19からの続きです。
この2001年は二回訪緬してました。2000年の透析器寄贈が思うような結果にならず、2000年訪緬から帰国後はそのごめんなさい寄贈をどうするかとかで、ミャンマー保健省にFAXした控えが大量にあります。その一つづつを読みながら思い出しています(汗)。
訪緬し寄贈に立ち会ったD会の副院長(以下副院長)からD会理事長に報告が上り、日本からの輸出の利便性、寄贈後のメンテナンスを考えてニプロ製にしてその手続等は現地事務所があるミャンマーユタニさんにお願いすることになりました。ここから私とミャンマーユタニのK社長との長〜いお付き合いが始まりました。
2001年の一回目の訪緬です。
ごめんなさい寄贈の計画があることを関係部所に伝へ、2000年に1台を寄贈したMandalay General Hospital(以下MGH)を見ること、Yangon General Hospital(以下YGH)、Sanpya General Hospital(以下SGH)の透析器環境のチェックを目的にです。
今回の訪問地のマンダレーはミャンマー第二の都市でミャンマー最後の王朝があった所です。3回にわたる英緬戦争で滅亡したコンバウン朝の首都で、この後はミャンマー(当時はビルマ)は英国の統治下に入ります。
マンダレーへはヤンゴン国際空港から国内線でマンダレー国際空港へ。
ここで笑い話が。マンダレーは当時のミャンマーの一番のタンシェ議長の故郷のようで、市内に近い古いマンダレー空港は市内から40Km離れた場所に新しく国際空港として整備されました。でも国際とは名ばかりで、私が降りた時には国際線は就航しておらず、ローカルのプロペラ機だけでした。整備された乗降用の蛇腹は位置が高すぎて利用されていませんでした(笑)。宝の持ち腐れ状態でした。
マンダレーでのホテルは覚えがありませんが、多分セドナだったような。
観光資源で考えると、ヤンゴンよりマンダレーの方があるように思います。旧王宮、マンダレーヒル(丘で丘そのものが寺)、多数の寺、ウー・ペイン橋(木造で1.2Km)とかです。ただし、旧王宮は再建されたもので、ハリボテでした(笑)。
ヤンゴンは自転車は禁止されていますが、マンダレーは禁止になってないようで自転車は多かったですね。ミャンマーで初めて自転屋さんろ見ました。
まずは、ヤンゴンの保健省から入場許可を得たMGHに行き、病院を案内していただきました。あまり覚えがないのですが、ヤンゴンのYGHよりは新しいのですが、やはりよ古さを感じました。そのMGHのことで思い出したことが。
当時のミャンマーには大企業ではなく、日本の地方の企業も進出されてました。岐阜のトキワさん(鉛筆)、広島の藤本さん(チーク材)とかです。トキワさんはその後撤退されましたが、藤本さんはチーク材の商売をされていて今もヤンゴンに支社があります。
さてそのトキワさんの現地に責任者の方に聞いた話です。トキワさんはマンダレーに工場があり、マンダレーの日本人の技術者の方が脳血管障害になりMGHに運ばれましたが、手術を拒否されたとのことでした。理由はあまりにMGHの非衛生的な環境を嫌ってとのことです。まあ、そのお気持ちは分かります。その後当時のAEA(可能な限り国外に患者を移送してタイ、シンガポールで治療する機関)にてシンガポールに移送して手術を受けて日本でちゃんと生活されているとのことでした。
MGHの透析機は3台あり、見てはいませんがフランスの団体から寄贈されたICU、救急車が4台もあるとのことでした。
ヤンゴンに戻り、保健省のInternational Health Division(以下IHD)の Dr. Pe Thet Htoon課長(以下ペーさん)にごめんさい寄贈の透析器4台寄贈の計画を伝えました。後述のYGHで聞いたRO(浄水器)のキャパ不足で新たな透析器を設置できないようなので、早急にROの増器をお願いしました。
この年もまた、ジュネーブでのWHOの会議の後に日本に大臣以下数名が来日する計画があるとのことでした。これは日本の口唇口蓋裂協会のインビテーションのようで、その時私は口唇口蓋裂協会のインビテーションであれば、私には関係ない話どと思っておりました。結果的に来日はなかった覚えです。
YGHにて院長、透析担当のドクター2名と面談して、ごめんなさい寄贈としてニプロ製透析器2台の寄贈を伝えました。でも、前回の寄贈時には問題なかったRO純水器)のキャパが一杯で新たな透析器が設置できないと聞きました。
ならば、病院からも保健省に新たなROの手配をお願いしてくださいとお願いしました。同時に私からもIHDのペーさんにお願いするとも伝えています。
この透析担当医の一人のDr.Thida(以下チダ)とは前年の透析器寄贈で出会っていました。
その時に感じたことですが、私の高校時時代の彼女(その後大学に進んでふられました(泪))とそっくりで。もうびっくりでした。彼女は私の3歳下になります。英国のHull大学に留学経験があるので、大変流暢なQueen’s Englishです。まあでも堅い。私のY談にはすぐに嫌な顔をします(汗)。
彼女とミャンマー語の通訳で知り合った歯科医のDr. Kyu Kyu(以下チュチュ)とは彼女は高校時代の同級生だったことも後に分かりました。この二人は今でも私の大事な友人です。ちなみに二人とも教授(腎臓内科医、口腔外科医)になり、ミャンマーのそれぞれの分野での一番になり定年を迎えています。
(2004年の写真ですが・・・)
この2001年4月のミャンマー国内ですが、スーチー女史の人気に少し翳りが見え始めてるのではとの意見も聞きました。YGHの救急関係の改修に日本のODAが使われるとYGHの院長から聞きました。アメリカのオルブライト国務長官も交代になり、少し動きがあるかなという期待が出てきた時でした。
21に続く
Posted at 2024/08/28 11:41:23 | |
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