1567年、真田幸村は武田家に仕える信濃国(長野県)に昌幸の次男として、誕生しました。
幸村は初陣の時、わずか三百の兵で四万余りの敵に遭遇するものの、闇夜にまぎれて奇襲攻撃をしかけ敵を大混乱させるなど、若くして父譲りの軍才を発揮します。
その後、1600年の関ヶ原の戦いでは、父・昌幸と幸村は西軍に、兄・信幸は東軍につくことになります。昌幸と幸村は上田城で東軍の徳川秀忠軍を食い止め、決戦場(関ヶ原)に遅参させるなど奮闘したものの、肝心の関ヶ原では、西軍が敗れてしまいます。徳川家康は昌幸と幸村を死罪にするつもりでしたが、兄・信幸と義父・本多忠勝の懇願もあり、特例として2人に高野山での謹慎を命じました。
高野山があまりにも寒かったため、その年の冬に高野山の麓・九度山に移り住み、来るべき日に備えて兵術や水練の特訓を重ねます。また、刀の柄に巻く丈夫な真田紐を織り、家来に全国各地に売り歩かせて、諸国の動静を探ったり、資金集めをしたりしていたと言われています。
しかし、父・昌幸は再起の夢も虚しく、1611年に病死しました。その後の幸村は、兄・信幸の仕送りに頼るほどの苦しい生活を送っていました。
やがて、豊臣と徳川の関係が悪化すると、豊臣の使者が「徳川を滅ぼすため、幸村殿の力を貸していただきたい。」と幸村のもとに尋ねてきます。幸村は感極まって、すぐさま快諾します。14年間住んだ九度山で、幸村は周辺の農民とも親しくなっており、幸村の心境を察した農民は幸村親子の出立に協力したようです。こうして、幸村は九度山の人々に温かく見送られながら、妻と子・大助とともに大坂城に入城します。
1614年、大坂冬の陣が始まる時、幸村は精鋭部隊の証である鎧や武具を赤に統一し、「真田の赤備え」として、戦場で目立つ結束と武勇を示しました。幸村は、大坂城南側に土作りの頑固な出丸「真田丸」を築いて徳川の大軍を迎え討ち、その武名を天下に知らしめしました。翌年、大坂夏の陣でもわずかな兵で家康を狙い、戦列を変えて3度も本陣への突撃を繰り返すなど、家康に自害を覚悟させるほど追いつめましたが、怪我をして休んでいるところを討ち取られてしまいます。享年49歳でした。
その後、幸村は徳川軍として参戦した薩摩国(鹿児島県)の島津家に「真田日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)古(いにしえ)よりの物語にもこれなき由(よし)」と賞賛されるなど、幸村に仕えたと言われる「真田十勇士」とともに語り継がれ、今もなお根強い人気を誇っています。
(南海電鉄HP参照)
徳川文化な和歌山県にも、豊臣を支持した町が有ったんですね~。
てか、私は両者に関係なく織田信長の大ファンなのですが・・・
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