
先日(5日)に埼玉県比企郡ときがわ町に出かけました、その際
嵐山町藤塚という地名がナビ上に現れいかにも富士塚がありそうな感じですが、以前に精力的に富士塚探索した際にたどり着いた
大蔵神社でした。
帰りには菅谷館跡に立ち寄りました。ここには
以前も来ていますが、その時は
埼玉県立嵐山史跡の博物館を見ただけで城郭は見ていませんでした。まずは博物館に行ってみると、
畠山重忠と民話を語るおばあさん人形が動かなくなっている。ここには比企郡の城郭全般の解説もあります。城郭は堀が良く残っていました(フォト:
https://minkara.carview.co.jp/userid/946290/car/796726/3136726/photo.aspx)
治承4年(1180)、源頼朝が石橋山に挙兵した時、父重能が平家に仕え在京していたため、弱冠17歳の重忠も平家方に属し、頼朝方の三浦氏を討ちました。しかし、その後まもなく頼朝に仕え、鎌倉入りの際には先陣を務め、宇治川の合戦や一の谷の合戦、あるいは奥州藤原氏の征討などで多くの手柄をたてたことは、『平家物語』などに詳しく記されているとおりです。また、地元では児玉党と丹党との争いを調停するなど、武蔵武士の中心人物として人々の信望を集め、頼朝からも厚く信頼されていました。頼朝死後も和田義盛らとともに御家人の実力者として活躍し、その名を高めましたが、幕府内部の勢力争いにまき込まれ、北条氏の陰謀により42歳の若さで武蔵国二俣川(現在の横浜市旭区)に非業の死をとげてしまいました。 鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡』によると、元久2年(1205)6月19日、鎌倉に異変ありとの急報に接した重忠は、わずか134騎の手勢を率い「小(=男)衾郡菅屋館」を出発し、同月22日、二俣川で雲霞のごとき北條勢の待ち伏せに遭い、子息・郎党ともども討死したとあります。
畠山重忠という人物も詳しく調べてみる価値ありそう、優れた人物が権力闘争で排除されたという筋書きですが、判官びいきとは違う感じもありますので(源義経のほうは素直?すぎて政治的センスがあまりになかったという印象を持っていますが)
この日戦国IXAでノートPCのバッテリーが切れました。このため淡路対策でインバーター購入。

Posted at 2012/06/07 23:58:38 | |
トラックバック(0) |
城 | 旅行/地域