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ロンバードのブログ一覧

2024年09月22日 イイね!

私のミャンマー 22


21からの続きです。

ごめんなさい寄贈のニプロ製透析器4台のヤンゴン到着、通関にメドがたち、それに合わせて2001年2回目の出張訪緬になりました。

約一週間のヤンゴン市滞在です。まずは、ミャンマー保健省(以下MOH)のInternational Health Division(以下IHD)のペー課長にご挨拶と、FAXでやり取りしているMRIのこととかの相談を。

その後は、東京のミャンマー大使館のアンナン大使(元ミャンマー軍の軍医)から、ヤンゴンの軍病院を見学してきなさいと言われたことを言うと、びっくりされ困惑されているように見えました。そこで私は、”このアポはすでに取れています。課長にそのようなことをお願いするものではありません”というと安心されたようでした(笑)。同じ医療、病院でも、軍との繋がりはないようですね。

その後は、今回の滞在中に訪問する国立病院の訪問許可をお願いしました。

ごめんなさい寄贈の4台の寄贈先は、ヤンゴン総合病院(以下 YGH)2台、サンピア総合病院(以下 SGH)1台、マンダレー総合病院(以下 MGH)1台です。この3病院は全て医科大学の研修病院でおあります、日本的に言えば大学附属病院ということになると思います。そして、全てに小児科がありません。小児科は小児病院という専門病院にて対応しています。

この2001年時点では、ミャンマーには以下の4つの医科大学があります。

ヤンゴン市  ヤンゴン第一医科大学(以下UM1)、ヤンゴン第二医科大学(UM2)
マンダレー市 マンダレー医科大学
マグウェイ市 マグウェイ医科大学

監督省庁は、保健省で文部省ではありません。医科大学受験は、高校の最終学年で全国統一テストがあり、その得点で決まります。得点が足りた場合の進学先はその生徒の居住地で決まります。一度保険省の職員(医師)に ”ならヤンゴンに住んでいるよりマグウェイに住んだ方が合格しやすいのでは?”と聞いたことがあります。その返答は、”まあそんなに違いはないよ”でした。本当かなってことは思いましたが、ヤンゴン、マンダレー以外の地での受験勉強には難しいものもあるようですね。

まずは、YGHを訪問しました。

院長に面会して、挨拶を。院長にはもう数回会っています。院長からは”新しい透析器をありがとう!”とお礼を言われまし。

透析室のチダ医師を訪ねます。そこには寄贈したニプロ製の透析器がありました。ここに至るまでに数回この透析の部屋を訪ねています。そこを仕切る看護師長さんは以前は少しつっけんどんの対応でしたが、数回の面会と新しい透析器で対応が違いました(笑)。まあ、チョコレートなどの土産も効いていると思います。
前回の時に感じたことがありました。それはこの透析室にある透析器はデジタル的な透析器ばかりで、最初にD会が持ち込んだ透析器は、アナログメーターとかつまみを捻って色々調整するものでした。なので、ここのスタッフの反応は悪かったように覚えています。つまり”めんどくせー”ということだと思います。
でも、今度のニプロ製は現行器ですから、ちゃんとデジタル表示になっていますし、オートのような機能もありましたので、皆さんはホッとしているように見えました(笑)。

チダ医師からは、透析器(使用できる)が3→5台になり、RO器(浄水器)もキャパが10台の物になり大変喜んでいらっしゃいました。3台の時はキャパ不足で私立病院に行かざるを得ない患者がいたけど、私立病院は透析代が高額なので患者は助かるよと言っていただきました。患者が増えたことに驚きましたが、この寄贈が役に立ってるっていうことで嬉しかったですね。

そしてMRIのこともあり、YGHのミンチュー医師(UM1の教授で、ミャンマーの放射線科の一番)に初めてお会いしました。そのミンチュー医師にYGHの放射線設備を見せていただきました。8台くらいレントゲン機(単純撮影)がありましたが、30年以上も前のものも。MRI、CTは近くの新ヤンゴン総合病院(以下NYGH)にあり、このYGHにはなかったです。
このNYGHについては色々書くことがありますが、それは少し後に書きます。YGHとNYGHは基本的には二つを一体として運用しているようです。NYGHもUM1の研修病院です。

ミンチュー医師とは計画中のMRIについてお話ができました。そしてこの後は強いつながりが出来ていきます。

SGHを訪問しました。

以前の院長はNYGHに転任され、新しい院長のジャノウ医師と初めての面会です。この後、D会は色々寄贈するのですが、YGH、NYGHは色々な国が援助しているので、YGHについてはそれらの大きな支援に任せて、なかなか支援が届かないSGHを支援していこうことがD会のミャンマー関係者で決めていました。

UM2の研修病院としては、ヤンゴン市北部の北オカラッパ総合病院の方がベッド数も多く病院としての位置付けも上になります。ただSGHの方が建物が新しいのでMRi、CTなどの大型機材はSGHの方が適していると思います。ちなみに、SGHはサンピア総合病院ですが、サンピアの意味は”新しい”ということだそうです。

透析器については、担当のウィン医師とお話を。ウィン医師はUM2の腎臓内科教授です。

ウィン医師について少しばかり。

ウィン医師の旦那様はミャンマーでは大変著名な循環器医師のアン医師です。かなり厳しい先生で、私の友人のチュチュ口腔外科医に言わせると、”アン先生は怖い”でした。
ウィン医師は序列的にはミャンマーで2番の腎臓内科医です。1番はMOHのDepartmennt of Medical Reseachのパイン・ソー医師(以下ソーさん)となっています。1番と言うのは、UM1の教授だからです。ただ、ソーさんは当時のミャンマー国の1番のタンシェ議長の甥ですから忖度でもあったとは思います。



ウィン医師は腎臓内科医ですが、毒蛇に噛まれた時の対処にも精通された方です。ウィン医師からは”Snakebite”という言葉を初めて聞いた時はなんのこっちゃかわかりませんでしたが、多くの写真を見せられて説明していただいて”蛇に噛まれること、蛇に噛まれた傷”ということが分かりました(汗)。
日本には毒蛇は少ないですが、ミャンマーには蛇は多く毒蛇もそれなりにいることもウィン医師と会って知りました。D会の医師たちにも、透析器が毒蛇治療に有効であるということはあまり知られていませんでした。つまり、我々の寄贈が我々の思いとは違った毒蛇に噛まれたことへの治療に大いに役立ったということでした。

ウィン医師からは、ヤンゴン市内のサッカースタジアムで毒蛇に噛まれた人もいると聞きました。また毒蛇の治療には血清療法になるようですが、その場合毒蛇によって毒の成分が違うので噛まれた蛇がわからないと適正な結成を選べないので、噛まれた蛇を覚えてないといけないとか。それを聞いて思ったのは、そんなん無理!でした(笑)。WHOの支援のSnakebite対策のポスターもあり、農作業の時には長靴を履き魔性というのも見ました。
これらのことにより、私はウィン医師のことを、”ヘビのおばさん”と本人以外の時に使っていました(笑)。でもすっごくいい関係になり、SGHに行くときは絶えずウィン医師を訪ねていました。すると、彼女からは毎回ミャンマー産の石をプレゼントされました。翡翠とか色の濃いルビー(多分)とか。私もカミさんもそれらに興味がないので家で眠ってます(汗)

長くなってしまいましたので、この2001年二回目の出張訪緬については事項に続きます。

23に続く
Posted at 2024/09/22 10:27:10 | コメント(0) | トラックバック(0) | ミャンマー | 日記
2024年08月30日 イイね!

私のミャンマー 21


20からの続きです。

4月の出張訪緬から帰国後は、ごめんなさい寄贈であるニプロ製透析器4台(新品)の手配に追われました。今回の寄贈については、製造元のニプロ、販売のミャンマーユタニの協力があり、輸出入の煩わしいことを代行していただけるのでかなり楽でした(笑)。

私はミャンマー保健省(以下MOH)の海外窓口であるInternational Health Division(以下IHD)のDr. Pe Thet Htoon課長(以下ペーさん)と多い時は毎日か、一日おきにFAXするのですが、その返答はかなり遅れてくるか来ない時もあります。そのため今回はミャンマーユタニさんのローカルスタッフが催促に行ってくれました。そこで分かったことは、FAXのロール紙の排出口の前には排出された受信済みの物が山となっていたそうです。それを見たスタッフは、あれでは私が送ったFAXを読むまではかなり時間がかかると思いますよと。
それが分かってからは、急ぎのものはミャンマーユタニにFAXかメールしてペーさんに持って行ってもらうようにしました。

この時代は、日本の企業にはメールが送れました。ただし、遅い。ミャンマー国内に光ファイバーなどあるわけがなく、ISDNでもないただの電話回線でのモデムを使ってのメールです。軍はそれなりに使っていたと思いますが、民間はそんな状態で、ブラウザも見れたか覚えもありません。

そして、ここに新たな寄贈が浮上しました。1985年にD会に導入された日本で6番目のMRIの寄贈です。これは今となってはしょぼい(0.2テスラ)物ですが。
ここで、私は少しMRIについて勉強しました(汗)。

MRIの日本名は磁気共鳴画像のことで、機械についてはMRI装置になりますが、ここではMRIで書きます。この装置を使い画像を読むのは、放射線科医師、放射線科技師になりますが、MRIは磁場を発生させて画像を作りますので、放射線は使いません。MRIでは放射線被曝はありません。しかし、MRIの置いてある部屋には大きな磁場がありますから、その部屋に磁気記録されたカードとか、時計などはデータが飛んだり壊れたりします。

今回寄贈するMRIは天然磁石の物で、0.2テスラでは画像が粗いようです。現在の病院にあるMRIは超伝導(液体窒素かヘリウムで-270度(絶対零度近く)まで冷却します。1.5テスラ以上の磁力があります。

このMRIの部屋をシールドルーム(以下SR)と呼びます。CTのように放射線の機材用の放射線室は、放射線が外部に漏れないような構造にしますが、SRは逆に外から入ってくる色々なノイズになる電波、電磁波をカットする部屋です。つまり、放射線室とは真逆の考えです。

このようにMRIを寄贈することは、現地でSRが作れるかがカギになります。そのため、東京のミャンマー大使館で大使に相談しました。大使はこの年に交代されていました。軍関係者ということでは一緒ですが、軍医さんです。今日までにお会いした大使の中では一番です!温厚な方でした。
大使は、SRはミャンマーで作れないから、D会主導でSR建設含めて寄贈を考えてくれと言われました。そのことはあなたが一番よく知っているでしょうとも言われました。

大体の現地の環境がわかったので、IHDのペーさんにMRIがいるかどうかの打診をします。いつものことで、その返事には時間がかかりましたが、欲しいとのことでしたので、大使に聞いていましたがミャンマー側でSRの建設ができるかも聞きました。それについては即答に近く”できる”でした。もう半信半疑どころかウソだろうと思いました(笑)。相当時間が経ってから、ペーさんから”ごめん、放射線室と間違えた。SRは作れんからD会で頼む”と。やっぱりなーでした(笑)。

そうなってくると、これは大変です。
MRIは日立製ですので、日立に色々聞くことになります。最初は名古屋の営業の方でしたが、途中から技術職のT氏と話し合いをすることに。このT氏はとは現地の据付工事の指揮をとってくれましたこともあり、今でも交友があり私の大事な友人になっていただいてます。

SRの見積りが出てきますが、それは大きな額です。大工さんを数名派遣して約1週間かかりますからね。

そんな金がとなりますから、一応日本国の草の根無償資金協力も頭に入れて動きました。

そんな準備をして、寄贈ニプロ製透析器の現地到着、通関の日程にあわせて2001年12月に訪緬することになりました。

その出張訪緬については、22にて。

22に続く
Posted at 2024/08/30 09:55:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | ミャンマー | 日記
2024年08月28日 イイね!

私のミャンマー 20


19からの続きです。

この2001年は二回訪緬してました。2000年の透析器寄贈が思うような結果にならず、2000年訪緬から帰国後はそのごめんなさい寄贈をどうするかとかで、ミャンマー保健省にFAXした控えが大量にあります。その一つづつを読みながら思い出しています(汗)。

訪緬し寄贈に立ち会ったD会の副院長(以下副院長)からD会理事長に報告が上り、日本からの輸出の利便性、寄贈後のメンテナンスを考えてニプロ製にしてその手続等は現地事務所があるミャンマーユタニさんにお願いすることになりました。ここから私とミャンマーユタニのK社長との長〜いお付き合いが始まりました。

2001年の一回目の訪緬です。

ごめんなさい寄贈の計画があることを関係部所に伝へ、2000年に1台を寄贈したMandalay General Hospital(以下MGH)を見ること、Yangon General Hospital(以下YGH)、Sanpya General Hospital(以下SGH)の透析器環境のチェックを目的にです。

今回の訪問地のマンダレーはミャンマー第二の都市でミャンマー最後の王朝があった所です。3回にわたる英緬戦争で滅亡したコンバウン朝の首都で、この後はミャンマー(当時はビルマ)は英国の統治下に入ります。

マンダレーへはヤンゴン国際空港から国内線でマンダレー国際空港へ。

ここで笑い話が。マンダレーは当時のミャンマーの一番のタンシェ議長の故郷のようで、市内に近い古いマンダレー空港は市内から40Km離れた場所に新しく国際空港として整備されました。でも国際とは名ばかりで、私が降りた時には国際線は就航しておらず、ローカルのプロペラ機だけでした。整備された乗降用の蛇腹は位置が高すぎて利用されていませんでした(笑)。宝の持ち腐れ状態でした。

マンダレーでのホテルは覚えがありませんが、多分セドナだったような。
観光資源で考えると、ヤンゴンよりマンダレーの方があるように思います。旧王宮、マンダレーヒル(丘で丘そのものが寺)、多数の寺、ウー・ペイン橋(木造で1.2Km)とかです。ただし、旧王宮は再建されたもので、ハリボテでした(笑)。

ヤンゴンは自転車は禁止されていますが、マンダレーは禁止になってないようで自転車は多かったですね。ミャンマーで初めて自転屋さんろ見ました。

まずは、ヤンゴンの保健省から入場許可を得たMGHに行き、病院を案内していただきました。あまり覚えがないのですが、ヤンゴンのYGHよりは新しいのですが、やはりよ古さを感じました。そのMGHのことで思い出したことが。

当時のミャンマーには大企業ではなく、日本の地方の企業も進出されてました。岐阜のトキワさん(鉛筆)、広島の藤本さん(チーク材)とかです。トキワさんはその後撤退されましたが、藤本さんはチーク材の商売をされていて今もヤンゴンに支社があります。

さてそのトキワさんの現地に責任者の方に聞いた話です。トキワさんはマンダレーに工場があり、マンダレーの日本人の技術者の方が脳血管障害になりMGHに運ばれましたが、手術を拒否されたとのことでした。理由はあまりにMGHの非衛生的な環境を嫌ってとのことです。まあ、そのお気持ちは分かります。その後当時のAEA(可能な限り国外に患者を移送してタイ、シンガポールで治療する機関)にてシンガポールに移送して手術を受けて日本でちゃんと生活されているとのことでした。

MGHの透析機は3台あり、見てはいませんがフランスの団体から寄贈されたICU、救急車が4台もあるとのことでした。

ヤンゴンに戻り、保健省のInternational Health Division(以下IHD)の Dr. Pe Thet Htoon課長(以下ペーさん)にごめんさい寄贈の透析器4台寄贈の計画を伝えました。後述のYGHで聞いたRO(浄水器)のキャパ不足で新たな透析器を設置できないようなので、早急にROの増器をお願いしました。
この年もまた、ジュネーブでのWHOの会議の後に日本に大臣以下数名が来日する計画があるとのことでした。これは日本の口唇口蓋裂協会のインビテーションのようで、その時私は口唇口蓋裂協会のインビテーションであれば、私には関係ない話どと思っておりました。結果的に来日はなかった覚えです。

YGHにて院長、透析担当のドクター2名と面談して、ごめんなさい寄贈としてニプロ製透析器2台の寄贈を伝えました。でも、前回の寄贈時には問題なかったRO純水器)のキャパが一杯で新たな透析器が設置できないと聞きました。
ならば、病院からも保健省に新たなROの手配をお願いしてくださいとお願いしました。同時に私からもIHDのペーさんにお願いするとも伝えています。

この透析担当医の一人のDr.Thida(以下チダ)とは前年の透析器寄贈で出会っていました。



その時に感じたことですが、私の高校時時代の彼女(その後大学に進んでふられました(泪))とそっくりで。もうびっくりでした。彼女は私の3歳下になります。英国のHull大学に留学経験があるので、大変流暢なQueen’s Englishです。まあでも堅い。私のY談にはすぐに嫌な顔をします(汗)。

彼女とミャンマー語の通訳で知り合った歯科医のDr. Kyu Kyu(以下チュチュ)とは彼女は高校時代の同級生だったことも後に分かりました。この二人は今でも私の大事な友人です。ちなみに二人とも教授(腎臓内科医、口腔外科医)になり、ミャンマーのそれぞれの分野での一番になり定年を迎えています。


(2004年の写真ですが・・・)

この2001年4月のミャンマー国内ですが、スーチー女史の人気に少し翳りが見え始めてるのではとの意見も聞きました。YGHの救急関係の改修に日本のODAが使われるとYGHの院長から聞きました。アメリカのオルブライト国務長官も交代になり、少し動きがあるかなという期待が出てきた時でした。

21に続く
Posted at 2024/08/28 11:41:23 | コメント(0) | トラックバック(0) | ミャンマー | 日記
2024年08月26日 イイね!

私のミャンマー 19


18からの続きです。

ヤンゴン空港に4人を迎えに行ってから夕食に行きました。場所は前に書いていますが、まずは日本食の壱番館へ。

当時の一般駅な日本人のミャンマーへの思いの下記のようです。

・ミャンマーは軍事政権で怖い
・世界最貧民国になっているので、何も無い所

つまり、ガチガチに精神的防御してミャンマーに来ているのです。

で、4人は医療関係者ですから、私は衛生環境が悪いからと色々と状況説明していました。

軍事政権を恐れている人には、空港、空港からの街並みを見て、少しは安心するようです。

そして、私の経験ではこのような人の方が扱いやすかったです。特に酒が飲める人間ほど(笑)。

ミャンマービールは、ドイツの指導でできたとのこと。若干甘めですが、それはすっきりした大変美味しいビールです。酒飲みにはこれ飲ましたら一発でそのガチガチの鎧は脱ぎます!(笑)。私もこれを飲んでいる時は色々忘れてます。

この日本食の壱番館は、旦那さんがミャンマーユタニの経営者で、そこの一階で奥さんが壱番館をきりもりしていらっしゃいます。ミャンマーで日本食用の食材はほぼ無理ですが、多くはタイで調達できるので旦那さんの仕事でタイに行かれた時に調達し、タイで調達できない物は定期的に日本で調達してハンドキャリーされてました。つまり、日本のまんまです。奥さんが厳しく管理されていますから、衛生面も問題ありません、なので、ここで食事してる分には問題ないよと行ってますので、今回の4人はイチコロでした(笑)。この時はこれで問題なしですが、ごくたまに”こんなん本当のミャンマーではない。もっとローカルの所に連れて行け”となると大変です。まあほとんど無かったですが、救いは私に関係するのは医療関係者ばかりですから、衛生環境が悪いといえば泣く泣く納得してくれていました。

翌日からは、寄贈した透析器のチェックです。5台を寄贈していて、ヤンゴン市内にはヤンゴン総合病院(YGH)、サンピア総合病院(SGH)に計4台で、マンダレーのマンダレー総合病院(MGH)に1台です。
YGHにて試運転しますが、思うようになりません、H臨床工学技士(以下Hさん)が色々試しますが結果が出ません。SGHの透析機もYGHに移動して部品のいいとこ取りで1台でも動かそうと悪戦苦闘してくれました。なんとか1台は動くようになりました。

この5台が動くとして、その使い方を講義する時間も作ってあったのでマンダレーからはテイ医師がヤンゴンに来ていて一緒に修理をしていました。このテイ医師は後にミャンマーの腎臓内科医に一番になります。そのテイ医師家族も後に日本に来ることになり、京都で私の息子がテイ医師家族を案内することになり息子とテイ医師の娘さんたちとSNSで連絡とる関係ができたようです。

Hさんが頑張っている時に、私と副院長はこれと言ってすることもなく、検査器具を寄贈したNational Health Laboratory(国立衛生研究所。以下NHL)を訪問しました。所長に挨拶して、今寄贈した透析器で動かすために悪戦苦闘してますと言うと、動かないことへの批判はなく、むしろ色々助けてくれてありがとうと言われました。このことに副院長はびっくりして安心できたと言っていました。我々としてはデリバリーに時間がかかってしまったことへのモンクもあるのですがね。

その後は、寄贈品の簡単なセレモニーと、パーティです。

今回は、保健省の大臣、副大臣と局長(Director General)らとペー課長、モンモンリン係長と我々5人で夕食です。大臣、副大臣と一緒のテーブルには副院長、Hさんで、局長らとのテーブルには私と検査会社の3人で。

副院長のテーブルのミャウ副大臣は、最初は軍医さんで、ミャンマーで最初に透析を導入した人です。なので、透析には詳しいので副院長は大変だったと思います。ミャウ副大臣はとっつきにくいところもあるので(笑)。後で席割りでモンク言われるかなって心配でした(汗)。

私は食事中にチョウミン副大臣に ”このHさんが頑張ったのですが、やはりデリバリーに時間がかかって透析機にダメージがあったようでこのような結果になってすみません”と謝ると、チョウミン副大臣は ”Take it easy !”と励ましていただきました。こうして色々思いだしながらブログを書いていますが、チョウミンさんには会うたびごとに驚かされて(イチコロになっている)いました。チョウミンさんは今でも私の誕生日にSNSで連絡をいただきます。

副院長もこの時には思うところがあったようで、夕食が終わった後 ”おい、帰ったら理事長に新品の透析器で埋め合わせするように進言するわ。お前もちゃんとフォローせいよ!”と言われました。副院長も YGHで会った人達、NHLの所長、そしてこの夕食時の方々にイチコロ食らったんでしょうね(笑)。

何と書いていいか難しいのですが、ここにお会いした保健省の皆さんはインテリであることは間違いありませんが、ミャンマー人の方々が持っている人柄が相手を虜にすするんでしょうかね。

副院長はYGHでなかなか思うように透析機が動かなかた時私に ”おい、これで一台も動かんかったら俺らこの国でれんとちゃうか?”と怯えていました(笑)。でも予定を無事終了して無事出国できました。

2000年はこれで終了です。

20に続く
Posted at 2024/08/26 10:20:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | ミャンマー | 日記
2024年08月26日 イイね!

私のミャンマー 18


17からの続きです。

2000年の訪緬は遅れに遅れて9/10~9/16になってしまいました。
私はヤンゴンへは、最初の時はTGにてNGO-BKK、BKK-RGNと乗り継いでいて、その後ANAがKIX-RGNを開設したので関空までは新幹線とJRはるかで入っていました。しかしまだ軍政下のミャンマーですから搭乗率は悪く、以遠権もあったのでしょうか帰りのRGN-KIXをバンコク経由にしてRGN-BMM-KIXにしてバンコクからの帰国者を拾う作戦にしましたが、それでも行きの埋め合わせにはならなかったようですね。2000年にKIX-RGN線は休止になりました。

この 2000年の訪緬は名古屋空港からバンコク経由で全線TGにてです。幸か不幸か(本当は幸なんですが)エコノミーは満席で、ミャンマー保健省(以下保健省)とも何十回のFAXのやり取りで日程をFIXしていますから、今さら日程変更もできません。幸いビジネスには空きがあり、D会の了承も得られたので、ビジネスで訪緬となりました。今回は寄贈にご協力いただいた検査会社の方も同行されますので、その会社にもエコノミーは満席とは伝えてありました。でもその会社の方はエコノミーが取れたと。?でした。このNGO-BKK便はJALとTGのコードシェア便だったのです。私は墜落等があった場合の飛行機会社の補償金を考えて、アジア系の飛行機会社はなるべく使わず、コードシェアなら日本、欧米系の飛行機会社側で購入するようにしています。なのでこのNGO-BKK便はJAL側で購入しています。どうもこの検査会社の方はTG側でとったようです。TG側には空きがあったようです。多分、値段もTGの方が安いと思います。今となってはラッキーなことで、このことはD会側には伝わりませんでした。冷や汗ものでした(笑)。

一番の心配の透析器ですが、3月に病院を出てから半年の時間が経っています。今回同行してたD会の臨床工学技士はほぼ諦めていました。

同行と書きましたが、まずは私一人がヤンゴンに入って色々な調整です。真っ先に保健省のMinister Houseに行って、私が尊敬するProf. Kyaw Myintさん(以下チョウミンさん)に副大臣就任祝いのCoutesy callを。今までのミャウー副大臣も在任で副大臣二人になったようでした。
また、今まで海外との窓口であったInternational Health Division(以下IHD)のオーンチョウ課長はWHOのバングラディッシュ支所に出向になり、日本からの連絡はモンモンリン係長が代行していただいていましたが、新しくDr. Pe Thet Htoon(以下ペーさん)さんが課長になっていました。彼も医者で専門は熱帯医学です。なんでもそうですが、また一から関係作りです。

そう考えていた時に、ペーさんからランチのお誘いが。どうも副大臣になられたチョウミンさんから私をランチに連れて行けとの指示があったたようでした。連れて行ってくださったのは、Feel(多分そうだと思います)という どミャンマー料理ではなく、多少西洋っぽいところでした。その後、Feelを覚えてたま〜に行っていたように覚えています。ペーさんとはその後良好な関係になりました。

D会の副院長(以下副院長)、D会のH臨床工学技士(以下H技士)、検査会社さん2名はヤンゴン滞在は3日間なので、彼らが来る前に寄贈品のある場所の確認、寄贈式典、寄贈パーティの打ち合わせ、日本に企業の事務支所訪問とかをこなしました。

日本の企業も、商社のN社、T社の所長が交代になっていましたのでご挨拶を。N社の新所長は前からヤンゴン勤務でしたので知っている方でしたのですんなりです。

この時日本では大変なことになっていました。2000年9月11日〜12日の東海豪雨災害です。ホテルのNHKワールドで大体のことは分かっていましたが、ヤンゴンに来るべき4人が名古屋空港に行けるのか?バンコク行きの飛行機が飛べるのか? もう心配で心配で。帰国してわかったのですが、息子は当時隣町の私立中学に行っていて、どうも迎えに行かないと学校に泊まるようなジョウキュだったようです。カミさんはなんとか迎えに行けたようでしたが、冠水しているところが多くて大変だったとか。

長くなったので、4人が来てからことは次にして。

19に続く
Posted at 2024/08/26 08:57:25 | コメント(1) | トラックバック(0) | ミャンマー | 日記

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ロンバードです。 (2017年2月22日にニックネーム変更しました) 前に1988年CX GTI SeriⅡに乗っていました。黒のVISA GTも所有し...
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