0系食堂車の入り口の満席表示、ああ、ありましたよね、覚えてますよ、私間違いなく。
いいなぁ、旅情を感じますよね、このサイン看板。
私は父の転勤の関係で1974年から1979年まで福岡市に居住していましたから、当然何度も帰省で新幹線を使ったことがあるわけで、記憶はおぼろげではありますが食堂車に行った覚えもあります。
なにしろ当時の東京・博多間は6時間56分もかかっていましたから、途中に食事をとる必然性は十分にあったのでしょう。
ビュフェの記憶は全くありませんが、行ったことなかったのかな ?
それにしても16両の編成中に食堂車とビュフェを組み込んでいたというのは、現代の感覚からするともったいないということになってしまうのかもしれませんね。
食堂車を連結するよりも、もっと座席数を増やしたほうが利用客にとってもありがたい状況でしょうからね、今では。
さて、それでは撮ってきた食堂車の画像をアップしてみます。
適当にササッと撮っただけなのですが、今にして思えばもっとメニューに寄って内容が読めるように撮影すれば良かったですね(汗)
ここまでが0系の食堂車ですね。
通路を設けているのでテーブルは4人掛けと2人掛け、確か最初は通路側には窓は設けられてなかったんでしたっけ ?
何かでそんな記述を見た覚えがあるな。
これが2階建車両の100系の食堂車ですね。
1階に通路を設けられるのでテーブルは両側ともに4人掛け、この2階建食堂車の記憶はないのですが、それは私がもうすでに関東に戻ってきていて、新幹線に乗る機会もなくなっていたからでしょう。
うーん、この2階建の食堂車、一度は経験してみたかったな。
というか、100系新幹線そのものに乗った記憶がないんですよね、私。
社会人になって、出張に行くようになった時には、もう300系のぞみが運行されていましたしね。
私が社会人になったのが1991年、のぞみの運行開始が1992年ですから、時間に追われるビジネスにおいてあえて100系のひかりに乗るような選択肢はなかったのでしょう。
おかしいなぁ、私も鉄ちゃんの端くれなのになぁ、こういう場合まだ走っていたであろう100系を選びそうなものですけど・・・
それにしても、昔の新幹線の時刻表には食堂車マークが掲載されていて、一種の憧れを抱いていましたよ。
私の記憶では、東海道・山陽新幹線の食堂車営業は「日本食堂」「帝国ホテル」「都ホテル」「ビュフェとうきょう」の4社が受け持っていたような。
多分それで合っていると思うのですが、日本食堂の営業が一番多かったような気がします。
帝国ホテルが一番格調高そうではありますが、当時食べ比べなんかを楽しんでいたビジネスマンもいたんだろうなぁ、なんて思うと羨ましさがこみ上げてきますね。
一番レアだったのが「ビュフェとうきょう」じゃないかしら、なんて思うのですが、この会社、今のJR東海パッセンジャーズなんですってね。
そう考えると非常にお世話になっている気がします。
そういえばメニューの画像も撮ってきたのでアップします。
(あまりよく読み取れませんね、スミマセン)
割と後期の頃のメニューでしょうか。
ま、いずれにしても古き良き時代だったということですかね。
もちろん今の新幹線だって食事の楽しみがないわけではないと思いますけど。
私は2006年から2010年まで京都に転勤で赴いていたわけですが、そうするとある程度頻度高く新幹線で東京往復をする機会があるわけで、その時は東京駅のグランスタでお弁当とちょっとだけお酒とおつまみを購入してのぞみに乗り込むのが楽しみでした。
東京での仕事を終えてちょうど夕食の時間帯にかかるようなのぞみを選んで、そのために会社の連中の飲みの誘いも断って(笑)、あれは本当に楽しいひと時だったなぁ。
不思議なことに京都に近づいてトンネル抜けて京都タワーが見えてくると、あー帰ってきたなぁ、なんて気持ちになったんですよね、関東人の私でも。
そうそう、私、グランスタではいつも「マンゴツリー」のガパオとか、割と臭いのきついタイ料理を好んで選んでいたのですが、周囲の座席の方にひょっとしたら顰蹙を買っていたかもしれませんね(爆)
Posted at 2016/07/27 22:34:07 | |
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