2011年3月11日。
その日は休みで、南伊豆の方に早咲きの桜を見にいこうと朝早くから当時の愛車・JB7ホンダ・ライフにてドライブしてました。
午後2時ごろから伊豆スカイラインに入って、終点の熱海峠まで目指してました。
ちょうど、NHKラジオを聴いてました。
午後2時46分、丁度熱海峠付近にいました。
ラジオから聞こえる声はこれまでにないものでした。
箱根の山から下界、箱根湯本に降りていく途中でも被害が刻一刻と伝えられてました。
山沿いの国道246号、海沿いの国道1号が通行止めになったのは小田原市内に入ってからでした。
(ここからの様子は2011年3月12日のブログを再掲します)
「帰りは箱根新道で下って、国道1号で、まぁ、夜6時ぐらいには家に着くかな」と地震の前はそう考えてました。
箱根峠に着いて、掲示板で「箱根新道・地震により全線通行止め」と・・・。
芦ノ湖の脇を通り、まさに「箱根駅伝」第6区の区間を下りました。
ところどころ混んでましたが、箱根湯本の駅までは1時間ぐらいで行けました。
もちろん、心配なのでラジオ(FMヨコハマとNHKのAM、FM)にして情報を聴いてました。
沿岸で「大津波警報」が発令され、海岸沿いの国道134号と西湘バイパス、まさに数時間前通った伊豆の国道135号や真鶴道路など、あと神奈川県内のすべての高速など有料道路が通行止めとなりました。
小田原市内に入ったあたりで・・・クルマが動かなくなりました。
大体それが3時45分ごろでした。
家にいた父から「家の被害は水槽の水がこぼれた程度だ、連絡くれ」とメールがきました。
返信して、渋滞の中にいました。
5時になり、6時になり・・・1km動くのがやっとなぐらい・・・。
そのうち、ガソリンがムダになるからエンジン切って「アイドリングストップ」状態でいました。
たまたま動かない中隣に食料品店(コンビニではなく、昔からの)があり、食べ物だけでもなんとかしないと・・・ということで。
「リッツ」クラッカーと自販機でウーロン茶を買いました。
そのリッツが結果的に昨日の夕食になりましたが・・・。
停まっている間、ラジオを聴きながら、みんカラや他のお友達のページでみなさんの安否確認をして、牛歩のごとく、1時間に数百メートルしか動けませんでした。
ラジオでは神奈川県で相当停電があり、わが鎌倉も・・・。
携帯もつながらないことがままあり、それが8時、9時まで続きました。
9時を過ぎたあたりで、小田厚と東名が通行止め解除になり、少しは動けるようになりました。
国府津手前あたりでみんカラブログ(止まっている状態の中で)書いて、国府津の駅あたりから二宮までは嘘みたいに流れました。
それが大磯まで続き、平塚市内に入りました。
そんな中で遅れて携帯メールが届き、親は無事ですが、家は停電、上司からで、職場は無事。
そして、何人かのお友達の方からも安否確認のメールが届きました。
この場を借りまして、厚く御礼申し上げます。
平塚に入ったのがもう11時半ぐらいでした。
これはもう自宅着が日付が変わるって覚悟はしてました。
平塚の馬入橋に入る前でまた止まり・・・牛歩状態でした。
馬入橋の途中で止まっているクルマ(故障?)があって、たぶんそれも渋滞原因でした。
新湘南バイパスも通行止め解除になったので、それに乗って、藤沢市内は比較的ガラガラで、鎌倉市内も流れていて、結局、午前0時40分ごろ自宅に無事到着しました。
40数km・小田原から鎌倉まで約9時間掛かりました。
疲れました・・・。
自宅の被害ですが、私の部屋はミニカー(コーヒーのおまけのチョロQ)や本が数冊棚から落ちて、床に落ちていたぐらいでした。
停電は午後3時から9時まで6時間だったそうです・・・。
その日は帰宅が午前1時頃になりました。
翌日以降、ガソリンスタンド渋滞になり、1週間以上続き、やっとのことで給油も満タン出来ず。
そして、関東は福島第一原発の被害などで電気の供給不足に陥り、「計画停電」で停電する時間ができました。
でも、一番被害が大きかった宮城・福島の人達に比べればまだ幸せだったと思います。
大事な家族・故郷など失った方も多いのですから。
あれから10年。
今、昨年来の「コロナウィルス」で再び日本は苦しんでます。
東日本大震災の余震も10年経った今でも起こってますし、南海トラフや東海大地震も昔からいつかは起こると言われています。
残念なことに、以前のような生活に完全に戻らないだろうと思います。
10年前も書きましたが、一日一日を大切に生きていきたい、そう思います。
Posted at 2021/03/11 16:45:10 | |
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