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ラスト サンバーのブログ一覧

2016年07月07日 イイね!

南海・真田赤備え列車などなど・・

南海・真田赤備え列車などなど・・

南海・真田赤備え列車・・・・・


NHKの大河ドラマ「真田丸」の放映を記念して、真田幸村が晩年を過ごした和歌山県九度山町への旅客誘致施策として南海電鉄さんが在来車にラッピングを施した特別列車です。。


昨年の11月1日に私が毎日使う通勤路線の南海電鉄さんにデビューして以来、ずっと乗りたかった車両ですが、遂に本日、遭遇することが出来ました。



南海車両、総勢686両中のたった4両ですから、今まで乗れなかったのも納得・・・・

今日はいつも通勤に使うのとは異なる早朝時間帯の電車に乗ったので、遭遇することができました。。




私が愛用する座席・・・・

国鉄113系近郊型電車を彷彿させる車端部のセミクロスシート・・・・

暗い赤色のシート地に六文銭の真田家の家紋があしらわれていました。。



車両中央部の「超ロングシート」も同様のデザイン・・・・・



但し、2エンド側のセミクロスシートは「優先座席」のため、そこは南海さんらしく、若草色のモケットが使用されています。



ドア部分は白くて明るいデコラ板に映える様、黒色に仕上げられていて、アクセントとなっています。
しかも黒いドアをよく見ると、小さな六文銭の家紋があしらわれていて、さりげなく凝ったデザインが施されています。



「真田・九度山」のシンボルマーク「結び雁金(かりがね)」のマークも至る所に施されています。



窓ガラスにも・・・


正面貫通扉にも・・・



そして、窓と窓の間にも・・・


「高野山極楽橋/後部4両橋本」の表示がマニア心をくすぐります。
つまり、都会は8両編成で運転し、山岳区間は後ろ4に連結されている4両の一般車両を切り離し、高野山には「赤備え列車」の4両のみが直通するという意味です。






そして、今日はこの列車に乗って何処に何をしに行ったかと言うと・・・・



連れと共に南海線の二色の浜付近へ電車のサイドビューの撮影・・・

電車を真横から柵などの障害物無しで撮影出来る場所は南海沿線では他にはありません。
因みのこの場所は私有地ですが、きちんと地主さんの承諾を得て、撮影しています。



列車のサイドビューの撮影というマニアックな趣味も、稲穂が伸びる時期には出来ませんので、今がギリギリいっぱいのところで、この時季を逃すと秋の収穫後ということになってしまいます。



この場は車両の東側の撮影となるので、順光となる早朝を選びました。

しかし、やっと見つけたこの場所も、ご覧の杭1本が有るだけで、下り列車の床下機器と被ってしまい、上り列車だけしか撮影出来ないというハンディがある事に気が付き・・・・
これがために南海線を走る全車種の撮影にはほぼ正午前まで時間がかかってしまい、危うく熱中症を惹起させてしまうところでした。。

しかも今日は、私のカメラのメモリを忘れてきてしまった為、連れのカメラだけ・・・・・
つまり予備カメラ無しの1本勝負となってしまいました。。



そして午後からは、西側の撮影のため、また違う場所へ移動・・・・



こちらは午後から順光ですが、まだまだ太陽が高く・・・・

2人とも熱中症寸前状態になりながらも辛うじて全車種の撮影に成功。。

ほんと、なんでこんな死にそうな目に遭いながらわざわざ電車を撮影するのか、自分自身でも意味不明になってしまいました。。。

辛くて危険な断崖絶壁の山を登る時の一瞬の後悔とよく似ています。。



そして帰宅すると・・・・・





ネットでポチっと逝ってしまった阪急6300系「京トレイン」が届いていました。

妻に怒られるのももう慣れっこです。。



流石、阪急電鉄さん監修だけあって、ケースもマルーンの専用デザインが施されたものが使用されています。。。。


知る人ぞ知る、ネット市場で瞬間消滅してしまった幻の逸品です。。



その後、メーカーさんに瞬消えの苦情が殺到し、ある程度の再生産を発表していますが、マニアにとっては垂涎の初回ロッド品となりました。。




てか、阪急さんはやっぱ関西では絶大な人気を誇りますね。。。

・・・・てな具合で、今日は非常に鉄分の濃い一日となりました。。



以下は真田幸村の解説です、興味のある方はどうぞ・・・


戦国武将 真田幸村誕生

1567年、真田幸村は武田家に仕える信濃国(長野県)に昌幸の次男として、誕生しました。
幸村は初陣の時、わずか三百の兵で四万余りの敵に遭遇するものの、闇夜にまぎれて奇襲攻撃をしかけ敵を大混乱させるなど、若くして父譲りの軍才を発揮します。

その後、1600年の関ヶ原の戦いでは、父・昌幸と幸村は西軍に、兄・信幸は東軍につくことになります。昌幸と幸村は上田城で東軍の徳川秀忠軍を食い止め、決戦場(関ヶ原)に遅参させるなど奮闘したものの、肝心の関ヶ原では、西軍が敗れてしまいます。徳川家康は昌幸と幸村を死罪にするつもりでしたが、兄・信幸と義父・本多忠勝の懇願もあり、特例として2人に高野山での謹慎を命じました。



九度山での忍耐の日々

高野山があまりにも寒かったため、その年の冬に高野山の麓・九度山に移り住み、来るべき日に備えて兵術や水練の特訓を重ねます。また、刀の柄に巻く丈夫な真田紐を織り、家来に全国各地に売り歩かせて、諸国の動静を探ったり、資金集めをしたりしていたと言われています。

しかし、父・昌幸は再起の夢も虚しく、1611年に病死しました。その後の幸村は、兄・信幸の仕送りに頼るほどの苦しい生活を送っていました。


九度山からいざ激闘の地へ

やがて、豊臣と徳川の関係が悪化すると、豊臣の使者が「徳川を滅ぼすため、幸村殿の力を貸していただきたい。」と幸村のもとに尋ねてきます。幸村は感極まって、すぐさま快諾します。14年間住んだ九度山で、幸村は周辺の農民とも親しくなっており、幸村の心境を察した農民は幸村親子の出立に協力したようです。こうして、幸村は九度山の人々に温かく見送られながら、妻と子・大助とともに大坂城に入城します。


徳川軍も認める武将としての真田幸村

1614年、大坂冬の陣が始まる時、幸村は精鋭部隊の証である鎧や武具を赤に統一し、「真田の赤備え」として、戦場で目立つ結束と武勇を示しました。幸村は、大坂城南側に土作りの頑固な出丸「真田丸」を築いて徳川の大軍を迎え討ち、その武名を天下に知らしめしました。翌年、大坂夏の陣でもわずかな兵で家康を狙い、戦列を変えて3度も本陣への突撃を繰り返すなど、家康に自害を覚悟させるほど追いつめましたが、怪我をして休んでいるところを討ち取られてしまいます。享年49歳でした。

その後、幸村は徳川軍として参戦した薩摩国(鹿児島県)の島津家に「真田日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)古(いにしえ)よりの物語にもこれなき由(よし)」と賞賛されるなど、幸村に仕えたと言われる「真田十勇士」とともに語り継がれ、今もなお根強い人気を誇っています。


(南海電鉄HP参照)

徳川文化な和歌山県にも、豊臣を支持した町が有ったんですね~。

てか、私は両者に関係なく織田信長の大ファンなのですが・・・

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「生徒達と「祈りの杜」訪問  http://cvw.jp/b/860472/48596363/
何シテル?   08/12 23:11
ラスト サンバーです。よろしくお願いします。 サイドに大きな六連星を施し、ヒサシ(国鉄・上越型EF58の氷柱切りとも言う)を取り付けたデザインのサンバーは、主...
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