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ひがしかぜのブログ一覧

2025年07月07日 イイね!

ザ・ドリフターズ展

ザ・ドリフターズ展京王百貨店新宿店で「ザ・ドリフターズ展」なるものをやっていたので立ち寄りました。

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2024年、日本が誇る国民的グループ「ザ・ドリフターズ」が結成60周年を迎えました。

音楽とコントに全力を注いだ5人による輝かしい“歴史”と“笑い”は今もなお時代を越えて受け継がれ、ドリフの魅力として日本中に笑いと感動を届けています。本催事では、結成初期のミュージシャンとしての活動やコメディアンへと進化してからの数々の厳選コント、その後もマルチに活躍を広げたメンバー5人の軌跡を映像・音楽・数々の秘宝とともにあますことなくその魅力をご紹介します。
さらに会場限定グッズも要注目です!是非、ご期待ください。

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 「8時だよ、全員集合」は小学生時代に観ていましたが、元はバンドということは“噂で聞いた”くらいで詳しくは知りませんでした。今ならアウトな演出もあったかもですし今にして思えば品がないものがある(今の“お笑い”もそうじゃないの?)当時はそれなりに良かった。昭和ですし、ネットはおろかパソコンもない時代です。スマホ?何それ(笑)
 全員集合の番組自体は結構長く続いていたようですが、自然に卒業してみなくなりました。タイミング的に小学校高学年~中学時代はYMOにハマり無線関係を始めた時期になります。ドリフはそれ以前の時代のことになりますので、音楽的には(私にとっての)歌謡曲の時代です。



さて、今回の展示はバンド時代もあって、よく知らなかったぶんそっちの方がメインですね。Wikipedia にも出ていますが、

1966年6月30日と7月1日、ビートルズ日本公演の前座を務めた(7月2日は出演せず)。僅か1分15秒の出演時間ではあったが、前座用のステージではなく、ビートルズと同じメインステージで演奏した(ただし、加藤のドラムセットはリンゴ・スターのものとは隔離されていた)。これをきっかけに、ドリフが注目されるようになる。なお、加藤茶は、ビートルズの前座はしたものの、警備が厳しくビートルズのメンバーには会えなかったと語っているが、いかりやは自著で(ドリフ側が)舞台から退場するときにすれ違ったと記している。

.......とほぼ同じ文面の説明書きがあり、更に「日本人のバンドで日本武道館で初めて演奏したのはドリフターズ」との情報も書かれていました。この件確認しますと、前座なので“ライブをやった”と言うのかは言葉の問題として、事実と判明しました。
 日本武道館にはライブ参戦で何度も行ってますが、これって凄いことですよね。ドリフターズは元はバンドという話は小学生の友人経由で入ってきましたが、この情報はその時は知りませんでした。ちなみに、武道館は音楽のためのスーペースではなく特に音がいいわけでもないのにポピュラー音楽関係の“聖地”と化しているのは元をただせばビートルズ効果じゃないかと思うのですが.....



続いてコント時代の展示になります。いろいろ当時の品がでてきますが、「下品」な件については現地では「保護者が眉をひそめたり」と軽く触れる程度。wikiには


撮影用ではあるが、ケーキや鶏卵、スイカや牛乳などといった食べ物を粗末にするネタ、下品なコントが多く、また「金たらい落しや一斗缶で殴るなど、子供が真似ると危ない」などという名目の内容も含めてPTAの目の仇にされたが、メンバー以外の他人の誹謗や中傷をネタにすることはなく[要出典]、かつ素人いじりをしなかった。また、体を張ったギャグや音楽ネタも多い。いかりやの著書によれば、いかりやが米兵相手にコミックバンドをしていた体験からこのような芸風を後々まで引き継ぐことになったという。

とあります。アメリカ人に合わせるとああなるのか?

当時放映された映像に見入ってる老人のような人もいました。私はそこまでではありませんでしたが、ちょっとした人生の「答え合わせ」の一環になりました。
この展示がないとドリフターズについて振り返ろうという気にはなってなかったかもしれません。

 ついでにコレ↓ 弾いてみようとかというオマケつき。耳コピしようと思ったらYouTubeにTAB譜アリ。
今思えば、小学生の自分にはこれはベースという楽器で.......という認識もなったんじゃないか。






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Posted at 2025/07/13 11:26:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | アート | 日記
2025年06月21日 イイね!

【図録のみ】古代DNA展ー日本人のきた道ー

【図録のみ】古代DNA展ー日本人のきた道ー 遺跡から発掘された古代の人々の骨に残るごく僅かなDNAを解読し、人類の足跡をたどる古代DNA研究。近年では技術の発展とともに飛躍的な進化を遂げ、ホモ・サピエンスの歩んできた道のりが従来想像されていたよりもはるかに複雑であったことが分かってきました。本展では、日本各地の古人骨や考古資料、高精細の古人頭骨CG映像などによって、最新の研究で見えてきた遥かなる日本人のきた道と、集団の歴史が語る未来へのメッセージを伝えます。

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上野の国立科学博物館の企画展、行こうと思っていたのですがタイミングが合わず(というより怠慢で)結局行けず、図録のみ取り寄せました。図録がよくまとまっているという評判をXで見たのですが、もともと関心の高い分野でした。



いろいろなことを起源や歴史を掘り起こして考える習性、例えば

宇宙、生命、人類、日本人 等の起源

など。日本人の件では古墳探索や、淡路・伊勢などの探索歴があります。また、結局理系に進んだものの、元々は(小学生くらいの時は)古代史や考古学に興味があったことは既出で、その後も趣味的関心はありましたが、いくつか問題点もありました。

■世界史をやらずに日本史だけからみたときに「日本人の起源」「日本の起源」は神話時代となり、実際に何があったのか、若干の“神秘性”に覆われていた。
■昔はDNA解析などはなく、真面目に学んでいたとしても知見に限界があり。
■弥生時代の始まりも、私の以前の感覚より500年以上早まっていた。

実際には、今の時点で弥生時代の始まりとされる紀元前10世紀~は中国では周~春秋戦国~秦の時代であり、もはや“先史時代”ではなく文字記録のある歴史時代ですから、神秘性なんて何もないわけです。

 図録はわかりやすく分厚過ぎず良い感じでした。内容の詳細は省きますが、これを読むに、技術の進歩でいろいろなことが客観的に言えるようになっている、特に私がフリーターなって以降も進歩があり、これでは感覚がどんどん時代遅れになっていくのもうなずけます。図録は考古学と人類学に徹して歴史学に踏み込まないようにしているようでした。端的には、年表に中国の王朝を重ねるといろいろ見えてくると思いますが、あえて❓そうしなかったり。




 これまでの感覚では、弥生系=稲作=天津神系、大和政権 ⇔縄文系=国津神系 というイメージで、弥生以降のいわゆる日本人の起源は長江文明、で私の頭の中では一応この話は終わってました。しかし、実際はそう単純ではなく....

弥生系が縄文系をある時点で上書きしたというものではなく、混血は連続的で地域差もあるのですが、特に、渡来系弥生人の遺伝子を分析するとそのかなりの部分の起源が中国東北地方らしい。この辺りは稲作ではなく畑作のイメージですが。そうすると、人間の出身地としては中国東北地方がメインで朝鮮半島に移動、その付近で稲作を取り入れて日本列島に入ってくる、ということが考えられます。

さて、弥生時代前期は周の時代→その後春秋戦国時代、既に先史時代じゃないのだけど、渡来系弥生人は避難民なのでしょうか。言い切れませんが、仮に避難民あるいは新天地を求めた開拓者として、皇室の祖先に率いられた大所帯で来たのか、族長に率いられた小集団がパラパラと入ってきて列島内でまってきたのか、と言えば多分後者でしょう。
もし皇室の祖先に率いられて大所帯で入ってきたのなら中国側の歴史に何か記録があってもおかしくはないですね。なにせ、日本にとっては神話時代でも向こうにとっては歴史時代に入ってるので。

 つまり神話は結果論でいろいろ言ってますが、元から皇室の祖先が日本統一する運命だったのではなく、その可能性がある族長は多系統あったということです。出雲とかニギハヤヒとか縄文系(国津神)とも弥生系(天津神)相互とも争いがある。そして滅ぼされずに臣従した者は宗教的権威としては残ったり自治を認められたり、そうしなければならないくらいの勢力があり間接統治でなんとかなった、という話でしょう。天照の…とは言っても今も昔も絶対王政はないわけです。明治維新以降の軍服を着た明治天皇のイメージや大日本「帝国」のイメージを重ねると間違えます。



 この件も頭の中で何十年も続いていますが、日本人の起源に関する思索は若干アップデートされて、今のところこのようなイメージです。

(↓ 取り寄せた図録と、小学生の時から持っている銅鏡の文鎮)


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Posted at 2025/06/21 09:37:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | アート | ビジネス/学習
2025年03月18日 イイね!

ラムセス大王展 ファラオたちの黄金

ラムセス大王展 ファラオたちの黄金ラムセス大王展

古代エジプトから伝説の至宝がやってくる!
エジプト史上「最も偉大な王」と称されるラムセス大王(ラムセス2世)とその時代にまつわるエジプトの至宝180点を展示するラムセス・ミュージアム。

本展はエジプト政府公認の展覧会。古代エジプト展として最⼤級の 展覧会であり、3000年以上前の古代エジプトのアーティファクツ・芸術品を、最⾼の状態に管理・保存しているエジプト考古最⾼評議会特別⽀援のもと180点展⽰します。

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 Xで情報が流れてきたラムセス大王展、いま世界史の自習していることもあり目に留まりました。高校世界史で出てくるのはカデシュの戦いの時のファラオというイメージが強そうです。実際にはそれだけではない統治に関することはいろいろあるハズですが。

 会場はゆりかもめの豊洲市場駅から歩いてすぐの場所でした。こういう展覧会はわざわざ混んでいる時に行っても殆ど意味がないと思っていますので、たまたま仕事が入ってない平日を狙いました。展示は黄金がちょうどいい感じに見える照明や美しいCGの再現映像とBGMがなかなかよく、混んでガヤガヤした時に行くのは勿体ないです。展示物の間隔も広くてゆったりとした感じです。なお、当日券だと平日は入場料が200円安い(といっても4100円)。

 さて、内容をここで解説するのは大変ですので止めておきます。今購入した図録を観ながら復習しています(この図録というのが7000円!)


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ただ、注目のカデシュの戦い(BC1274年)
エジプト「勝ったァ圧勝」
ヒッタイト「せいぜい引き分け」

これ単に“普通盛るでしょ”ではない面もあるかもしれません。

 展示では解説のナレーション「ヒッタイトによると引き分け程度」という音声と文字がちょっと出て、その後でラムセス大王の映像が「我は勝った。我のみが!」と圧勝を誇る姿で出て気ました。両論併記とは言え「ラムセスすげ~」という印象が強く残る演出になってます。まあ主役はラムセスさんですからそうなりますかね。

 初めエジプト側がヒッタイトに急襲され危機一髪というところで増援が到着しヒッタイト軍を弾き返したことになっていて、このときコテンパンにやっつけたというのがラムセスさんの主張ですが......... 私は増援により態勢が不利になったとみてヒッタイト側が敗走ではなく自ら撤退したんじゃないかと想像します。それでヒッタイト側がカデシュを確保し続けてるので、防衛目的は達成できてます。ヒッタイトが「せいぜい引き分け」というのは本当は「ヒッタイトの勝利」と言ってもいいくらいかもしれません。エジプトは目的達成してないですけど大逆転劇だったのでその場にいた人は気分的に勝ったと思ってもおかしくはないです。そして、後日「世界最古の平和条約」を結びヒッタイトの王女とラムセスさんが結婚してますね。

 ヒッタイトがエジプトに花を持たせてやったようにも見えてきますが......

この件はもう少し考えてみようと思います。


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2025/03/22 追記 考察結果
展示では解説のナレーション「ヒッタイトによると引き分け程度」という音声と文字がちょっと出て、その後でラムセス大王の映像が「我は勝った。我のみが!」と圧勝を誇る姿で出て気ました。両論併記とは言え「ラムセスすげ~」という印象が強く残る演出になってます。まあ主役はラムセスさんですからそうなりますかね。


さて■カデシュの戦い(BC1286年→資料によってはBC1274年)の経過についてはネット上にもありますが、①今回の展覧会の図録と②『地図とタイムラインでわかる戦争の世界史大図鑑』というものも参照しています。詳しいことは省きますが、

 初めエジプト側がまだ全軍集結していないところをヒッタイトに急襲され危機一髪というところで増援が到着しヒッタイト軍を弾き返したことになっていて、このときコテンパンにやっつけたというのがラムセスさんの主張ですが......... ヒッタイト側の記録もみつかり「せいぜい引き分け」となっているらしいです。エジプト側の記録の日本語訳は流布していますがヒッタイト側については「せいぜい引き分け」以外に詳しい情報がなくて限界がありますが..
 

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◆資料①p124 「ヒッタイト軍はラムセスの怒りに直面するよりもオロンテス川に身を投げて逃げた」

◆資料②p14 「ヒッタイト軍はエジプト軍に追撃されることなく、オロンテス川の東側に退却」

◆資料②p15
「撃退されたヒッタイト軍は川を渡って退却した。エジプトの記録ではムワタリが停戦を申し入れたという。エジプトがカデシュを占領しなかったのは包囲攻撃用兵器がなかったせいと思われる。エジプト軍は大勝を主張して南に退却したが、アムルはその後もヒッタイトの支配下に残った」

□要約□
怒りに直面するよりも=決戦を避け(身を投げてというのは文学的表現として)追撃されることなく退却できた、エジプトは大勝というが実効支配はヒッタイトが握ったままであった。
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  私は増援により態勢が不利になったとみてヒッタイト側が敗走ではなく自ら撤退したんじゃないかと想像します。エジプトとしても一度は敵を退けた(≒逃した?)もののそれ以上攻める余力はなかったのが実態ではないか? 私のお気持ちの問題ではなくて資料がそのように(も)読めるということです。それでヒッタイト側がカデシュを確保し続けてるので、防衛目的は達成できてます。ヒッタイトが「せいぜい引き分け」というのは本当は「ヒッタイトの勝利」と言ってもいいくらいかもしれません。エジプトは目的達成してないですけど大逆転劇だったのでその場にいた人は気分的に勝ったと思ってもおかしくはないです。そして、後日「世界最古の平和条約」を結びヒッタイトの王女とラムセスさんが結婚してますね。

 ヒッタイトがエジプトに花を持たせてやったようにも見えてきますが......

 実際はその後も暫く対立した後での平和条約でアッシリアという共通の敵が大きくなってきたことも関係しているのですが、この戦い以前にもヒッタイトとエジプトは闘ったり約定を交わしたり小競り合いして勢力争いをしていました。相手を滅ぼそうという戦いではなくて「落としどころ」というものがある戦いでもありました。

 その後エジプト国内での盛った広報をヒッタイト側からみたら「はいはい、そういうことにしておいてやるわ」くらいのノリだったかもしれません。あるいはエジプトは「大勝を主張して帰った」というのですけど、今日の敵は明日の味方、「講和も考え相手の面子に配慮する」ということもあったかもしれません。


 ということで、ラムセスさん自身は前線で自ら奮闘し眼前の敵をコテンパンにやっつけ王自ら戦士としての威を示したが、全体としては大人の解決で終わった戦いではなかったか。

→→ というのが正解かどうかはわかりませんが、あくまでも趣味ですからね。ちょっと踏み込んで考えてみること自体が楽しいものです。



Posted at 2025/03/20 16:36:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | アート | ビジネス/学習
2024年07月21日 イイね!

【特別展】 大航海時代へ —マルコ・ポーロが開いた世界—

【特別展】 大航海時代へ —マルコ・ポーロが開いた世界— 仙台遠征の際に仙台市博物館に立ち寄りました。遠征先の美術館や博物館に行く行動パターンは以前からあります(三重県界隈など)。その時の特別展が「大航海時代へ —マルコ・ポーロが開いた世界—」だったのですが、仙台ということで伊達政宗のイメージが強くて政宗とは関係ないじゃん?と思っていたら、政宗もローマに使節派遣していたことで少しかすってました。しかし、この企画はいろいろな場所を巡っていまして、調べてみると 2022年7月~9月は池袋のサンシャインでやっていたようです。なので仙台で政宗とかは偶然で基本その筋ではないのでした。

さて、見て回るだけならアートのように観ることになり、特に数百年前の紙の本の現物や当時の世界地図などが印象的でしたが、内容に踏み込むならばアートというより世界史の教養番組となります。


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モンゴル帝国と大航海時代。この二つの大きな時代は、マルコ・ポーロ(伊:1254~1324)と彼が残した『東方見聞録』を一つの結節点として繋げることができます。本展では、シルクロードの発展から、モンゴル帝国の時代、そして大航海時代まで、奈良県にある天理参考館と天理図書館の貴重な所蔵品を一堂に会し紹介します。
 シルクロードを旅したマルコ・ポーロの旅行記『東方見聞録』は、のちに多くの写本を生み出して、大航海時代に活躍した人たちのガイドブックとなりました。この書が描く幻想的かつ富と黄金に満ちた東洋(中国とジパング)のイメージは大航海時代を切り開く冒険心の原動力となりました。大航海時代は世界史上はじめて、人・物・文化の交流が全地球規模で始まった時代であり、その波は日本に到達して南蛮文化として華開きます。大航海時代は、いま我々が生きている現代社会へとつながる大きな転換点といえる時代なのです。
 大航海時代の冒険者たちは、間違った地図と『東方見聞録』を手がかりに大海原を渡ります。本展を通じて、彼らの夢と冒険のわくわく感をお伝えできれば幸いです。

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 現地でじっくり内容を理解するのは時間的に難しく、そのためには図録を見返す、というより中の文章を帰宅後に読むことになります。大まかな流れは「世界史」に出てくるものですが、言葉の端々に受験勉強上のイメージとは異なるいろいろな気付きがありました。 一つ気になったのは、大航海時代到来の歴史的経緯が歴史の必然?のような感じで綴られてるんですけど、実際には正確な時計(マリンクロノメーター)が出てきて航海が可能になったという面もあるので、"時代の要請"がどうであれ技術的にできないことはできないわけです。機械式時計を集めたりしていた私としては、時計に関して展示や記述が全くないのはちょっと物足りなかったです。

Posted at 2024/08/06 22:29:42 | コメント(0) | トラックバック(0) | アート | ビジネス/学習
2023年12月11日 イイね!

KISS 浮世絵 (石川真澄 作)

KISS  浮世絵 (石川真澄 作) 自宅で無線だけでなく楽器練習やいろいろ勉強もする態勢を構築しようとしていまして、音楽部屋作成に着手しました。その際、自宅内を探索してモノを整理してスペースを空けるのですが、浮世絵を発掘しました。何年眠っていたのやら。

 これはかなり前にKISS来日前後にKISSを題材にした「本物の浮世絵」が製作され一般販売されたものです。浮世絵は版画だと思っていましたが

浮世絵の作品形態は、肉筆画(筆で直に描いたもの)と木版画(印刷物)に分かれ、後者は一枚摺と版本(書籍)に分かれるが、庶民に広まった背景として、大量生産とそれによる低価格化が可能な版画形式があげられる(Wikipedia による)

ということです。今回発掘したこの絵は25万円くらいではなかったか? 「バンドグッズ」にそこまで出す意識ではなかったと思います。むしろたまたまKISSを題材にしているが、アート購入で浮世絵という文化の存続に微力ながら寄与するような感覚ではなかったか。ちなみに作者の“石川真澄“で検索してみると現代の浮世絵師としての活動がいろいろ出てきて、「浮世絵とはロックな表現」だそうです。

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Posted at 2023/12/11 15:25:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | アート | 音楽/映画/テレビ

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