2007年10月08日
オートバイレーサーの阿部典史さんが昨夜(7日の夜)オートバイで走行中に事故に逢ってしまい亡くなってしまったとの事です。
独特なライディングスタイルが大好きで、94年のWGP日本GPでは、世界の強豪たちとのトップ争いを見せてくれて、96年にWGP日本GPで優勝した時なんて全身鳥肌物で応援し、大歓喜を与えてくれた偉大な人が、また一人亡くなってしまうなんて・・・泣けてしまいます。
以下に、スポニチの記事も載せておきます。
オートバイレーサーの阿部典史さん(32)が7日午後6時20分ごろ、川崎市川崎区大島1丁目の市道でオートバイを運転中、Uターンしてきた横浜市の運送会社のトラックと衝突。阿部さんは病院に搬送されたが、全身を強く打ち、間もなく死亡した。
川崎署によると、現場は片側2車線の中央分離帯がない直線道路で、左車線を走行していた4トントラックがUターンしようとしたところ、右後方からきた阿部さんのオートバイが衝突したという。阿部さんは意識はあったが、運ばれた病院で午後8時52分に死亡した。現場の道路はUターン禁止だった。トラック運転手は配送中だったそうで、飲酒の形跡はないという。同署が自動車運転過失致死の疑いでトラックの運転手(51)から、さらに詳しく事情を聴いている。
阿部さんは1993年に全日本ロードレース選手権500CCクラスで史上最年少の18歳で優勝。94年にはWGP日本GPに参戦し、シュワンツ、ドゥーハンら世界の強豪とトップ争いを繰り広げた。残り3周で転倒しリタイアしたが、この時の走りは強烈な印象を残した。01年から最高峰クラスで5年連続年間王者に輝いたバレンティーノ・ロッシが阿部さんの名前を引き合いに「ロッシフミ」と名乗るなど、その走りは世界のライダーに影響を与えた。
96年の日本GPでは82年の片山敬済以来となる日本人ライダーによる最高峰クラスでの優勝を飾った。20歳227日での優勝はフレディー・スペンサーの20歳196日に次ぐ史上2番目の若さだった。99年にリオデジャネイロGP、2000年に再び日本GPで優勝。世界の舞台で計17回も表彰台に立った日本人レーサーとして日本だけでなく欧州のファンの間でも「ノリック」の愛称で人気は高かった。
05年からスーパーバイク世界選手権に参戦し、今年からは全日本ロードレース選手権に13年ぶりに復帰。阿部さんは「日本のファンの前で限界以上の走りをしなくちゃね」と話していたが、その思いも突然の事故で、あっけなく終わってしまった。
◆阿部 典史(あべ・のりふみ)1975年(昭50)9月7日、東京都世田谷区出身。3度の賞金王に輝いたオートレーサーの父・光雄さんの影響で5歳の頃からバイクに親しむ。八幡中学卒業後渡米し、ケニー・ロバーツのもとにバイク留学。全日本ロードレース選手権フル参戦1年目の93年に最高峰クラスの500CCクラスで史上最年少の18歳で王者に輝いた。94年にロードレース世界選手権(WGP)の日本GPにスポット参戦し、トップ争いを繰り広げながら残り3周でリタイア。翌95年からフル参戦し、96年の日本GPで日本人2人目の最高峰クラス500CCクラスの優勝を飾った。07年から13年ぶりに全日本ロードレース選手権に復帰した。愛称はノリック。
Posted at 2007/10/08 06:52:44 | |
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