大阪から奈良へ向かうには関西人感覚では近鉄さん利用が一般的ですが、難波の雑踏を歩くのが嫌だと仰る諸先輩方のご意見で、新今宮駅から乗れるJRさん利用と相成りました。
車両もJRさんの方がオールクロスシートの221系でゴージャスですからね~(^^♪
山屋は綿密なルートの打ち合わせが最も事前行動で重要だという事が昭和生まれ登山家の常識です。('◇')ゞ
全員が地図を暗記したうえで、人の案内に頼ることなく歩きます。。
左が隊長の84歳になられた大先輩です。(^^♪
今でも現役の登山家で、諸外国の山々など、バリバリに歩いておられます。
頭は禿げておられますが、お顔の色艶もよく、お元気そのものです。
(≧▽≦)
右側は今年76歳になられた大先輩Tさんです。(≧▽≦)
自分が76歳や84歳になった時に生きているかの問題も含めて、こうで居られるかどうか、甚だ疑問です。 (´・_・`)
予定通りJR奈良駅に到着!
最後列の青色のウエアを着ているのが今回のメンバーで最若年のN君、唯一の40歳台です。
(^^♪
バス停でも隊長と副隊長のSさんが地図を頼りに綿密な打ち合わせをしています。('◇')ゞ
昭和な登山隊は電子機器に頼るのはあくまでも最終手段で、長年の経験と紙ベースの地図により考察するのがあくまでも基本です。(^^)v
やがてバスが到着し、全員乗り込みます。
私は高校生の時、どうしても将来は電車の運転士になりたくて、父親の大反対を押し切り、当時も今も早期に受験が有ることで知られる某大学校受験に合格していたにも拘わらず、それを放棄して父御と大乱闘の親子喧嘩の上、某私鉄の2次募集に応募しました。
2次募集とあるのは、本来、国鉄に就職したかったのですが、国鉄が赤字経営で私の受験する年から募集を打ち切ってしまった為、当時の運輸省の計らいで、国鉄受験生に民鉄の二次募集が行われ、それに応募したものでした。
鉄道マニアであるが故に鉄道会社受験に命を懸けて人一倍研究して勉強していましたので、幸い不合格になる事も無く、1983年に18歳で鉄道会社に駅員として就職、(モチロン運転士に最速でなれる鉄道会社に就職しました。)
翌年、マニアックな営業業務の出題の有る車掌試験も不合格になることもなく、19歳で車掌に合格。
車掌を10ヵ月すれば運転士試験を受けれましたので、これもマニアック過ぎる出題故、全く勉強が苦にならずクリア。(^^♪
1年間、運輸省(当時)指定の甲種動力車養成所に通い、見習い運転士を経て、国家試験を受け、某通勤路線の運転士に最年少の20歳で運転士になることが出来ました。
当時のNHKのTV番組で「成人式の日に働く20歳の電車の運転士さん」というタイトルで出演させていただいたことは今でも忘れられません。(≧▽≦)
私の人生の中で最幸の瞬間で、今となっても唯一忘れられないボケ老人たる私の過去の栄光です。(≧▽≦)
そして、その時以降の運命の出会いで、公私に渡りお世話になり続けたのがこの先輩の方々という訳です。(≧▽≦)
先輩方と出会ってからというもの、毎日毎日会社に行くのが楽しくて仕方がないという状況が続きました。
仕事が終われば決まって先輩らと待ち合わせをして飲みに行って楽しくも厳しくも、公私共にご指導を受けました。(≧▽≦)
バスも予定通り目的地に到着し、のんびりとした楽チン山歩きが始まります。(≧▽≦)
オッチョコチョイで鈍臭い私が、運転士しているのが怖くなって、会社を辞めようと思った時も励ましてくださった恩人です。。
諸先輩方は定年まで運転業務を全うされましたが、そこまで運転業務をし続ける人は本当に冷静に自分自身ををコントロール出来る達人だと思いました。
息子さんが交通事故でお亡くなりになった時にも運転していた先輩。
奥様がお産の時も運転しておられた先輩。。
豪雨による線路流出で電車の中に2泊された先輩等々。。
私の場合はとある駅で6両編成を8両編成と間違えて停車してから、一気に運転士が自分で向いていないと思う様になりました。
もし、6両位置から8両位置の間で線路作業員がホーム下で作業していたら、轢き殺してしまうところだと思うとゾッとしました。
ホームの直ぐ先に踏切が有る様な駅では、たった1m行き過ぎただけでも、踏切を横断する人を轢き殺してしまうかも知れません。
人身事故も運転士だった約6年間で3回も当たりました。
事故のフラッシュバックは今でもたまに起こります。
踏切で立ち往生した自動車とも1回衝突し、
40年間運転士をしていて犬も轢いたことが無い人も多い中、
車掌達からは私と乗るのを嫌がられる始末。。(ノД`)・゜・。
そんな大好きだった運転士業務に行き詰まっている時に、
「上司になる試験受けろや」ってアドバイスしてくださったのも諸先輩方でした。
歩き始めはお寺の庭園です。。(≧▽≦)
案内板がよく整備されていて、自分たちの行き先を確認することが出来ます。
本当にもう私も57歳になたというのに、大先輩達と居ると我を忘れて20歳台当時の過去に戻った様な気分になれて、最高に幸せです。(≧▽≦)
古道ゆえ、石仏が並んでいます。(^^♪
歩きやすい道です。
隊長が先頭、副隊長が次位、2人挟んで私が最後尾のアンカーというスタイルは本当にもう山にご一緒させていただいてから30年間変わっていません。(≧▽≦)
水田地帯。。(≧▽≦)
昔ながらのお茶屋。。(≧▽≦)
そんなこんなで運転士業務に行き詰った私は、先輩のアドバイスを受けつつ、上司になる試験を受験し、会社を辞めることなく26歳で助役という監督職になりました。
当時、隊長は50歳台、副隊長は40歳台。。。
親子ほど歳が違いました。
当時は労働運動が強烈で、同じ労働者の中でも「乗務員の敵は助役」という風潮が有りましたが、そんな中でも本当に息子を見る目で私を守ってくださいました。
また、乱暴な言葉で詰め寄ってくる者が居ても、「あいつはあんな感じだけど本当は真面目で良い奴だから」と仲間をかばうなど、本当に人間がよくできた先輩達でした。(≧▽≦)
そんなこんなで、会社へ来るのが楽しくて仕方なかった当時を思い出すと、思わず最後尾でその当時と何ら変わらない先輩方を見ていると目頭が熱くなってしまいました。
40歳台のN君は唯一そんな古き良き時代を理解してくれる、数少ない後輩です。(≧▽≦)
その後、私は34歳でそんな毎日が楽し過ぎる職場を去ることになるのですが、それ以降も年賀状やお電話、メール等で連絡をくださり、お付き合いは延々と今日に至っております。(≧▽≦)
切り立った崖を通過。。
倒木地帯を通過。。
歴史ある街道です。
やがて、公園の様なところに出て。。。
ランチタイムです。(≧▽≦)
手前から、隊長、副隊長、そして私です。
後輩のN君がなんとリュックの中に重たいクーラーボックスを担いで来てくれていて、冷たいビールのサプライズです!(≧▽≦)
私もN君の様な気遣いが出来る人間にならねばと後輩からも勉強させられました。(^^♪
首切り地蔵とな・・・(;゚Д゚)
歴史的価値のある岩らしいです。(´・_・`)
住宅街に出て。。
奈良公園でゴールと相成りました。。(^^♪
いやぁ、また機会が有れば是非また声を掛けて頂きたいです。。
この日は古き良き時代の思い出に花を咲かせることが出来、57歳のジジイにとっては最幸ほ日でした。(^^♪
諸先輩方は難波歩きが苦手だと仰るので、解散後、コッソリとなんばCITYの旭屋書店へ戻って、
今後の山歩き、廃線跡歩きのためにご覧の様な本を買いました。。
これだけで約1万円弱!
なんと本もかなりお高くなりましたよね~。(;゚Д゚)