今回から数回に分けて、サラブレッドに関するウィキを上げてみようと思います。とりあえずはサラブレッドの始祖の話・・2回目は私の記憶に残る名馬の話・・3回目はそれらを踏まえた上でのトリビア・・って感じにしようと思っています。
「サラブレッド」と言うのはいろいろと語源があったり、3頭の馬から現在の競走馬が生まれてきていると言うのもなかなか知られてなかったりするんですが・・そういった所から紐解いていこうと思います。
○ サラブレッド(Thoroughbred)は18世紀にイギリスでアラブ馬や在来のハンター等から競走用に品種改良された軽種馬で・・競馬で勝つことのみを目的とし日々交配と淘汰とが繰り返されており、「人の創り出した最高の芸術品」とも呼ばれている。
○ 語源は「Thorough(徹底的に)」「bred(改良された品種)」らしい。その他、純血を意味するアラビア語が語源と言う話もある。
○ 体高(肩までの高さ)は160-170cmほど、体重は450~500kgが標準的。頭は小さく、四肢は長く、胸や臀部の筋肉は発達しており、速く走ることに向いている。だが、ケガをしやすく、物音や閃光に弱いなど、肉体的・精神的にデリケートである。
○ 現在の全てのサラブレッドは、父系(サイアーライン)を遡るとゴドルフィンアラビアン、バイアリーターク、ダーレイアラビアンのいずれかにたどりつく。これらを「三大始祖」という。
○ 上記それぞれの父系を実質的に発展させたマッチェム、ヘロド、エクリプスもほぼ同様の意味で三大始祖と呼ばれることがある。
○ 日本の生産規模は世界第4位を誇り、内9割程が北海道で生産されている。その中でも日高地方は特に重要である。次に多いのは青森県で、他、九州、茨城県等でも生産されている。日本における生産頭数は1992年の時点では10000頭を超えていたが、その後の景気低迷とともに減少傾向にあり、2004年には8200頭まで落ち込んだ。
・・・始祖の話はここまでですが・・基本的にはゴドルフィン・アラビアン→マッチェム・ダーレーアラビアン→エクリプス・バイアリーターク→ヘロドという系譜を3大始祖と呼ぶようになっているようです。(この→の間にはとてつもない系譜があったりするんですが・・大雑把に言えばこんな感じです。)
ここからは、3大始祖にまつわる話・・。
○ ダーレーアラビアン・・・「1704年イギリスのヨークシャーに渡ったダーレイアラビアンは、その後ダーレイ家の所有となった。1706-19年に種牡馬として供用され、この間交配された牝馬の数は数十頭。バイアリータークよりはかなり多いが、ゴドルフィンアラビアンよりは少ない。そしてこの中から6戦不敗、歴史的名馬フライングチルダーズ(Flying Childers)とその全弟で不出走のバトレットチルダース(Bartlet's Childers)を生み出した。
両馬はともに種牡馬として成功したが、現在より勢力が大きいのはひ孫にエクリプスを出したバトレットチルダースの子孫である。エクリプスは18世紀最強馬として名高い馬で、直系子孫は19世紀に入ってからというもの他系統を凌駕し、結果的に全サラブレッドの90%以上を占めるまでに拡大した。」
○ バイアリーターク・・・「ブダペストの戦いの後、ロバート・バイアリーは大佐に昇進し、バイアリータークも大佐の元で軍馬として活躍することになる。1689年アイルランドに派遣され、1690年アイルランドのボイン川の戦いでは、大佐は愛馬を駆りウィリアム3世側として参戦、反乱軍鎮圧に尽力した。バイアリータークに関わる具体的は、敵に包囲された際、バイアリータークの素早さのおかげで難なく脱出した話が残っている。他にも武勲を立て優秀な馬であった。
三大始祖の他2頭は競走には使われていないが、バイアリータークについては1690年(ボイン川の戦いの同年)に北アイルランドのダウンロイヤルで、競馬に勝ったという話がある。他にも出走した可能性はあるが、記録に残っているのはこの1戦のみである。」
○ ゴドルフィンアラビアン・・・「ゴドルフィンアラビアンは三大始祖の中でもっとも遅く1729年にイギリスに輸入されたとされている。しかしその生涯について信頼できる資料は少なく、かなりの部分が謎に包まれている。
イギリスに渡った後は、エドワード・コークの元で主に乗馬、当て馬として使われていたが、ホブゴブリン(ダーレイアラビアンの孫)がロクサーナとの種付けを嫌がったため代役としてゴドルフィンアラビアンを代わりに種付し、名馬ラスとケードが生まれた。ホブゴブリンとロクサーナをめぐり格闘し勝ち取った話も伝わっている(両者共に間違っている可能性がある)。どちらにせよ最初の交配でフライングチルダーズ以来の名馬といわれたラスが生まれ、次に生まれたケードは産駒にマッチェムを輩出し後世に血を残した。1733年にはコークが死亡したためロジャー・ウイリアムズの手に渡ったが、最終的にはゴドルフィン伯爵が購入した(資料により前後する)。
ラスとケードを出した結果、ゴドルフィンアラビアンはその後種牡馬として重用されることとなり、生涯におよそ90頭の産駒を残した。父方直系子孫は繁栄していないが現在でも残っている。
親友は右上の絵画にも描かれている猫のグルマンキンであった。ゴドルフィンアラビアンはとても気性の悪い馬だったが、このグルマンキンだけには心を開いていたという。ゴドルフィンアラビアンの死後、グルマンキンも後を追うようにしてすぐに死んだ。これにも逆の話が伝わっており、先に死んだのはグルマンキンの方で、ゴドルフィンアラビアンは以後猫が大嫌いになったとされる。
1753年にゴドルフィン伯爵のゴグマゴグ牧場で死亡、29歳の長寿だった。」
-ここからは子孫の三大始祖-
○ マッチェム・・・「マッチェムは優れた競走馬、種牡馬であったが、競走馬としてのエクリプスや、種牡馬としてのヘロドほど抜きん出た存在ではなかった。現役時代を紹介すると、当時の強豪トラヤヌスが出走していたニューマーケット競馬場の4マイル戦では、それを7分20秒の好タイムで破り(別者注:レースタイムが初めて正規に計られたのは1846年からであり、このタイムをそのまま信用する事は好ましくない。黎明期の競馬ではフライングチルダーズが1マイルを1分で走ったなど、誇張された逸話が伝えられているものだ)、さらにトラヤヌス陣営が馬の体調が悪かったと主張すると、翌年4月の再戦でも再びトラヤヌスを下している。負けたレースは1756年のジョッキークラブプレート(優勝馬スペクテイター)と翌年の同レース(優勝馬ミルザ)のみで全成績は12戦10勝と伝えられ、当時のトップホースの一頭と評価されている。
その後12歳で引退すると、1781年に33歳で死亡するまで現役種牡馬として活躍し、ヘロドが登場するまでの間マッチェム系を主流血統として発展させた。」
○ ヘロド・・・「ヘロドまたはキングヘロド(Herod、King Herod、1758年 - 1780年)は、18世紀後半に活躍したイギリスの競走馬・種牡馬である。サラブレッド種の成立に極めて大きな役割を負い、残した血量はあらゆる時代のいかなる種牡馬・繁殖牝馬をも凌駕している。馬名はヘロデ大王に由来、かつてはキングヘロドと呼ばれていた。
通算成績は10戦6勝で、一応一流と呼べるべき水準には達しているが、超一流とまでは行かない程度であった。
だが、引退後種牡馬入りするとヘロドの評価は急上昇する。馬主であるジョン・ムーアの元で種牡馬入りすると、当初は10ギニーと安い種付け料であったが、初年度からフロリゼルを輩出した。その後も18世紀三名馬の1頭に数えられるハイフライヤー(12戦無敗)などが活躍しヘロドの勢いは加速していった。同時期に三大始祖のもう一頭であるエクリプスも種牡馬として活躍していたが、エクリプス産駒の勝利頭数が344頭だったのに対して、ヘロドは497頭とそれを引き離していた。
このヘロドの影響は極めて大きく、今日のサラブレッドへの影響を血量に換算して計算すると、過去の種牡馬、繁殖牝馬のどれよりも高い数値を出す。ヘロドの成功は、サラブレッドという馬種の成立に少なからず貢献した。」
○ エクリプス・・・「エクリプス(Eclipse、1764年 - 1789年)は、18世紀後半に活躍したイギリスの競走馬・種牡馬である。18戦18勝の戦績に加え、サラブレッドの基礎を作ったと言われる。ことわざ「Eclipse first, the rest nowhere.」(意味 : 「唯一抜きん出て並ぶ者なし」
エクリプスは、極めて激しい気性を持ちながらも当時の競馬に適応した。18戦18勝(内ヒートレース7、マッチレース1、単走8)という成績を残し、かつ全ての競走が楽勝だった。エクリプスは18世紀の最強馬とされることが多い。少なくともこの時代最も重要な競走馬であり、かつ後世に最も知られているというのは確かである。
エクリプスには種牡馬としての功績もある。ポテイトーズやサージェント等を輩出し、この時代としては非常に多い344頭の産駒が競馬で勝利した。エプソムダービーは1780年の創設で、既にエクリプスは晩年に差し掛かっていたが、3頭の優勝馬を送り出した。父の父や母の父としても優秀で、サラブレッドの成立にも貢献した。今日のサラブレッドの父系(サイアーライン)と遡っていくとその95%までもがポテイトーズ、キングファーガスというエクリプスの2頭の産駒にたどり着くとされ、これらを総称してエクリプス系と呼ばれる。残り5%は同時代を生きていたマッチェムとヘロドの子孫である。
引退後はオケリーのもとで種牡馬として供用された。オケリーはエクリプスを利用して馬産家として成功した。なお、最初はクレイヒルで供用されていたが、24歳の時に2頭立ての幌付き馬車でミドルセックスのカノンズに移された。これ以前に競走馬が車で移動した例は無く、馬運車に初めて乗った馬ではないかとも言われている[12]。
1789年2月26日夜7時、疝痛(せんつう)により死亡、25歳であった[13]。カノンズで行われた葬儀には多くの人が集まり弔いのためにビールと菓子が供された。
エクリプス(とハイフライヤー)は産駒があまりに活躍するために競走では特別な負担を課せられることもあった。例えば第1回ジュライステークスの施行条件にはエクリプスとハイフライヤー産駒は負担重量を余計に3ポンド背負わなければならないといった無茶な条件が含まれていた
後世への影響は非常に強い。サラブレッドの血統を父の父の父…という風に父方に辿ると殆どがエクリプスに辿り着くと言われており、その勢力は実に95%に達するとまで言われる[20]。また、母系を合わせてのサラブレッドへの血統的影響はヘロド程ではないが非常に強く、血量にして優に10%を超えている
エクリプスを紹介する際に使われる有名な語句。デビュー戦でエクリプスが第1ヒートを圧勝した後に、オケリーが第2ヒートの全馬の着順を賭けてもいいと宣言した際に発言した。意味はエクリプス1着、他はどこにもいない(「Eclipse first, the rest nowhere.」)。つまりレースで他の馬の入着が認められないほどの大差をつけると宣言したことになる。結果、エクリプスが圧勝し、残りの馬は大差が付いたために失格、オケリーの予想が的中した。この言葉はのちに有名になり「圧倒する」という意の慣用句として主にイギリスで使用された(Eclipse単体を動詞で使うと「相手を凌駕する」の意になる)。英和辞典にも「唯一抜きん出て並ぶ者なし」の訳で掲載されたことがある」
・・・今回はやはり三菱繋がりでエクリプスという馬だけ結構多めに貼っときましたが、やはり伝説の馬のようです。まぁ当世代にエクリプスと同等の力を持った馬がいなかっただけかもしれないし、戦績はけっこうマユツバな所もあるようですが、ことわざにもなる通り、相手を圧倒するという名前に偽りは無かったようです。いい名前を三菱もつけたもんだ・・。次回に続きます。
・・・おっと・・YOUTUBE上げるの忘れていたorz
VIDEO
こちらは日本競馬界に革命をもたらせた種牡馬・・サンデーサイレンスのレース動画。見た感じやはりディープインパクトそっくりですね。2002年に急逝したサンデーサイレンスですが、その馬房は今はディープインパクトが使用しているそうですよ・・。