遺跡から発掘された古代の人々の骨に残るごく僅かなDNAを解読し、人類の足跡をたどる古代DNA研究。近年では技術の発展とともに飛躍的な進化を遂げ、ホモ・サピエンスの歩んできた道のりが従来想像されていたよりもはるかに複雑であったことが分かってきました。本展では、日本各地の古人骨や考古資料、高精細の古人頭骨CG映像などによって、最新の研究で見えてきた遥かなる日本人のきた道と、集団の歴史が語る未来へのメッセージを伝えます。
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上野の国立科学博物館の企画展、行こうと思っていたのですがタイミングが合わず(というより怠慢で)結局行けず、図録のみ取り寄せました。図録がよくまとまっているという評判をXで見たのですが、もともと関心の高い分野でした。
いろいろなことを起源や歴史を掘り起こして考える習性、例えば
宇宙、生命、人類、日本人 等の起源
など。日本人の件では古墳探索や、淡路・伊勢などの探索歴があります。また、結局理系に進んだものの、元々は(小学生くらいの時は)古代史や考古学に興味があったことは既出で、その後も趣味的関心はありましたが、いくつか問題点もありました。
■世界史をやらずに日本史だけからみたときに「日本人の起源」「日本の起源」は神話時代となり、実際に何があったのか、若干の“神秘性”に覆われていた。
■昔はDNA解析などはなく、真面目に学んでいたとしても知見に限界があり。
■弥生時代の始まりも、私の以前の感覚より500年以上早まっていた。
実際には、今の時点で弥生時代の始まりとされる紀元前10世紀~は中国では周~春秋戦国~秦の時代であり、もはや“先史時代”ではなく文字記録のある歴史時代ですから、神秘性なんて何もないわけです。
図録はわかりやすく分厚過ぎず良い感じでした。内容の詳細は省きますが、これを読むに、技術の進歩でいろいろなことが客観的に言えるようになっている、特に私がフリーターなって以降も進歩があり、これでは感覚がどんどん時代遅れになっていくのもうなずけます。図録は考古学と人類学に徹して歴史学に踏み込まないようにしているようでした。端的には、年表に中国の王朝を重ねるといろいろ見えてくると思いますが、あえて❓そうしなかったり。
これまでの感覚では、弥生系=稲作=天津神系、大和政権 ⇔縄文系=国津神系 というイメージで、弥生以降のいわゆる日本人の起源は長江文明、で私の頭の中では一応この話は終わってました。しかし、実際はそう単純ではなく....
弥生系が縄文系をある時点で上書きしたというものではなく、混血は連続的で地域差もあるのですが、特に、渡来系弥生人の遺伝子を分析するとそのかなりの部分の起源が中国東北地方らしい。この辺りは稲作ではなく畑作のイメージですが。そうすると、人間の出身地としては中国東北地方がメインで朝鮮半島に移動、その付近で稲作を取り入れて日本列島に入ってくる、ということが考えられます。
さて、弥生時代前期は周の時代→その後春秋戦国時代、既に先史時代じゃないのだけど、渡来系弥生人は避難民なのでしょうか。言い切れませんが、仮に避難民あるいは新天地を求めた開拓者として、皇室の祖先に率いられた大所帯で来たのか、族長に率いられた小集団がパラパラと入ってきて列島内でまってきたのか、と言えば多分後者でしょう。もし皇室の祖先に率いられて大所帯で入ってきたのなら中国側の歴史に何か記録があってもおかしくはないですね。なにせ、日本にとっては神話時代でも向こうにとっては歴史時代に入ってるので。
つまり神話は結果論でいろいろ言ってますが、元から皇室の祖先が日本統一する運命だったのではなく、その可能性がある族長は多系統あったということです。出雲とかニギハヤヒとか縄文系(国津神)とも弥生系(天津神)相互とも争いがある。そして滅ぼされずに臣従した者は宗教的権威としては残ったり自治を認められたり、そうしなければならないくらいの勢力があり間接統治でなんとかなった、という話でしょう。天照の…とは言っても今も昔も絶対王政はないわけです。明治維新以降の軍服を着た明治天皇のイメージや大日本「帝国」のイメージを重ねると間違えます。
この件も頭の中で何十年も続いていますが、日本人の起源に関する思索は若干アップデートされて、今のところこのようなイメージです。
(↓ 取り寄せた図録と、小学生の時から持っている銅鏡の文鎮)
Posted at 2025/06/21 09:37:00 | |
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