「犠牲者の分、精いっぱい生きる」=「1・17のつどい」に8000人
阪神大震災から15年となった17日、神戸市中央区の東遊園地には、夜明け前から遺族や被災者ら多くの市民が訪れ、それぞれに家族や友人らの冥福を祈った。
市民団体など主催の「阪神淡路大震災1・17のつどい」。午前7時には約8000人(市発表)が集まり祈りをささげた。幼児を連れた母親。車いすの高齢者。ある者は手を合わせ、ある者はろうそくの火を見詰めた。
参加者は「1・17」の数字をかたどった竹灯籠(とうろう)に火をともし、地震発生時刻の午前5時46分に全員で黙とう。遺族代表下浦裕美さん(49)が「感謝の気持ちを忘れず生きていくことが亡くなった方々への供養になると信じている」と話し、参列者らが白菊を献花した。
神戸市灘区の田中美栄子さん(68)は大学3年だった三女舞さん=当時(21)=を亡くした。夜が明け始めた空を見上げ、「この時間帯、私はがれきに埋まっていた」。
全壊した自宅から助け出され、近所の人を呼び集め舞さんを救出した。息をしておらず、唇は真っ青だった。付きっきりで見守ったが、「これ以上は無理です」と医師に告げられた。「最期の姿を思い出すと残念でならない。家族みんなが元気に生活することが娘への供養」と涙を流した。
幼なじみの親友3人を一度に亡くした神戸市須磨区の男性会社員(28)。竹灯籠の前でうずくまり涙を流した。震える手に握り締めていたのは、全壊した自宅から見つかった目覚まし時計。針は「5時46分」で止まっている。「きのうの出来事のよう。悔しいが、どんなにつらいことがあっても友達の分も精いっぱい生きようと思う」と唇をかんだ。
1月17日11時43分配信
時事通信
◇
5時46分、突き上げられるような衝撃に目が覚めた。
TVではまだほとんど何も伝えていない。急いで職場に出かける。
少しずつ詳しい状況が分かるに連れ、これは大変なことになったと緊張する。
前日の日曜日から、社員を神戸に出張させていた。宿泊先は三宮のホテル。持たせた携帯で安否を確認する。ベッドに頭を打ち付けた程度だと聞いてひとまず安心する。
その後、やや落ち着いた頃、
宿泊先ホテルの隣のアパートの1階部分が崩落、しばらく後に出火。助けを求めるアパートの入居者。サイレンを鳴らして走り回る消防車や救急車は来るはずもなかった。
彼は、ホテルの従業員とほかの宿泊者とともに長さ3mの板を渡し、ひとりずつホテルへ移した。
ついで消火栓からホースを伸ばして慣れない消火活動を。
その後、出張先のビルに徒歩で向かう。道路はいたるところで陥没。時間がかかる。
ようやく着いた出張先のビルには誰も出社していない。設備は床に転がり脚の踏み場もない。
勝手の分からないまま、彼はとにかく出来るところから仮復旧させる。
ひとり・ふたり、現地社員が出社。以後13日間に及ぶ奮闘が続く。
かろうじて繋がっていた通信も、完全に途絶。安否すら分からない。
TVは、次第に被害の大きさをまざまざと見せつける。
「うちのひと、いま、どうしているんですか?!」
彼の奥さんからの悲痛な電話。答えに窮する。
交通遮断ではこちらから出かけようもなく、彼が帰ってくる術もない。
15日目、パトカーに先導されて「凱旋」してきた彼を抱きしめたくなったのは、奥さんばかりではなかった。
のちに、彼が関西支店長から感謝状をもらったのは言うまでもない。
◇
北陸の地より、犠牲となった方ご家族の皆さんへ、こころから哀悼の意を表します。
Posted at 2010/01/17 14:13:43 | |
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