(その1からの続き)
今回は、西国三十三所はないので、道も狭くないと判断で、C5で出かけます。
朝5:30前には自宅を出発。
当初は小國神社に近い森町ICまで新東名を走る予定でしたが、少し早すぎるので、東名で回り込みいなさICで降り、下道で小國神社へ。
朝一で、まだ社務所が開く時間より早いですので人はいません。コロナ安全です。
参道には写真のようなところが。
ここは遠江国(とおとうみのくに)一之宮です。自分の氏神様も一之宮ですが、こうして戦災にあっていない神社を見ると羨ましく思いますね。
独り者の息子のために速攻でお参り。
本殿です。
多分、この後は撮り忘れると思い、パチリ。
森町ICで新東名にのり、長澤沼津ICまで。そこから下道で南下です。
道中、修善寺の看板が。”そうかこの辺が修善寺ね”と夫婦でつぶやきます。温泉に興味のない夫婦の会話です(笑)。
浄蓮の滝の看板が。お恥ずかしい話で、私は知りません。カミさんは石川さゆりの歌にあったんではと。無知な夫婦の会話は進みます。
天城超えなる道の駅が。うーん、この辺が天城越え?天城峠をナビで探しますが、スケールを大きくしていて、天城峠が出ません。(天城山はありましたが)
と言っていると、天城峠の標識をカミさんが見たと。
やっと、ここで確信が持てました(笑)
伊豆の踊り子がやっと頭に浮かびます。私は川端康成の作品を読んだことがあるか?の疑問も同時に。多分読んでません。
そこでまた疑問。その踊り子は北から南か、南から北か?
と言うことを考えていて下田に近くなりました。計画では、まず先に下田市ペリーロード駐車場に車を停めて、市内を歩く予定でした。でも玉泉寺が近いので、玉泉寺を先に変更です。
まず、本堂に参拝。
その後、ハリス記念館に。
ハリス記念館とあるので、ハリスばっかかと思っていましたが、半分以上はペリーのことでした。
ペリー、ハリスの知識についてですが、完全ではありませんでした。私の大学受験は世界史でした。自慢話になってしまいますが、社会の三教科(世界史、日本史、政経)はどれも点は取れていました。つまり社会科は好きでした。私の時代の国立理科系は東大以外は社会は一科目でした。世界史、日本史で迷いましたが、私は古文がカラキシだめでしたので、日本史にでる資料の古文が重荷に。なので、世界史にしました。
つまり、この幕末から明治にかけては世界史に決めた後で、高校で日本史で試験勉強したかは・・・なんです。当然、中学ではやっていますので、日米和親条約、日米修好通商条約も頭にあります。
記念館の入り口にはこの時代の年表がありますので、まずは1853年のペリー来航からを確認します。
今回の計画を作るときに、ペリーロード、ハリス記念館が入りますので、少しばかり私なりの時代考証の確認はしてきました。そこでの疑問が、ペリーが浦賀に来たあと、幕府から翌年に来るようにと言われた後、彼はどこに行ったのか?
この記念館の記述では約200日以上の航海とありますから、米国に帰ったのではなく、沖縄とかに行っていたようです。まあ、納得。
ハリス記念館ですので、ここならでの記述が。
それは、”日米修好通商条約は不平等条約と非難されるが、そうではない。鎖国下の日本を開国に導き、公平な裁判が行われていない江戸時代に公平な裁判の観念を持ち込んだものである。米国からアヘンの持ち込みはなく、列強の中国統治とは違う”などです。
でも、明治政府は米国に限らず列強との不平等条約の変更のために奔走し、日清、日露で血を流したんですからね。これはいい条約と言われてもねえ。
カミさんは、ペリーとハリスのそれぞれの役割の違いがわかっていないようで、そこは後で説明しました(笑)。
ペリーロードの駐車場へ。
Google Mapのストリートビューでは最後のところが分からなかったのですが、何とか到着です。
係の人が、”ここは600円ですがいいですか?”と。”隣は?”と聞くと、”500円です”と。まあ、600円の方がアスファルトで線が引いてあるので、600円の所に。
係の人は観光協会の人のようで、少しばかりお話しを。前の疑問の踊り子はどっちに歩いていたのかを聞くと、北から南とのこと。大島に行くんじゃなかったかなあと。
一つの疑問は解消しました。
その係の人から、ペリー像の裏にペリー艦隊の絵がありますと聞いていたので、それも見て。たまたま出会ったご夫婦にもその艦隊の絵のことを。これは聞いてなかったらスルーでした。
ペリーロードは、ペリーは船で寝ていたようで、陸(了仙寺)で話がある時はこのペリー像がある所に上陸して了仙寺まで歩いた道のようです。
でもって、了仙寺です。
黒船ミュージアムなるものが、境内にありました。パワーポイントの上映がありましたが、ちょっと密を感じて入り口で見てましたがあまり興味深いものでなく(少し一般受けに振りすぎ)、早々に出てしまいました。
展示としては、ペリーと交渉役の林大学の交渉の記録がおもしろかったです。
ペリーは鎖国時の幕府に対して、米国海軍の燃料、食料補給と、天候が悪い時の寄港許可をの理由で交渉したようですが、ペリーの要求にそれを超えるものがあり(もっと江戸に近い場所とか)、林大学はそれは大義と違うと突っぱねたとか。
開港は下田、函館に限り、下田から七里までの行動規制をかけ、江戸には近ずけないようにしたとか。
う〜ん、読んでみて高校で出てきたようにも思えて、やっぱり幕末は勉強したのか?との自問自答も。
歩いて、宝福寺へ。
ここは、勝海舟が土佐藩主の山内容堂と龍馬の脱藩を許してほしいとの嘆願をした所とのことです。司馬遼太郎の”龍馬がゆく”を読んだのは40年くらい前なので、この史実は頭から消えてました(笑)。
なので、全然似てない龍馬の像がありました。
時間はまだ15時前です。
ビール(当然、まがい品です)、少々のツマミを買い込んでホテルに。
その3に続く